熊野古道世界遺産ウォーキング定例会

 令和6年度 世界遺産ウォークのコース(8巡目 

第305回 4月21日(日) JR山中渓駅~JR紀伊駅    約11km

第306回 5月19日(日) JR紀伊駅 ~JR布施屋駅           約  8km

第307回 6月16日(日) JR布施屋駅 ~伊太祁曽駅                     約   7km

第308回 7月21日(日) 伊太祁曽駅 ~JR海南駅                      約8.5km

第309回 8月18日(日) JR海南駅 ~JR冷水駅                   約  8km

第310回 9月15日(日) JR冷水駅 ~JR加茂郷駅           約11km

第311回 10月20日(日) JR加茂郷駅~JR紀伊宮原駅           約12km

第312回 11月17日(日) 第9回ピースウォーク 極楽橋~不動坂~不動坂女人堂

第313回 12月15日(日) JR紀伊宮原駅~JR湯浅駅               約  7km

第314回 1月19日(日) 「山之辺の道」柳本駅~天理駅  約  8km

第315回 2月16日(日) 二河峠(那智勝浦町)           約11km

第316回 3月16日(日) JR湯浅駅~JR紀伊内原駅        約17km

朝歩きたくなったら集合場所にお越しください。飲料水と参加費(傷害保険代と資料代)500円は忘れずに!!


★「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録20周年事業を開催します。(参加者:小学校高学年まで/親子参加OKです)

  開催日11月3日(祝)9~15時  会場:海南市 春日神社 

  令和6年度子どもゆめ基金 「世界遺産登録20周年記念事業 Go!Go!くまのこどう体験会」

第307回定会 令和6年6月16日(日)コース:JR布施屋駅~伊太祁曽駅 約7km  

天気予報は前日まで雨で、3か月続けて雨の中での定例会かぁと諦めていたところ曇り空に変り助かりました。

朝、布施屋駅前の広場で受付を開始してびっくり!なんと39名の方に参加いただきました。出発時の準備や説明が手間取り20分遅れて出発しました。

JR布施屋駅周の和佐地区は昔から「和佐歴史研究会」の皆さんが、古道の分かれ道に看板を設置し迷子にならないように促してくれています。

先ず川端王子跡へ立ち寄りました。

「紀伊続風土記」には、「小栗街道(熊野街道の別名)にあり、今、村中に移す」と記されています。

また、建仁元年の後鳥羽上皇の熊野詣でに随行した藤原定家の「御幸記」には「川端王子」の名前はみえず、それ以後に設置された王子社とも考えられます。

続いて小栗橋へ向かうと地元の方々がお掃除をされていました。「熱中症に気を付けて」と声をかけてもらって別れました。

そして、田植えの終わった水田のさわやかな香りに包まれながら重要文化財の旧中筋家住宅へ向かいました。

旧中筋家住宅は、敷地の東側が熊野古道に面しており、江戸時代後期の和佐組大庄屋にふさわしい屋敷構えを残しています。

嘉永5年(1852)建築の主屋は、三階の望山楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家です。

戦後、楫本重一氏の所有となり維持管理され、昭和49年(1974)主屋のほか表門・長屋蔵・北蔵・内蔵・御成門の付属建物が国の重要文化財に指定されましたその後、和歌山市が管理団体となり平成12年(2000)から約10年間にわたって保存修理事業を行ない一般公開しています。

続いて高積山の麓にある歓喜寺へ向かいました。

後鳥羽上皇ゆかりの寺院で、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、熊野詣の人々に便宜をはかる目的で接待所を設けていました。

また所蔵する鎌倉時代, 室町時代, 安土桃山時代, 江戸時代の9巻の巻子本と21通の『歓喜寺文書』は、中世史料の少ない紀ノ川下流地域には貴重で和歌山県指定重要文化財昭和41年(1966)に指定されています。特に嘉暦2(1327)の和与(訴訟における和解)関係や熊野参詣者の接待に関する異色の資料があります。境内にある柏槙は平成3年(1991)和歌山市指定文化財天然記念物に登録されています。

そして、3mを超えるのではないかと思われる徳本上人の「南無阿弥陀仏」の名号塔があります。

 そこから、和佐王子跡、和佐大八郎の墓に立ち寄り、矢田峠を越えました。

峠を下る道からはずっとアスファルトの道になり、平緒(尾)王子跡までは車道路肩の細い道を歩き進みました。

時折日も差しアスファルトの照返しで気温も上昇してきたので少し急いで歩きました

平緒(尾)王子跡の説明版には「紀伊国名所図会」が張られていて、江戸時代後期の熊野古道の平緒王子から奈久知王子付近の風景を見ることができます。

そして明41年(1908)に合祀された都麻津姫神社へ向かう道も描かれていまして、私たちはその道を歩いて都麻都姫神社へ向かいました。都麻津姫命は五十猛命の妹神で、大屋都姫命(先月拝観)と共に素盞嗚尊の子神とされる木の神であります。

702年三神(五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命)祀られていた社地を日前神宮・国懸神宮に譲ったあとの分遷された際にこの地に祀られました。今は伊太祁曽神社に祀られています。

そこから和歌山電鐵貴志川線の線路を渡って伊太祁曽神社へ向かいました。

和歌山電鐵貴志川線の「伊太祈曽駅検査場」と「プラットホーム及び上屋」は、2014年4月25日に登録有形文化財(建造物) に登録されています。

暑い中、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。(文責小野田)

第306回定例会 令和6年5月19日(日)紀伊駅~布施屋駅

2か月続けて雨の中での定例会になりました。

JR紀伊駅から国道を歩いて川を渡った所にある「塞の神サイノカミ」へ立ち寄りました。村や部落の境にあって他から侵入するものを防ぐ日本の民間信仰における神です。そこから民家の間を歩いて川辺王子跡へ到着しました。今回は、川辺王子社跡の横の「心敬参籠記念碑」に注目しました。これは平成12年和歌山県副知事高瀬芳彦氏が寄贈したものですが、こういう石碑に副知事の名前が登場するのは珍しいことです。刻まれた「心敬(1406-1475)」は紀伊国名草郡田井庄(和歌山市)に生まれ。3歳のときに上洛し天台宗の僧、権大僧都ゴンノダイソウズになりました。連歌師で室町七賢人の一人。1463年(寛正4)田井庄に下向した時,土地の人々の求めに応じて書き与えたもの「ささめごと」の原形といわれています。

そこから暫く進み、熊野古道から離れ大屋都姫オオヤツヒメ神社へ向かいました。

『日本書紀』第5の一書では素戔嗚尊の娘神で、兄神には五十猛命イタケルノミコト、妹神に抓津姫命ツマヒメがあると記してあり、現在は伊太祁曽神社に祀られています。

これら3神は紀伊国に木種をもたらした神であるといい、紀伊では「伊太祁曽三神」と総称されています。

社伝では、かつて当社一帯に広大な森林があり、家屋の造成などにはその材木を使っていたために「大屋」の神名を称したといわれ、『紀伊続風土記』によれば鎮座地の地名「宇田森」は当社の社叢から起こったといわれています。

創建は不詳ですが、社伝によれば垂仁天皇16年に日前・國懸両神宮に社地を譲って山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座した後『続日本紀』の記す大宝2年(702年)の伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社の分遷で、亥の森から現社地北方の古宮(和歌山市北野の御祓山上)の地に遷座、のち現在地に移転したと伝えられています。

雨が激しくなる前に本殿の前で記念写真を撮影しました。

神社を後にし、熊野古道へ戻って中村王子跡、力侍神社へ向かいました。

力侍神社の本殿と八王子社は木造檜皮葺流造で、桃山時代の建築とされ県文化財です。 アマテラスが岩戸隠れの際に岩戸の脇に控えていた天手力男命=天之手力男神アメノタヂカラオノカミが御祭神。八王子社は、寛永記によると嵯峨天皇弘仁年中に建立したものと云われています

雨天でしたが宮司とお嬢様に出迎えていただき、御朱印を頂くことができました。丁寧に御朱印長を取り扱っていただき有難うございました。

それから国道を渡って古い町並みを歩き地蔵堂か観音堂と思われるお堂が二つ並ぶ所から少し進んだ場所に見事な長屋門があり、

その角に川辺の道標があります。

「左 北大坂みち」「新義本山 根来寺 三国一錐鑽不動尊」「右 北 大坂みち」「右西 和歌山道・・・・左東祢ころ道」

と刻まれていました。

この角を右折、さらに熊野古道の「導き石」に従って左折し、突き当りの土手の上り道の際に説明版があります。土手に上り車道を進んで橋を迂回しました。

紀の川を渡って車道を東へ少し進むと「布施屋の渡し場」の小さな説明版があります。

古くは熊野詣の人々は、紀ノ川の対岸から吐前ハンザキに船で渡っていましたが、やがて紀ノ川の流路の変化によって、布施屋に渡るようになり渡し場が設けられたとあります。昭和30年代半ばまでは対岸の川辺に渡る交通の要所となっていたそうです。日本有数の多雨地帯である大台ヶ原を水源とする紀の川は夏季に集中する降雨があり、梅雨時期や台風の際には容易に氾濫を繰り返す河川であったけれども豊富な水量は慢性的な水不足にあえぐ奈良盆地の人間にとって魅力的であったと思われます。

吐前王子跡で後鳥羽院熊野御幸記では昼食をとったそうです。みかんの花の残り香に導かれて民家の中を進み、黄檗宗オオバクシュウの布施屋観音寺へ到着。黄檗宗の開祖は江戸時代初期に来日した隠元(1592- 673年)で来日した際に日本に持ち込んだ豆が「いんげんまめ」と名が付いたとされています。

今回も雨の中、皆様のお蔭様で事故・怪我無く歩けました。ありがとうございました。お疲れ様でした。(文責小野田)

第305回定例会 令和6年4月20日(日)山中渓駅~紀伊駅

令和6年度初めての回は、新しい方が7名参加されましたが雨がやまない中、23名で車道を歩き続けました。

途中で離会される方もあったので、JR山中渓駅の新しい駅舎の庇の下でまだ濡れていない姿で記念撮影をしました。

最初に到着したのは、「山中関所跡です。南北朝時代の古文書によると山中の地に関所があったそうで通行する人馬や荷物から通行税を徴収していました。山中の地は熊野街道の要所で、熊野詣での参詣者が増加していた頃はかなりの税収入が得られていたと思われます。また関所の石碑の隣にある「奉納大乗妙典」と刻まれた永禄12年(1569)銘の六十六部供養碑は、『葛城回峯録』では、ここを桂木修験の第四番経塚とする説もあります。

 そこから車道脇の狭い路肩を20分ほど歩くと2020年第99番目に日本遺産登録された「葛城修験-里人とともに守り伝える修験道はじまりの地」の葛城修験第四番経塚「さくら地蔵 信解品しんげぼん」に到着します。阪南市山中渓の境谷入口に「文安五年(1448)吉日」と刻まれた和泉砂岩の石碑が建てられています。現在は和歌山県岩出市・境谷地区との県境にありますが、長い歴史の中、明治の修験道廃止令による修験道の衰退や道路の拡張工事等で何度か移設されたと考えられています。昨今は文化財と文化の保存には、活用する流れが出てきていますが、やはり守り伝える事が大事だと痛感させられました。

経塚から道を下った所にある川に架かるのが境橋。『日本最後の仇討ちの場所』と言われています。高野山や熊本県玉名市や映画になった「遺恨あり明治十三年最後の仇討」もありますがここは1873年(明6.2.7)「敵討禁止令カタキウチキンシレイ」が出される前1863文久3年に仇討ちがあった場所です。

次に紀州藩の最初の王子である「中山王子跡」へ立ち寄り、走行車両の多い雄ノ山峠へ向かいました。約1時間「車ですよ」と何度も声かけながら雨な中をひたすら歩きました。

京奈和自動車道の橋脚の下を通って「山口王子跡」に到着し歌碑の説明をしました。歌碑に刻まれているのは「笠 金村カサノカナムラ」が724年聖武天皇の紀伊の国行幸に従駕して旅立った夫のためにと娘子(をとめ)に頼まれて詠んだとされる歌です。

「わが背子セコが跡ふみ求め追ひ行かば 紀伊の関守い留めてむかも」

【巻四(五四五)愛しい夫の後を追いかけて行けば紀の国の番人は私を留めてしまうでしょうか】

今回は、和歌に詳しい方が参加されておられたので大変緊張しました(^^)

そこから暫く進むとソラーパネルが置かれた広場の先に「小野堂」と呼ばれる墓地があり、小野小町の墓があります。昔ここに小野寺がありましたが今は廃寺跡として史跡となっています小野小町は生没年不詳で平安時代前期9世紀頃に活躍した恋多き女流歌人ですが熊野詣での帰りにこの里で病に倒れ亡くなったといわれていますが、全国に小野小町の墓があるんですよ。   

次に昼食場所である山口神社へ向かいました。途中「近道」の看板がありましたが向かわず真っ直ぐ歩いていくと墓地の中の「加太淡島神社石碑」が見えてきました。これを見るために近道をしなかったのです。

 そして、山口神社で昼休憩の後、熊野古道を離れJR阪和線と県道の間を通る道を歩きました。暫く進んで「妙見堂」に

 立ち寄ってから「松林寺ショウリンジ」へ向かいました。徳川吉宗の母・浄円院が男子出産を願って建立されたお寺で本尊 

 である千手観音は秘仏として100年に1度しか観れないお寺です。元は東松江にあったそうですが1976(S51)年に現在 

 地に移築されました。

 その松林寺第2駐車場には「国史跡・上野廃寺跡」があります。紀ノ川流域の古代寺院跡のなかでも代表的な寺院跡の  

 一つで1951(S26)年国の史跡に指定されました。二度にわたって行われた発掘調査の結果、寺院の創建は7世紀後半で

 奈良時代前期(白凰時代)と考えられています。10世紀後半まで存続した薬師寺式の伽藍配置をもつ寺院であったこと

 がわかりました。

今回は雨の中、皆様のお蔭様で事故・怪我無く歩けました。更に予定より早く歩くこともできました。ありがとうござ

いました。お疲れ様でした。            (文責 小野田真弓)