熊野古道世界遺産ウォーキング定例会
第309回定例会 令和6年8月18日(日) 海南駅→藤白神社 近世の熊野古道→海南駅
熱中症警戒アラートが発表された盆明けの日曜日、18名で歩いてきました。
海南駅を出発して野上鉄道廃線跡に作られた遊歩道を進み、熊野古道に合流して暫く歩くと蓮花寺があります。
ここは高野山七街道のひとつされる高野表街道にある札所から成る霊場「高野長峰十ヶ所霊場」の第二番札所です。
御本尊は延命地蔵菩薩。明恵上人が貞応2年(1223)開創されました。
寺のすぐ先に菩提房王子跡があります。
江戸時代後期に紀州藩が編纂した『紀伊続風土記』にこの王子は廃跡との記述があり、早い時期に退転したと思われます。そこから寄り道をして「小中地蔵」へ向かいました。
御本尊は釈迦如来。建立時期は不詳。逸話ではありますが海南市出身の画家・雑賀紀光先生の『海南風土記』第二話「地蔵さんのホウソウ(疱瘡)」に次のようなお話があります。
明治時代中期頃、海南中の線香が一時売り切れになり「この辺でえらい疱瘡が流行る」と専らの噂が立って大騒ぎとなった。人々はお地蔵様に線香を立てて日参をしたところ、小中のお地蔵様が一晩で顔中いっぱいに疱瘡の痕が出来たと云い、地蔵様が身を以って人々に教えてくれたのだと参詣の人々で長蛇の列が出来た。
一人の患者も出さなかったことで、御利益があるのだと信じた人々の参詣は止むことを知らなかったと云われる。
話が変わって事が起こる数日前、小中のお地蔵様の頭に鳩が一匹止まった。
それを見た男性が持っていた猟銃を撃って鳩を撃退したのだが、弾が散弾であったため、お地蔵様の顔にも被害が蒙り、ぶつぶつの穴を開けてしまった事で誤解を呼ぶ騒動になったが、男性は誰に語る事なく苦笑いしていたと云い、後日友人が語ったところによると、撃った男性は藤白鈴木家の最後の当主となった鈴木大固氏で、作画に優れ、文をよくした人物であったと云われるが、嫡流が絶えたため、お地蔵様の怒りを蒙って罰が当たったどうかは定かではない。
熊野古道へ戻って、日限浄土寺へ向かいました。日限地蔵 (ひぎりじぞう)の御本尊は阿弥陀仏。
「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれていますそして、一遍開祖の時宗のお寺です。
そこから祓戸王子跡へ向かいました。
王子跡のある山中には、100体以上の石の野仏(のぼとけ)が無造作に並べられてあります。
これらの野仏は、四国八十八カ所霊場を模した江戸時代頃の石仏群と考えられています。
涼しかった山道を降りて熊野古道と合流し鈴木屋敷へ向かいました。
9時半に鈴木屋敷へ到着すると門が閉まっています。「あれ休館日?」と思ったら10時が開館時間。
このため先に藤白神社へ参拝したところ、神社で待機されていた語り部さんが藤白王子権現本堂を開けて下さって、祭神の本地仏(平安時代末期)3体と藤白若一王子の本地仏を間近で参拝することが出来ました。
続いて「紫川」へ立ち寄りました。
この名は、上流の谷の石が紫色を帯びているからとも、村崎にあるからとも言われております。
また、ここで採れる美しい紫色の石を持ち出すのを止めるよう藩からお達しがでて、石に「お留石オトメイシ」と名がついたそうです。
続いて有間皇子の墓へ立ち寄ってから近世の熊野街道といわれる藤白神社北側にある正面の参道を通って鈴木屋敷へ向かいました。鈴木屋敷では、語り部の皆様から詳しく説明していただきました。
そして、熊雄古道を北へ進み、熊野一の鳥居跡に到着しました。ここは藤白神社の聖域に入る前に身を清める潔斎所であったようですが、鳥居は天文18年(1549)に失われたといわれています。
近世の熊野古道は諸説ありますが、熊野一の鳥居から左折し日方~黒江~紀三井寺~手平を経て和歌山城へ向かいました。当時、藤白~黒江までの約20丁は豊かなお店が立ち並んでいたそうです。
鳥居跡から高架下を進んで古い町並みへ入ると道標があります。今もこの道標の通り六十丁で紀三井寺まで歩けます。
そして、六道ノ辻交差点を越えて、駅前の犬養孝先が揮毫された万葉歌碑へ到着。万葉歌碑は日本全国に141基あり、昭和42年甘樫丘に建立された第1号歌碑は、8階建てのホテルを建てるという開発を止めさせたそうです。
保全と活用、観光とオーバーツーリズムは難儀な問題ですが、解決できない事ではありません。
けれども、決して目を離してはいけません。
暑い中、本当にお疲れ様でした。(文責小野田)
第308回定例会 令和6年7月21日(日) 伊太祈曾駅~海南駅 8.5km
熱中症警戒アラートが発表される中、35名で歩いてきました。
和歌山電鐵貴志川線の伊太祁曽駅を出発後、伊太祁曾神社への参道を通って鳥居の前に到着。
その前の旧道の狭い道を北へ向かって暫く進むと和歌山市へ行く道との分れる所に六地蔵があります。
そこから太陽が降り注ぐアスファルト道を進むと新しい銀の鳥居がある須佐神社 に到着します。
その昔この地は、有田市の須佐神社の神戸(神社に付属して、租税・課役を神社に納めた民)であったそうでその縁によりこの地に一宮・伊太祁曽神社とも関係の深い須佐神社が創建されたことと考えられます。暫く歩くと奈久智王子跡を説明する看板があり、その看板の角を右に曲がり民家の裏山のミカン畑を登るとの中に王子跡があります時代により位置がかなり移動しているのではないかと言われています。また、王子の名前には諸説あり、名草郡(大化の改新の後に日前神宮・國懸神宮の神郡として建てられた紀伊国の郡で明治29年(1896)海部郡と合併し海草郡が発足、廃止された)の口から「名口王子」ともいわれています。
熊野古道に戻って暫く進むとT字になり民家が立ち並ぶ道を地面に埋め込まれた道標を頼りに進むと地蔵祠があります。
その先が高速道路の下を通るトンネルになっていて中は少し涼しく、次に訪れる武内神社には木陰がないので、そのトンネルの中で少し休憩を取りました。
第12~16代の各天皇に合わせて244年仕えたとされた武内宿禰が産湯を使ったとされる武内宿禰誕生井がある武内神社に立ち寄った後、高速道路に並行した道を進むと高速道路の間の山の斜面に徳本上人名号碑があります。
それから古道へ戻ると切通見えます。その切通の元の山の竹藪の中にあった小祠が『紀伊続風土記』に書かれた「奈久智(柏原)王子跡」なのです。下見の時は切通の左側の山の入口にお地蔵様を見つけただけで小祠は探し出せませんでしたが、定例会当日、参加者の方から「もっと奥の方にある」とお教えいただき、竹藪の荒れた道を登っていきますとコンクリート造の小祠を見つけました。
そこから、海南市多田地区の古道の面影を残す町並みに入って少し進んだと所に「伝小栗判官腰掛石」の跡があります小栗判官が熊野を目指す途中、亀の川の氾濫で先に進めず、この地で留まったといわれる場所ですが、いま説明板は残っていません。
そこから四つ石地蔵まではすぐに着きました。日差しが強くなる中水田の中を通る古道を進み松阪王子跡に到着しました。
その後すこし坂道を登り途中から左脇の道に進むと石畳の古道が現れます。
ここは元の古道から東に約5m離れていますが平成15年(2003)県道の改良工事に伴い移設された古道でした
古道を登った所にクモ池があります。
ここは神武天皇が神武東征の際、神武の軍勢と地元の土着の豪族の長・名草戸畔との最終決戦が行われた場所です。
池の一画に徳本上人名号碑 があります。クモ池が終わった辺りが汐見峠で、下り坂の途中に呼びあげ地蔵があります。
安政元年(1854)の大地震の時、津波で行き場を失った人々をお地蔵様が呼び上げて命を救ったといわれています。
またお地蔵様の台座には「大くり道」と刻まれていますが、小栗街道の事です。
坂を下りた交差点の所にコンビニがあり、少し長めの休憩を取りました。
その交差点から南下し、松代橋に寄らず春日神社へ向かいました。
中世熊野参詣期の松代王子は、春日山の西麓だったと伝えられていますが明治42年(909)に春日神社に合祀されました。
昔「松代王子」付近では、海南特産の古代墨(松煙墨)や硯などが生産されていました。
暑い中、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。(文責小野田)
第307回定会 令和6年6月16日(日)コース:JR布施屋駅~伊太祁曽駅 約7km
天気予報は前日まで雨で、3か月続けて雨の中での定例会かぁと諦めていたところ曇り空に変り助かりました。
朝、布施屋駅前の広場で受付を開始してびっくり!なんと39名の方に参加いただきました。出発時の準備や説明が手間取り20分遅れて出発しました。
JR布施屋駅周の和佐地区は昔から「和佐歴史研究会」の皆さんが、古道の分かれ道に看板を設置し迷子にならないように促してくれています。
先ず川端王子跡へ立ち寄りました。
「紀伊続風土記」には、「小栗街道(熊野街道の別名)にあり、今、村中に移す」と記されています。
また、建仁元年の後鳥羽上皇の熊野詣でに随行した藤原定家の「御幸記」には「川端王子」の名前はみえず、それ以後に設置された王子社とも考えられます。
続いて小栗橋へ向かうと地元の方々がお掃除をされていました。「熱中症に気を付けて」と声をかけてもらって別れました。
そして、田植えの終わった水田のさわやかな香りに包まれながら重要文化財の旧中筋家住宅へ向かいました。
旧中筋家住宅は、敷地の東側が熊野古道に面しており、江戸時代後期の和佐組大庄屋にふさわしい屋敷構えを残しています。
嘉永5年(1852)建築の主屋は、三階の望山楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家です。
戦後、楫本重一氏の所有となり維持管理され、昭和49年(1974)主屋のほか表門・長屋蔵・北蔵・内蔵・御成門の付属建物が国の重要文化財に指定されましたその後、和歌山市が管理団体となり平成12年(2000)から約10年間にわたって保存修理事業を行ない一般公開しています。
続いて高積山の麓にある歓喜寺へ向かいました。
後鳥羽上皇ゆかりの寺院で、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、熊野詣の人々に便宜をはかる目的で接待所を設けていました。
また所蔵する鎌倉時代, 室町時代, 安土桃山時代, 江戸時代の9巻の巻子本と21通の『歓喜寺文書』は、中世史料の少ない紀ノ川下流地域には貴重で和歌山県指定重要文化財昭和41年(1966)に指定されています。特に嘉暦2(1327)の和与(訴訟における和解)関係や熊野参詣者の接待に関する異色の資料があります。境内にある柏槙は平成3年(1991)和歌山市指定文化財天然記念物に登録されています。
そして、3mを超えるのではないかと思われる徳本上人の「南無阿弥陀仏」の名号塔があります。
そこから、和佐王子跡、和佐大八郎の墓に立ち寄り、矢田峠を越えました。
峠を下る道からはずっとアスファルトの道になり、平緒(尾)王子跡までは車道路肩の細い道を歩き進みました。
時折日も差しアスファルトの照返しで気温も上昇してきたので少し急いで歩きました
平緒(尾)王子跡の説明版には「紀伊国名所図会」が張られていて、江戸時代後期の熊野古道の平緒王子から奈久知王子付近の風景を見ることができます。
そして明41年(1908)に合祀された都麻津姫神社へ向かう道も描かれていまして、私たちはその道を歩いて都麻都姫神社へ向かいました。都麻津姫命は五十猛命の妹神で、大屋都姫命(先月拝観)と共に素盞嗚尊の子神とされる木の神であります。
702年三神(五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命)祀られていた社地を日前神宮・国懸神宮に譲ったあとの分遷された際にこの地に祀られました。今は伊太祁曽神社に祀られています。
そこから和歌山電鐵貴志川線の線路を渡って伊太祁曽神社へ向かいました。
和歌山電鐵貴志川線の「伊太祈曽駅検査場」と「プラットホーム及び上屋」は、2014年4月25日に登録有形文化財(建造物) に登録されています。
暑い中、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。(文責小野田)
第306回定例会 令和6年5月19日(日)紀伊駅~布施屋駅
2か月続けて雨の中での定例会になりました。
JR紀伊駅から国道を歩いて川を渡った所にある「塞の神サイノカミ」へ立ち寄りました。村や部落の境にあって他から侵入するものを防ぐ日本の民間信仰における神です。そこから民家の間を歩いて川辺王子跡へ到着しました。今回は、川辺王子社跡の横の「心敬参籠記念碑」に注目しました。これは平成12年和歌山県副知事高瀬芳彦氏が寄贈したものですが、こういう石碑に副知事の名前が登場するのは珍しいことです。刻まれた「心敬(1406-1475)」は紀伊国名草郡田井庄(和歌山市)に生まれ。3歳のときに上洛し天台宗の僧、権大僧都ゴンノダイソウズになりました。連歌師で室町七賢人の一人。1463年(寛正4)田井庄に下向した時,土地の人々の求めに応じて書き与えたもの「ささめごと」の原形といわれています。
そこから暫く進み、熊野古道から離れ大屋都姫オオヤツヒメ神社へ向かいました。
『日本書紀』第5の一書では素戔嗚尊の娘神で、兄神には五十猛命イタケルノミコト、妹神に抓津姫命ツマヒメがあると記してあり、現在は伊太祁曽神社に祀られています。
これら3神は紀伊国に木種をもたらした神であるといい、紀伊では「伊太祁曽三神」と総称されています。
社伝では、かつて当社一帯に広大な森林があり、家屋の造成などにはその材木を使っていたために「大屋」の神名を称したといわれ、『紀伊続風土記』によれば鎮座地の地名「宇田森」は当社の社叢から起こったといわれています。
創建は不詳ですが、社伝によれば垂仁天皇16年に日前・國懸両神宮に社地を譲って山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座した後『続日本紀』の記す大宝2年(702年)の伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社の分遷で、亥の森から現社地北方の古宮(和歌山市北野の御祓山上)の地に遷座、のち現在地に移転したと伝えられています。
雨が激しくなる前に本殿の前で記念写真を撮影しました。
神社を後にし、熊野古道へ戻って中村王子跡、力侍神社へ向かいました。
力侍神社の本殿と八王子社は木造檜皮葺流造で、桃山時代の建築とされ県文化財です。 アマテラスが岩戸隠れの際に岩戸の脇に控えていた天手力男命=天之手力男神アメノタヂカラオノカミが御祭神。八王子社は、寛永記によると嵯峨天皇弘仁年中に建立したものと云われています
雨天でしたが宮司とお嬢様に出迎えていただき、御朱印を頂くことができました。丁寧に御朱印長を取り扱っていただき有難うございました。
それから国道を渡って古い町並みを歩き地蔵堂か観音堂と思われるお堂が二つ並ぶ所から少し進んだ場所に見事な長屋門があり、
その角に川辺の道標があります。
「左 北大坂みち」「新義本山 根来寺 三国一錐鑽不動尊」「右 北 大坂みち」「右西 和歌山道・・・・左東祢ころ道」
と刻まれていました。
この角を右折、さらに熊野古道の「導き石」に従って左折し、突き当りの土手の上り道の際に説明版があります。土手に上り車道を進んで橋を迂回しました。
紀の川を渡って車道を東へ少し進むと「布施屋の渡し場」の小さな説明版があります。
古くは熊野詣の人々は、紀ノ川の対岸から吐前ハンザキに船で渡っていましたが、やがて紀ノ川の流路の変化によって、布施屋に渡るようになり渡し場が設けられたとあります。昭和30年代半ばまでは対岸の川辺に渡る交通の要所となっていたそうです。日本有数の多雨地帯である大台ヶ原を水源とする紀の川は夏季に集中する降雨があり、梅雨時期や台風の際には容易に氾濫を繰り返す河川であったけれども豊富な水量は慢性的な水不足にあえぐ奈良盆地の人間にとって魅力的であったと思われます。
吐前王子跡で後鳥羽院熊野御幸記では昼食をとったそうです。みかんの花の残り香に導かれて民家の中を進み、黄檗宗オオバクシュウの布施屋観音寺へ到着。黄檗宗の開祖は江戸時代初期に来日した隠元(1592- 673年)で来日した際に日本に持ち込んだ豆が「いんげんまめ」と名が付いたとされています。
今回も雨の中、皆様のお蔭様で事故・怪我無く歩けました。ありがとうございました。お疲れ様でした。(文責小野田)
第305回定例会 令和6年4月20日(日)山中渓駅~紀伊駅
令和6年度初めての回は、新しい方が7名参加されましたが雨がやまない中、23名で車道を歩き続けました。
途中で離会される方もあったので、JR山中渓駅の新しい駅舎の庇の下でまだ濡れていない姿で記念撮影をしました。
最初に到着したのは、「山中関所跡です。南北朝時代の古文書によると山中の地に関所があったそうで通行する人馬や荷物から通行税を徴収していました。山中の地は熊野街道の要所で、熊野詣での参詣者が増加していた頃はかなりの税収入が得られていたと思われます。また関所の石碑の隣にある「奉納大乗妙典」と刻まれた永禄12年(1569)銘の六十六部供養碑は、『葛城回峯録』では、ここを桂木修験の第四番経塚とする説もあります。
そこから車道脇の狭い路肩を20分ほど歩くと2020年第99番目に日本遺産登録された「葛城修験-里人とともに守り伝える修験道はじまりの地」の葛城修験第四番経塚「さくら地蔵 信解品しんげぼん」に到着します。阪南市山中渓の境谷入口に「文安五年(1448)吉日」と刻まれた和泉砂岩の石碑が建てられています。現在は和歌山県岩出市・境谷地区との県境にありますが、長い歴史の中、明治の修験道廃止令による修験道の衰退や道路の拡張工事等で何度か移設されたと考えられています。昨今は文化財と文化の保存には、活用する流れが出てきていますが、やはり守り伝える事が大事だと痛感させられました。
経塚から道を下った所にある川に架かるのが境橋。『日本最後の仇討ちの場所』と言われています。高野山や熊本県玉名市や映画になった「遺恨あり明治十三年最後の仇討」もありますがここは1873年(明6.2.7)「敵討禁止令カタキウチキンシレイ」が出される前1863文久3年に仇討ちがあった場所です。
次に紀州藩の最初の王子である「中山王子跡」へ立ち寄り、走行車両の多い雄ノ山峠へ向かいました。約1時間「車ですよ」と何度も声かけながら雨な中をひたすら歩きました。
京奈和自動車道の橋脚の下を通って「山口王子跡」に到着し歌碑の説明をしました。歌碑に刻まれているのは「笠 金村カサノカナムラ」が724年聖武天皇の紀伊の国行幸に従駕して旅立った夫のためにと娘子(をとめ)に頼まれて詠んだとされる歌です。
「わが背子セコが跡ふみ求め追ひ行かば 紀伊の関守い留めてむかも」
【巻四(五四五)愛しい夫の後を追いかけて行けば紀の国の番人は私を留めてしまうでしょうか】
今回は、和歌に詳しい方が参加されておられたので大変緊張しました(^^)
そこから暫く進むとソラーパネルが置かれた広場の先に「小野堂」と呼ばれる墓地があり、小野小町の墓があります。昔ここに小野寺がありましたが今は廃寺跡として史跡となっています小野小町は生没年不詳で平安時代前期9世紀頃に活躍した恋多き女流歌人ですが熊野詣での帰りにこの里で病に倒れ亡くなったといわれていますが、全国に小野小町の墓があるんですよ。
次に昼食場所である山口神社へ向かいました。途中「近道」の看板がありましたが向かわず真っ直ぐ歩いていくと墓地の中の「加太淡島神社石碑」が見えてきました。これを見るために近道をしなかったのです。
そして、山口神社で昼休憩の後、熊野古道を離れJR阪和線と県道の間を通る道を歩きました。暫く進んで「妙見堂」に
立ち寄ってから「松林寺ショウリンジ」へ向かいました。徳川吉宗の母・浄円院が男子出産を願って建立されたお寺で本尊
である千手観音は秘仏として100年に1度しか観れないお寺です。元は東松江にあったそうですが1976(S51)年に現在
地に移築されました。
その松林寺第2駐車場には「国史跡・上野廃寺跡」があります。紀ノ川流域の古代寺院跡のなかでも代表的な寺院跡の
一つで1951(S26)年国の史跡に指定されました。二度にわたって行われた発掘調査の結果、寺院の創建は7世紀後半で
奈良時代前期(白凰時代)と考えられています。10世紀後半まで存続した薬師寺式の伽藍配置をもつ寺院であったこと
がわかりました。
今回は雨の中、皆様のお蔭様で事故・怪我無く歩けました。更に予定より早く歩くこともできました。ありがとうござ
いました。お疲れ様でした。 (文責 小野田真弓)