令和5年2023年迄の定例会

令和5年度(2023年度)世界遺産ウォークのコース

第293回   4月16日(日)    京都 城南宮界隈散策

  第294回 5月21日(日)  八軒家浜~四天王寺      約7km

第295回 6月18日(日) 天王寺駅~住吉大社   約7km

第296回 7月16日(日) 住吉駅~仁徳天皇陵   約8km

第297回 8月20日(日) 南宗寺~大鳥大社    約5km

第298回 9月17日(日) 鳳駅~和泉府中駅    約7km

第299回 10月15日(日) 和泉府中駅~東岸和田駅 約7km

第300回 11月19日(日) 湯川駅~駿田峠~那智駅 約8km

                                       同時開催 第8回ピースウォーク 

第301回 12月17日(日) 東岸和田駅~鶴原駅           約7km

第302回 1月21日(日) 鶴原駅~長滝駅                 約7km

第303回 2月18日(日) 長滝駅~和泉砂川駅          約6km

第304回 3月17日(日) 和泉砂川駅~山中渓駅      約6km

第304回定例会 令和6年3月17日(日)和泉砂川駅~山中渓駅

第304回定例会は、数日前から天気が悪く春霙になるとイヤだなと思っていましたが、当日今朝の天気予報では午後から雨に変わっていてJR和泉砂川駅から約6.6kmの道へ向かいました。

今回の行程は、1201年後鳥羽上皇に随行した藤原定家の18~74歳までの日記「明月記」に書かれた『熊野御幸記(国宝)』に記された同じ行程です。前の日、厩戸王子周辺で宿泊しておられて、8日は藤白神社まで歩いています。現在の熊野古道のマップでは約43.7km平安時代なら11里歩いた事になります。日記を一部抜粋います。

「八日(10/8)天晴拂暁出道参信達一ノ瀬王子又於坂中祓参地蔵堂王子次参ウマ目王子次参中山王子」とあります。現代語訳では「明け方に出発して、信達一之瀬王子に参る。また坂中で祓する。次に地藏堂王子に参る。次にウハ目王子(※馬目王子)に参り、次に中山王子に参り、次に山口王子に参り、次に川辺王子に参り、次に中村王子に参り、次に昼養の仮屋に入る〔ハンザキ〕。」

JR和泉砂川駅を出発して熊野古道(和歌山県道・大阪府道64号 和歌山貝塚線)に戻り、往生院へ向かいました。 

白鳳8年(680)天武天皇の勅願寺により往生寺は創建されました。創建者である道昭ドウショウは653年遣唐使で留学した際「西遊記」に登場する「三蔵法師」のモデルである唐の僧侶玄奘三蔵の教えを受けたことや、行基の師としても知られる名僧です。中世以前は七堂伽藍を有する大寺院でありましたが豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火によって堂塔すべてを焼失しました。その後文禄の太閤検地で境内は404坪となり浄土宗に改宗されましたが、1681年(元禄4年)、真言宗に戻り、京都仁和寺は本山となりました。そこから「伝・信達一ノ瀬王子」と新しい石碑が作られた王子跡に立寄り林昌寺へ向かいました。山号は躑躅(てきちょく)山。本尊は如意輪観音で岡大師とも呼ばれています。伝承によれば、聖武天皇の勅願寺として行基により天平年間(729年 - 748年)に創建されたといわれています。天正5年(1577)に織田信長の雑賀攻めによる兵火を受けて全山焼失しましたが、江戸時代に再建されました。  

この庭の山門のそばにある「補陀落渡海碑」は、全国に三基残されている渡海碑の一つで貴重なものです。

梵字と「補陀落山 肥前国之住温泉山祐海上人 我見自心形如月輪 敬白  渡海行人 永禄八年(1565)乙丑二月廿八日」と刻まれてあり、肥前温泉山(雲仙)の祐海上人が和泉国から補陀落渡海を敢行したことが示されています。

那智勝浦町の補陀洛山寺で行われた1565年の補陀落渡海は「金光坊」です。金光坊が渡海を拒んで船から脱出して島に上がった後、見付かって無理やりに入水させられた以降は、生きながらにして渡海をするという習慣はなくなったそうです。

それから山を下って岡中の鎮守社に到着しました。長岡王子跡ともいわれています。樹齢約800年の大楠と樹齢約600年の槙は、樹木の根を守るため立入禁止なっていて、触ることはできませんでした。両方とも大阪府天然記念物の指定を受けています。

また64号線に戻って、行き交う車に注意しながらJR和泉鳥取駅前にある「伏拝の鳥居」に到着しました。

江戸時代の紀州藩主・紀州徳川家が参勤交代の際に紀州街道から海側の離れた所にある波多神社を伏拝(遥拝)できるようこの鳥居が建立されました

 そして、この鳥居の西側には「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の脇に小さな五輪塔があります。この五輪塔が長岡王子跡とされる由縁です。この石碑は、徳本上人の弟子・是得ゼトク上人の名号碑です。和歌山県日高郡に生まれ、増上寺回向院の第十三世となった後、徳本上人の弟子となり諸国を行脚し、和歌山市直川に是得庵を建立し、文政7(1824)年に大阪市内で61歳で亡くなり直川に葬られました

 そこから、現在は廃道で通行禁止の「琵琶ヶ崖」には寄らず車道脇の細い歩道を歩き、途中、道の反対側にある「馬目王子跡」を見るだけで「地蔵堂王子跡」へ向かいました。今は公園の所に説明看板が建ってあるだけです。  

再び国道に戻り、紀州街道の入口に石碑についた時、雨粒が落ちてきました。急いで「旧庄屋屋敷:田中家住宅」「筆子塚」「地福寺」「山中神社「街道碑「本陣跡」「道祖神」と巡ってJR山中渓駅へ到着しました。

車道を歩く時間が長い中、注意しながら歩いていただき有難うございました。お疲れ様でした。(文責 小野田真弓) 

第303回定例会 令和6年2月18日(日)泉佐野~和泉砂川 

第303回定例会は、お天気が良くなり南海本線泉佐野駅からJR和泉砂川駅迄の約12kmを歩いてきました。

泉佐野駅から約20分歩いて佐野高校の前を通る熊野古道(府道64号)に到着。そこから信号機のない狭い道になり旧家も所々に現れてきます。すると民家の前に傾いた小さな白い石柱が見えてきました。「市場の追分道標=史跡」です。明治三十八年三月に作られ「すぐ 和歌山道/ふどうみち/右さのみち」と刻まれています。「ふどうみち」とは、犬鳴山不動への道を指しています。

そこから往来する車に注意しながら路肩の狭い歩道を暫く歩くと関西空港道の大きな橋桁が見えてきました。以前の定例会では「蟻通神社旧地石碑」へ立ち寄った時もあったのですが、今回は寄らずに古道を進みました。蟻通神社は元々熊野街道沿いにありましたが、戦時中の明野陸軍飛行学校佐野飛行場の建設に伴い現在地に移転しています。続いて佐野陸軍飛行場の「通用門の門柱跡」へ向かいました。1941(S16)年、陸軍は佐野飛行場建設のため、佐野町、日根野村、長滝村、南中通村の4町村の広大な田畑、溜池、宅地用地などの強制買収、神社、墓地、民家の強制移転を始めました。工事は1942(昭和17)年に始まり、長さ1,500m幅60mの滑走路格納庫、兵舎などが作られましたが戦後再び開拓用地として解放されました。

末広公園や市民総合体育館は、ほぼこの飛行場の滑走路があった所に作られています

次に旧家の片隅にある「日根神社 御旅所」到着。日根神社付近に日根王子があったと推定されていますが詳細は定かではありません。それは此処から日根神社は約4km西の所にあるからなのです。

そして、ここは日根神社の「春の祭礼=まくら祭(大阪市指定無形民俗文化財)」が御渡する場所です。日根神社は「日本で唯一の枕の神社」です。また、「春の祭礼」はおよそ500年前の鎌倉時代の古文書にも見ることができます。祭りの幟に枕をつけて練り歩いたことから、「まくら祭り」と呼ばれるようになりました。もとは子宝を願う村の娘たちが「枕」を奉納したのが始まりとのことですが、お祭りに奉納する枕は大変なご利益があるとされ、時代が移り変わる中、商売の縁起をかつぐ者や病気の平癒を願う人なども祭礼に参加するようになったそうです。最近では緊張や不安、日々のストレス、恋愛、勉強の悩みで眠れない方、お子様の夜泣きでお悩みの方、悪い夢を見るという方、引越しなどにより環境が変わって寝苦しい、といった睡眠に関する様々な悩みを抱える方々がお参りになられておられるそうです。

また、令和元年5月20日に75番目の日本遺産に登録された「旅引付と二枚の絵図が伝えるまち―中世日根荘の風景―」の構成文化財になっています。

そこから周辺に畑が残る古道を進み、八丁畷地蔵に到着。右側にある石灯籠の竿に「嘉永三年庚三月」「大坂若松講」と刻まれています。このお地蔵様のお陰で追い剥ぎから難を逃れたことから、大坂の人達が講を組んで石灯籠を奉納したそうです。

嘉永3年は1850年で江戸末期ですが、当時この辺りは淋しいところであったことが想像できますね。

そして、道が細く曲がりくねってきた所に「大坂夏の陣」の時、徳川方と対戦した「塙団右衛門直之」の五輪塔があります。突出して徳川勢に突っ込んで壮烈な戦死を遂げた団右衛門の武勇を顕彰するため、紀州藩士の小笠原作右衛門がに立てたそうです。その五輪塔の反対側の「いづみモータース」の建屋と立派なお屋敷の壁際に籾井王子跡の碑があるのですが、お屋敷が無くなりスッカリ更地になっていたのです。下見の時にモータースの方から火事に遭われたことを教えていただきました。

そこから奥家住宅(重要文化財)へ立ち寄りました。この家は17世紀の初めに建てられた豪農の家で泉南地域では最も古い民家の一つであります。奥家は南北朝時代から続いた家柄で、大坂夏の陣が終わった頃に武士から農民になったそうです。

曲がりくねった道の最後に「淡輪六郎兵衛の墓」があります。大坂夏の陣で塙団右衛門らと一緒に戦い、この辺りで壮烈な戦士を遂げられました。日枝(ひえ)神社には立ち寄らず、樫井川古戦場跡へ向かいました。慶長20年(1615)大坂夏の陣の時大坂方2万騎、徳川方8千騎がここで相対しましたが、大坂方はばらばらに戦ったので、数が優勢であったにも拘わらず大敗して逃げ帰ったそうです。目の前にある樫井川の流れに沿って右へ進み新家川という小さい川が合流する所を渡った先に厩戸王子があります。今はゴルフ練習場のネットの支柱の一番奥(端)の所に王子跡があります。けれども今は歩いて行けないので樫井川に架かる明治大橋と小橋を渡って一岡神社へ向かいました。一岡神社は一丘神社とも書き、「祇園さん」とも称されます。

崇峻天皇5(592)年に厩戸皇子(聖徳太子)がこの地に海会寺(七堂伽藍)を建立され、神社名を海営宮に改めてその鎮守としたと伝わっています。

午後からは、一岡神社から古道へ戻って厩戸王子へ向かいました。会発足当時は、Googleマップもない時代。故吉田昌生先生の「熊野への道」の簡略地図でも行き方が解らず、神社の裏から続く田んぼに下りて泥濘に足を取られながら王子跡を探して迷子になったりしましたが、現在神社の周りは住宅が立ち並び、神社の裏から直接王子跡へ行く事はできません 

王子跡から引き返し、熊野古道に戻って紀州街道信達宿本陣跡へ向かいました。

 目の前の高い堤は、四十五代聖武天皇の724年に、飢餓に苦しむ農民を救うための農業用水にと、高僧行基が一岡神社の南の方に一大溜池を築造し、海営宮池(かいご)と名附けました。同時に神社と寺の修繕を行っています。

中島にあった観音堂は海会寺の一部で根来寺の北の玄関口といわれています。

そして信長の根来攻め(1577)によって海会宮寺の多くの伽藍が焼失しましたが中島にあった観音堂だけが焼け残って長慶寺が創建されたと伝わっています。

 古道の両脇に大きな旧家が増えてきて紀州街道へ入りました。

紀州街道は、紀州藩と岸和田藩の参勤交代路として整備され、紀州徳川家の参勤交代は、この角谷(つのや)家本陣で一泊することが習わしとなっていました。

そして、市場稲荷神社へは立ち寄らず徳川吉宗が幼少期に植えたカイヅカイブキ(樹齢300年余り)のある真如寺、市場地蔵堂へ立ち寄って長慶寺へ向かいました。  

長慶寺は、参道の石段が100段あり一番上にある仁王門前までの両脇に植えられたアジサイの量が半端なく多いです。

境内には3つの塔がひしめき合い、本堂弘法大師像、鐘楼等沢山の建造物が多くのアジサイと一緒に佇んでいました。

それから古道へ戻って、泉州の石(和泉砂岩)で作られ、今もなお常夜灯(電気による自動点灯)の役目を果たしている信達宿常夜灯を見て野田藤へ向かいました。

 奥行き27mまでに広がっています。自宅を開放して始められた「梶本さんちのふじまつり」は梶本様が亡くなった後も「藤保存会」の方々が藤の世話を引き継ぎ祭りは「信達宿ふじまつり」として開催し地元を代表する大イベントに発展しています。

最後に立ち寄ったのは、「泉南石綿の碑」です。大阪府泉南地域は、明治末から100年の石綿紡織産業の歴史があります。「奇跡の鉱物」として重宝されましたが、近年になって、石綿繊維を大量に吸った場合に人体に悪影響を与えることが判明しました。国は実態調査を行い、1937年に被害が深刻なことを掴んでいたにもかかわらず有効な規制・対策を行わず放置。2006年5月に被害者と遺族が国の責任を問う国家賠償を提訴し、紆余曲折の後、2014年10月9日最高裁は国の責任を認める判断を下しました。その勝利を記念し、鎮魂と石綿被害の根絶の願いを込めて「泉南石綿の碑」を建立されました。そして、駅へ向かい解散しました。今回は名所旧跡が多すぎて、割愛した文化財も多く申し訳なかったのですが、皆さま長距離でお疲れ様でした。(文責 小野田真弓) 


第302回定例会 令和6年1月21日(日) 鶴原~泉佐野

 令和6年初めての定例会は、雨の冷たい一日になりました。

数日前から雨天で寒い天気予報。新年早々、雨の降る寒い中、無理して長距離を歩くのも縁起が悪いと思いまして3kmと短いコースを歩くことにしました。

鶴原駅を出発して加支多(かきた・かした)神社を通りすぎて府道を渡り「貝田/鶴原王子」の推定地へ到着。

中世の熊野詣において「王子」は参詣途上で儀礼を行う場所でありました。「王子」とは熊野権現の御子神であるとの認識から参詣者の庇護が期待されました。主たる儀礼は奉幣と経供養(般若心経などを読経する)で、神仏混淆的であります。また、「王子」という命名には峯中修行者を守護する神仏は童子の姿をとるという修験道の思想に基づくものであるとも考えられています。

紀伊路・中辺路に「王子」が集中するのは、皇族・貴族たちの参詣の活発化に伴って組織されたものであります。

けれども承久3(1221)年の承久の乱以降、京からの熊野詣が下火になり、そのルートであった紀伊路が衰退するとともに「王子」の荒廃と退転がすすみ、近世紀州藩の手による顕彰も行なわれたものの衰退の勢いを止めることはできませんでした。さらに、明治以降の神道の国家神道化とそれに伴う合祀、市街化による廃絶などにより、旧社地が失われたり、比定地が不明になったものも多く、この貝田王子もその一つです。

次に顕如上人縁の元成寺へ向かいました。顕如上人が、10年に及ぶ織田信長の石山本願寺攻めの戦いの後、天正8年 (1580)和議により石山本願寺を開城し紀州へ退去しました。その紀州へ向かう際に籠ったお寺です。「叶(かな)わぬの松」、「隠れ井戸」、「顕如松」と伝説は残っていますが、木は枯れ、井戸は見つかりませんでした。

そして、奈加美神社へ向かいました。

創建時代は平安時代初期。旧社名を大宮神社といって、この地域の中心の神社です。湊の教蓮寺古文書に依れば、大宮神社は紀州根来寺の触下にあり社領三千石を有し、大宮大明神、または大宮庵とも称され、神仏習合の時代には真言宗の社僧が祭祀にあたったことが記されています。主祭神は誉田別命(応仁天皇)、息長帯姫命(神功皇后)・比売命(神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すもの)を祀御神徳は厄除開運・安産など多岐にわたっています。

天正5(1557)年の織田信長の根来攻めの際、当大宮神社も悉く焼き払われ、この戦災後、慶長15(1610)年8月再建にあたり、現位置に社殿が造営されました。明治41(1908)年から翌明治42(1909)年にかけて、中庄・上瓦屋・湊の3村の字々の神社が合祀され、3村のな(中庄)=奈、か(上瓦屋)=加、み(湊)=美の頭仮名文字を綴合せて、万葉仮名の響きも美しく「奈加美神社」と称される事となりました。

また、地域の特産品である「水茄子」をモチーフにした縁起物がたくさんあります。ナスはあだ花がなく、よく身を結ぶことや、「なす」「成す」「成る」という音の響きから古い時代より縁起物とされ、願いを成就させる「水ナス」がいっぱいのパワースポットになっていますそして、御朱印がとても美しいのです。

 境内には、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の展示館もあります。 

「三貴神と四季の花」の格天井、修復された「奉納弁財船(木製の帆掛け船の模型)、大絵馬、三十六歌仙絵馬など神社所蔵の文化財が展示されていました。

境内で昼食をとる許可も頂いていたのですが、雨は降り続き食べずに本殿の前で写真を撮って佐野王子へ向かいました

佐野王子へ着いた頃には、雨は止んでいました。そこから参加者の方々は、南海本線泉佐野駅、JR日根野駅へそれぞれ向かいました。寒い中お疲れ様でした次年度の寒い期間のコースは、場所と距離を研究します。(文責 小野田真弓)


第301回定例会 令和5年12月17日(日) 東岸和田駅~鶴原駅

前々日の金曜日から昼間は22℃を越える温かすぎる師走を送っていましたが、土曜日の夕方から気温がどんどん下がり、定例会当日朝は4℃になっていました。日中の気温は7℃までしか上らない天気予報。動ける範囲で着込んだうえにダウンジャケットをリュックに入れて駅へ向かいました。

JR東岸和田駅から熊野古道へ向かいました。今回歩くコースは、藤原定家が建仁元年(1201年)10月17日に後鳥羽院に同行した時に書いた『熊野道之間愚記(後鳥羽院熊野御幸記)』に記されている行程と同じです。

先ず「道の池の地蔵」へ向かいました。道の池の堤には「すぐ かつらぎ 牛たき 大坂 左 きしはた かいつか」と刻まれた「道しるべ地蔵」が祀られていました。

(下記写真は平成30年の様子)

前回第240回平成30年11月18日に歩いた時には、既に住宅地に開発されるニュースが新聞に掲載されていましたが、今回来てみると、その変貌ぶりに驚きました。

 土手だった所は、きれいに舗装され、池だった事をかろうじて想像できるのは残っている水門だけでした。その辺りから風に白いものが混じるようになり、いつもより速足で歩いていました。

府道30号に戻り、道越しに工場の敷地内に祀られてある「浅宇川(麻生河)王子跡(現在は、貝塚市半田にある 阿理莫神社に合祀)」を見て旧道=熊野街道(小栗街道)へ戻りました。

 暫く古道を進むと「半田一里塚」へ到着。熊野街道の一里塚の一つで原型がよく残っている場所です。

そのまま古道を南下すると「歯痛地蔵尊」と呼ばれる「道しるべ地蔵」へ着きます。大阪府の「歴史街道ウォーキングマップ」では直ぐに府道へ向かいますが、今回は交通安全のため左の住宅街に進み、牛神さんにお参りし、府道に出て渡って熊野街道へ入り、紀州街道に移り溜池の淵を歩きました。

水間鉄道を渡って石才会館へ向かいます。水間鉄道は、大正時代に水間観音への参詣鉄道として敷設されて以降、小規模ながらも堅実な経営を続けています。日本全国の様々な公共交通機関、ローカル線が存続危機にさらされています。「乗って残そうローカル線!」

 少し道を上っていくと「宮池」が現れ「牛神さん」が祀られています。

かつてはここで牛に水を掛けて農作の安全を神に祈ったそうです。

古道周辺に残ってある大きな溜池も数年後には住宅街や大型ショッピングセンターに変わっていくと今見ている風景は二度とみられないかもと思いながら霙舞う古道を歩いていました。

貝塚市斎場、墓地を過ぎると近木川に面した段丘上にあり根来街道と交差する場所に位置する「積善寺城跡」に到着します。もとは和泉国の四長者の一人、郡吉長者の仏観音堂であったものを永禄元年(1558年)に根来衆と三好氏との戦いの時に、砦をこの地に築きました。その後、天正9年(1581年)高野攻め、天正11年(1583年)秀吉の紀州攻めでは雑賀衆、根来衆が備えています。天正13年(1585年)3月18日に雑賀衆、根来衆連合軍は紀伊国より出撃、同年3月21日岸和田城から豊臣秀吉軍が出軍、戦いとなり近隣の城と共に、積善寺城は放火や落城。この後、積善寺城は破却され廃城となりました。

この時豊臣秀吉軍は、地蔵堂丸山古墳(この後で向かいます)に陣を置き積善寺城と対峙していました。

積善寺城跡にある橋を渡り「長谷川の坂」を上りました。江戸末期に疳医者として有名な長谷川屋敷があった事から坂の名がつけられました。

JR和泉橋本駅近くの線路を渡って「地蔵堂」の在所へ入ると「丸山古墳」があります。

国指定史跡の前方後円墳で全長約66m、後円部は径40m、高さ5mの小さな古墳ですが上ることができます。

そこから鞍持王子跡推定地とされる「正福寺」に立ち寄り、「南近義(みなみこぎ)神社」へ向かいました。

弘安7年(1284)に近木庄が高野鎮守の丹生都比売神社に寄進された際、その分霊を勧請されたと伝えられ、もとは丹生神社と呼ばれていました。

明治時代の神社合祀 慶応四年(1868) の神仏分離令で南近義村の全地域に所在する24の神社を合祀し、「南近義神社」と社名が変えられました。鞍持王子、近木王子の神も合祀されています。

寒さに速足で歩いた結果、1時間近く早く到着しましたが、昼休憩にしました。参加者の皆さんは強くなってきた風を遮る場所を探してお昼ご飯を食べました。記念撮影もしました。

後半は先ず吉祥園寺へ向かいました。白河法皇、後鳥羽上皇が熊野詣の折に、昼食をとったとの記録があります。

そして粉河街道(こかわかいどう:紀州街道の貝塚が始まり犬鳴山を経て西国三十三カ所の粉河寺を結ぶ道)を通って見出川を渡った所から熊野街道に戻りました。そして府道241号線との交差点で熊野街道を離れ西に向か「加支多(かきた・かした)神社」へ到着しました。この神社が鎮座していた具体的な場所は不詳で諸説あり、「南近義神社」鎮座していた市杵島神社に合祀された話や、「鶴原王子」の跡であるともされている貝田町会館の地であるといわれています。そこから鶴原駅までは約5分。駅に到着すると乗車予定だった電車の1時間前の12:05の電車がホームに入ってきました。急いで電車に乗り込みました。「南近義神社」で記念写真を撮ってもらっていて助かりました。

思い出せは2022年12月の定例会は吹雪で中止にしていました。12月は歩くには寒すぎますね。今後12月から3月までの定例会コースは見直します。寒い中、お疲れ様でした。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます    (文責 小野田真弓) 

第300回定例会 令和5年11月19日(日) 駿田峠

当日は快晴の下、JR 湯川駅に熊野市 紀和町、新宮市、田辺市、有田市、和歌 山市、すさみ町、岸和田市から参加された40名が集合しました。

 時間がなかったため、写真撮影しなが らピースウォークの出発式しました。

 ピースウォークは、「信仰の山」であ るユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場 と参詣道」の和歌山から、この平和を願 う人類の知的及び精神的連帯を拡げる行 動として、2016 年8 月11 日に施行され た「山の日」(趣旨=山に親しむ機会を 得て、山の恩恵に感謝すること)を記念 して始めました。 今回のコース「駿田峠」が含まれる 「熊野古道 大辺路」は、万葉の昔には すでに都人が海路を併用しながら利用し たと思われる古道で、大辺路という分類 においては田辺市から那智勝浦町までの 海沿い、約120km の区間を指します。 熊野参詣のルートとしては中辺路が多 用されたため、大辺路は時間に余裕のあ る庶民や文人墨客が枯木灘や熊野灘の風 景を愛でながら歩いた道であったようで す。江戸時代初期には紀州藩により一里 塚が沿線に築造され、藩主や三宝院門跡 の大行列もこの道を通過しました。大辺 路は四十八坂と称されるほど急坂や小坂 が多く、そのため部分的には開発を免れ 往時の景観を遺しているところも少なく ありません。 そして、20016 年10 月「紀伊山地の霊 場と参詣道」に追加登録されたエリアで す。 JR 湯川駅を出発し国道を通って暫く進 むと交差点で「ゆかし潟」の海への入口 を見ることができます。 「ゆかし潟」は、四季にわたり景観に 幻想的な美しさを与えることから郷土の 詩人・佐藤春夫氏が名づけました。 周囲2.2km の海と川の水が混ざる汽水 湖。平成26 年8 月28 日に日本ジオパー クに登録され「南紀ジオパーク」のサイ トでは「後氷期の急激な海面上昇による 海進後、3つの河川、特に二河川の堆積 作用により形成された潟湖せきこ・ラグ ーン(砂州によって外海から隔離された 海岸の湖)」となっています。 そして、平成28 年度に環境省「生物 多様性の観点から重要度の高い湿地(略 称「重要湿地」)」に登録されています。 交差点から二河川にそって道を進むと 「二河峠」との分近点につきます。そこ を右に曲がり道路の左右に温泉が湧き出 ている所を通って「湯川温泉・ゆりの山 温泉」に到着。温泉の香りを感じながら 「呼ばずの坂(:明治時代に郵便配達員 が坂の上から村人を叫んで郵便物を取り に来てもらった)」の入口まで来た時、 パンフレットの撮影に来ていた神島高校 12名(高校生7名)の写真クラブのメ ンバーと一緒になりました。 小さな「廻国巡礼供養塔(かいこくじ ゅんれいくようとう:享和元年(1801) の石碑)」をみて「第13代亀山城主湯 川直春の墓」、「湯川諏訪神社」に立ち寄 り国道へ出てしばらく坂道を進み、湯川 隧道の手前にある看板を左に入りまし た。 製材所の中を通っていくと「駿田 峠 押印所」が見えてきます。ここから 山坂道になりますので、準備しながら休 憩して押印所でスタンプを押した方から 「駿田峠」へ向けて出発したところ、道 を間違ってしまいました。真っ直ぐ進ん だ所にある石段を上がって行かなければ ならない道を左の緩やかな土地道を選ん で「ひょうたん池」へ行ってしまいまし た。違う道と気づき戻った時は20分の ロス。

 急いで山坂道を上がると駿田峠の入口 に先に到着した2人と加寿地蔵世話人の 会の方が待っていてくださいました。

そして、「静坂」の上にある2012 年熊 野地方を舞台とした自主制作映画「熊野 伝説II 熊野比丘尼 おりん物語」ロケ 地跡の広場で昼食をしました。加寿地蔵 世話人6名の方々が、お弁当を食べやす いようにとテーブルを作って下さってい ました。そして、温かいお茶もご馳走し ていただきました。有難うございました。

電車の時間もあり、食後すぐに出発し た方々には申し訳なかったのですが、世 話人会の皆さんと一緒に写真を撮ってか ら出発しました。

13:16JR 天満駅発の電車に間に合うよ うに急いで峠の坂道を下りました。 それから、駅前にある南紀ジオパーク サイトの一

つ「天満の大津波記念碑(昭 和25 年に地域住民の方々により建立さ れた昭和19 年(1944)東南海地震 (M7.9)の津波の記念碑で高さ約2.5m の石碑)」に立ち寄り、天満神社で参拝 して駅に到着。駅から帰る方々を見送り ました。 そのあと線路沿いの道を進み、暫く行 くと那智の浜に出ます。JR 那智駅まで穏 やかな海を眺めながら歩きました。 すると予定の13:14JR 那智駅発の電車 に間に合う事が判明。駆け足でホームへ 滑り込み乗車された方々を見送りました そこから、万治元年(1658)に建てら れた「熊野街道振分石」へ向かい、平成 16年の最初に「紀伊山地の霊場と参詣 道」の世界遺産登録された浜の宮王子跡 に建つ「熊野三所大神社」と「補陀落山 寺」に参拝し終了しました。 「第300 回の記念の会」に道に迷うと いう大失敗をしてしまい、更に参加者の 皆さんを電車の時間に間に合わせるため に急がせてしまい、本当に申し訳ありま せんでした。参加者の皆さんのご理解と ご協力のお陰で幸い事故ケガもなく無事 終了することが出来ました。本当にあり がとうございました。 次回からは、道に迷う事のないよう十 分下見をし開催日当日も細心の注意を払 って定例会を開催していきますので、今 後とも何卒よろしくお願い申し上げます.. (文責 小野田真弓)


第299回定例会 令和5年10月15日(日) 和泉府中~東岸和田

ずっと雨の天気予報で困っていましたが朝から日差しが出る快晴になりました。

JR和泉府中駅を31名(実際は32名)で出発し、泉井上神社を通って熊野古道に到着。1kmほど旧家が立ち並ぶ道を進むと府道30号線に合流点で槙尾川を渡る橋の手前にある小さな子安地蔵のお堂の前に井ノ口王子跡の石碑が立っています。

それから進み槇尾川を渡った橋のたもとに「右小栗街道信達郷、左松尾寺」」と刻まれたがあります。松尾寺は約7km離れた大阪府和泉市松尾寺町にある天台宗の寺院で天武天皇元年(672)に役小角が当地で7日間修法し霊木を得て如意輪観音を彫り、小堂を建てて安置したことに始まります。

私たちは右方向へ向かい、新興住宅街の間を通って府道227号線を渡って府道30号線との間の道を進みました。実は今回下見調査の時に分かったのですが、Googleマップには府道227号線や付近の道の所々に「熊野古道」の表記がありました。道は「松尾川緑道」に入り、暫し緑の中を進んで「小栗橋」を渡り小田公園の中を横切って府道30号へ向かいます。このエリアには日本酪農協同株式会社近畿工場があり、工場建設前はこの工場の敷地の中に古道が通っていたのではないかと想像します。

府道30号は路線バスが通り小学校、量販店、飲食店が立ち並び車や自転車の往来が多く路肩の歩道が狭い道になっています 

大町の交差点で右に曲がり阪和線を越えて府道23号を西へ進むと左側に大きな旧家が現れ、その家の角に信号機のある横断歩道があります。

その角を左に曲がると熊野古道の石碑が立っています。その石碑には手形で矢印が刻まれていまして左手へ行く道は、府道227号線を進んだ熊野古道を進んだ道がとつながっていると思われます。今後この道を調べて熊野古道と小栗街道の違いを見つけてみたいと思っています。

住宅内に設置された石碑を辿って池田王子跡へ到着しました。その前の道を南へ向かうと府道30号線と合流するのですが、今回は久米田寺で昼食を予定していたので

道を引き返し久米田寺へ向かいました。

お弁当を広げていたところ、日清・日露戦争から太平洋戦争に至る岸和田市出身戦没者の霊を祀っている「岸和田市出身戦没者慰霊碑」のお世話されている会の方が声をかけてくださって、ご厚意で靖霊殿の中を参拝させていただけることになりました。ここには、日本国内で3か所しかない「唐僧玄奘三蔵法師の御霊骨」が奉安されていました。

貴重な体験をさせて頂き、ありがとうございました。その前で記念撮影しました。

そこから、久米田古墳群を参観しながら三好実休戦没碑へ立ち寄りました。戦国時代で最初に天下を取った武将として織田信長が登場しますが、その前に十数年間、室町幕府を実効支配し事実上の天下人だったのが三好長慶で、その弟が三好実休です。今年8月第297回定例会で訪れた南宗寺を建立された方です。永禄5年(1562年)3月の久米田の戦いで紀伊の畠山高政と激突し、三好実休はこの合戦にて戦死を遂げ、三好氏没落の遠因となった合戦とされています。碑の前にある石碑には花が手向けられ何方かの墓だと思われるのですがネットで調べても解らず岸和田市教育委員会へお問い合わせしたのですが未だ返事はなく後日報告します。それから、道を少し下った所に積川神社遥拝所の鳥居があり、その前が府道30号、熊野古道へ戻ってきました

そこから南進し、「和泉式部筆塚石碑」「硯塚」「恋の淵」「恋ざめの淵」「どんび淵」と和泉式部所縁の場所を巡りました。伝説の内容と位置関係に不思議な点はありますが遺して頂いていること有難いです。

平安時代中期の歌人・和泉式部の伝説は全国にあります。民俗学の柳田国男は、全国に残るこのような伝説は中世以後に熊野社の勧進(募金活動)のために各地を巡った熊野比丘尼や瞽女など女性芸能民が語り広めた伝説と考えました。

「熊野権現」は神仏一体であり、貴賎男女の隔てなく、浄不浄を問わず、なんびとも受け入れたことは、ダイバーシティの先駆けの地と言えるのではないでしょうか。

「どんび淵」のすぐ前の信号を右に入ると慈光(じこう)寺の入口に「夜泣き石」があります。そしてJR東岸和田駅へ向かいました。改札口に到着する声を掛けられました。なんと岸和田市在住の会員さんが私たちが到着するのを30分前から待っていてくださっていたのです。前回お会いしたのはH30年11月18日第240回の朝、JR東岸和田駅へ見送り来ていただきました。発足当時から弊会の活動を理解協力応援してくださっています。有り難うございます。

今回は参加人数が多く車道を歩いたため沢山注意をしてスミマセンでした。今後も暫く車道の端を歩くコースが続きますので、交通安全には十分気を付けて下さい。

皆さま本当にお疲れ様でした。(小野田)



 

第298回定例会 令和5年9月17日(日) 鳳~和泉府中

 朝の日差しを避けて鳳駅から熊野古道と

重なる鳳本通商店街のアーケードを進んで暫く行くと左側に古い赤色の郵便ポストが現れます。そこの道を左折し進んで右折すると左手にお堂が見えてきます。それは旧家の内庭にある薬師如来堂で、そのお堂の前には明治12年(1879)に大鳥神社境内へ遷座された大鳥美波比神社旧跡の石碑(富岡鉄齋筆)が残っています。

そこから府道30号線に出て西区鳳東町7丁の旧NTT鳳営業所址付近が「大鳥居新王子」と考えられていますが碑はありません

建物の角の交差点を渡り、鳳本通商店街へ戻り、暫く進むと熊野街道の看板が設置されている鳳南地域会館があります。

当日は10月7‐8日に開催される「だんじり」の看板の下になり見えませんでした。その先を右へ曲がり道なりにすすむと道路上に熊野街道の碑が現れます。

住宅街を進むと東急車輛製造大阪製作所跡

地の再開発事業でできた鳳公園が現れますその中には日時計が設置されており、タイミングよく陽が射し、太陽が作り出す影により時間を見る事ができました。

コーヒーチェーン店を過ぎた所で古道に戻り等乃伎神社へ。参拝の後「兔寸河」らしき用水路を渡って府道30号線に戻り泉北有料道路の下を通った所にある「八軒屋から七里の碑」の前で記念撮影をしました。

暫く古道を進んで「太町」の交差点で右折れし西へ向かいました。バス停の裏のこんもりした小山が見えます。「信太貝吹山古墳」です。形状は帆立貝、和泉市指定史跡に指定されています。「貝吹山」の古墳名は江戸時代天明2(1782)年の一揆(千原騒動)において農民が法螺貝を合図に当地に集まったことに由来するものです。

ここで訂正とお詫び申し上げます。m(_ _)m   

当日「貝吹山古墳は久米田寺に移築され

ている」とお伝えしましたが、二つの古墳は別物です。調査不足でした。「貝吹山古墳」については次回第299回で説明します

そこから線路を渡って葛葉稲荷神社へ向

かい、参拝と昼休憩をしました。

午後から熊野古道へ戻り、聖神社一之鳥

居近くある篠田(信太)王子跡を訪れてから、小栗地蔵尊、小栗判官の笠かけ松・照手姫の腰かけ石、八阪神社、後鳥羽院歌碑へ立ち寄り平松王子跡へ。

そこから約500mの所にある龍運寺と伯太神社へ向かいました。元々は伯太神社の神宮寺で丸笠神社跡の丘にあった龍雲寺は寛治年間(1087~1097年)に白河法皇が熊野行幸をした時に脳を患い、この地よりはるかに熊野山に向かい全快治癒の祈念をしたところ、飛竜降臨の前兆を感じたため、飛竜権現の分霊を迎え鎮守とされました。 

ご本尊は、新宮薬師善逝・本宮阿弥陀如来・那智観音大士で明治の神仏分離令で廃絶される運命となった時、村人達が龍雲寺の本尊を村の中心にあった地蔵堂に併せ安置されたそうです。現在は無住の寺院であり、講のメンバーが順番に世話人となり、寺院の運営を行っている珍しい形の寺院であるそうです。そして、その前にある伯太神社は674年の創建、式内社で御祭神は10柱。その中に和歌山と関わり深い小竹祝丸天野祝丸が祀られています。小竹祝丸は小竹神社、天野祝丸は天野神社の祝(はふり=祭祀する者)で、『日本書紀』の神功皇后摂政元年辛巳の条に登場します

神功皇后は紀伊の国の小竹宮に遷宮したところ、何日も暗い夜のような日々が続き、理由を尋ねたところ、「小竹祝と天野祝は善い友で小竹祝は病死したところ、悲しんだ天野祝は自死しました。そこで二人を合葬しました。おそらく『阿豆那比(アズナイ)の罪=異なるムラの神主を同じ墓に合葬する罪』に当たるのでしょう」といわれたので、そこで二人を別々の場所に埋めたところ日は燦燦と暉き、日夜も別があるように戻ったとのことです。

このことから、罪人を神様として祀られている事は、まさに熊野の「よみがえりの地」を表していると思います。しかしながら「阿豆那比の罪」は、江戸時代の学者・岡部東平が「2人は男色の関係にあり、阿豆那比の罪とは男色の罪である」と異説を発表したことから、これが最古の“男色”の記録、2人の神職の同性愛に伴う罪とも指摘される場合があります。そして、小竹宮の伝承地には、県内紀の川市北志野の志野神社、御坊市に小竹八幡神社のほか、大阪府和泉市、奈良県五條市にもあります。

そして古道へ戻り、信太山駐屯地の先の

分かれ道にある小栗街道道標石碑を見て古い町並みが残る古道を歩きました。途中で大阪府立伯太高等学校の校門前にある「歴史の道熊野街道」のモニュメント、徳本上人碑、小栗街道道標に立ち寄り泉井上神社へ到着しました。次回訪れる「井口王子」を熊野社として境内に祀っている泉井上神社は井八神社・井戸ノ森八幡宮と称されることもあります。創建時期は定かではありませんが神武天皇が東征の成就を祈願したとのいい伝えが残り、神功皇后がこの地に行啓した際に突然清水が湧き出しました。これを喜んだ皇后は霊泉として祀ったことから、この地を「和泉」と呼ぶようになったといわれています。霊亀2年(716年)に河内国から分立して和泉国の前身となる和泉監が成立すると、この地が地方政治の中心地となり、和泉五社(五社大明神:大鳥/泉穴師/聖/積川/日根)を合祀した和泉国総社が建立されました。また豊臣秀吉はこの水を大坂城まで運ばせ茶の湯に用いたとも伝えられています。本殿北には、慶長10年(1605)、豊臣秀頼によって再建された五社総社の社殿が残り、国の重要文化財に指定されています。

行程8kmのところ、暑い中をあちこち立寄ってしまい12km程になっていました。 

皆さま本当にお疲れ様でした。(小野田)



第297回定例会 令和5年8月20日(日) 三国ケ丘~大鳥大社

定例会当日は、集合時間の朝9時半でも既に暑く、強い陽射しが降り注いでいました。

三国ケ丘駅の前には、日本の世界遺産で19番目に登録された「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群- 」の百舌鳥エリアの中央部に位置する日本最大の巨大前方後円墳「仁徳天皇陵古墳(「大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)」、「大山古墳(だいせんこふん)」)が現れました。しかしながら仁徳天皇陵の築造は5世紀中頃が有力のため、仁徳天皇87年(399)死去された記述とどうしても50年以上のずれが生じていて、現在は他の天皇の墓である説やそもそも仁徳天皇が実在しなかったという説もあります。

この古墳の西側に沿って熊野古道が通っています。幾つかの陪塚(近親者や従者を葬ったとされる大古墳の近くに存在する小さな古墳)を巡って大阪女子大学 大仙学舎跡に入りました 

第295回で訪れた万代池の前にあった大阪府女子専門学校が大正14(1925)に大阪市住吉区帝塚山に移転し、昭和51(1976)にこの地で大仙キャンパスとして開設しましたが、府立大学の統合・再編に伴い平成19(2007)大阪府立大学中百舌鳥キャンパス(堺市中区)へ移転しました。 

暫く進むと仁徳天皇陵をバックに皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと、生年不詳 - 仁徳天皇35年6月)の熱烈な恋の歌碑が建っています。葛城襲津彦の娘で武内宿禰の孫娘。仁徳天皇の4人の后妃、2人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年に立后。皇族外の身分から皇后となった初例で仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母でありますが、記紀によるととても嫉妬深く、彼女が酒宴の準備のために料理を盛る木の葉御綱柏(みづなかしわ)を採りに紀伊の国へ行った隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹)を宮中に入れたことに激怒し山城の筒城宮(現在の京都府京田辺市付近)に移り同地で亡くなりました。

そこから熊野古道を歩き、南宗寺へ到着。本堂内を拝観した後、長めの昼休憩を取りました。ここには「徳川家康の墓」とされるものが開山堂の跡地にあります。寺に伝わる『南宗寺史』には「大坂夏の陣で真田信繁の攻撃を受けて敗れた徳川家康は、駕籠に乗って逃げる途中で後藤又兵衛に見つかり、その槍で突かれて辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を当寺の開山堂の下に隠し後に改葬した」との話があります。

弊会では初めて南宗寺の北門を訪れ記

念写真を撮影し、そこから熊野古道へ向かいました。門を出ると街中や交差点には名勝旧跡を説明する案内板や道標が立ち並んでいました。機会が有れば商都・堺、千利休と与謝野晶子を偲ぶ道の散策をしてみたいですね。

暫く街中を歩くと環濠跡にかかる山ノ

口橋に辿り着きました。橋の4つの親柱にはそれぞれ堺の歴史に因んだ絵が描かれていました。かつて山ノ口橋は熊野街道の出入口だったそうです。そこからひたすらアスファルト道を歩きます。日差しが一番強く降り注ぐ時間帯。水分補給しながら進むと「太鼓蔵・萩黒地蔵尊」が現れました。

 

「黒地蔵」とは、地蔵菩薩の中でも、特に厄除けや病気平癒にご利益があるとされる地蔵菩薩像のことで、黒い色は火を焚いて衆生を救った際に煤けてしまったためと言われて別名「火焚き地蔵」とも呼ばれ、真っ黒なお地蔵様と言われています。けれどもこちらの黒地蔵は建立されたばかりなのか、白いお地蔵様を見ながら「いつ黒くなるんだろう?」とみんなで不思議に思いました。

 そこから、灼熱の道を進み石津神社へ和泉国の式内社。石津大社とも呼ばれ「日本最古の戎宮」と言われています。えびす神は一般的に耳が遠いとされており、石津神社では本殿横に木槌で叩いて願い事を唱える板が設置されています。

暫し休憩したものの、大鳥大社までの約2kmは遠いです。皆さん黙々と歩いて後1kmで大鳥大社の所で業務スーパーの看板が見えました。「暫く休んでいきましょう」と声をかけ、クーラーの効いた店内へ入り、アイスクリームなどを食べながら体を中と外から冷やしました。

そして、再出発。強い日差しの中、何とか大鳥大社へ到着しました。

皆さま暑い中、本当にお疲れさまでした。途中で体調を崩された方も後日回復されました。次年度の夏のコース・距離共に検討します。(文責 小野田真弓)


 


第296回定例会 令和5年7月16日(日) 住吉大社~三国ケ丘

定例会当日の朝は、集合場所の住吉大社駅のホームに降りた時から熱さに包まれました。駅から参道へ向かうと住吉大社の境内には前日に開催された例大祭の幟が沢山たっていました。

今回は住吉大社の中には入らず、大阪府内で唯一の路面電車で紀州街道の中央を走っている阪堺電軌阪堺線と住吉大社の間の歩道を歩いて「紀州街道案内板」に到着します。

そこから線路と分れ左へ曲がって住宅街の道を進んでいくと、住吉大社の摂社浅澤社と大歳社があります。住吉大社といえば商売発達・家内安全の「はったつさん」が有名で、種貸社タメカシシャ「元種を授ける神」⇒楠珺社ナングウシャ「願いの発達」⇒浅澤社アサザワシャ「芸事や美容の願い」⇒大歳社オオトシシャ「願いを成就」を巡りお参りするのが慣わしです。また大歳社には「おもかる石」があり願いを占う石として知られています。

そこから熊野古道に戻って住宅内を進むと公園の片隅に「一休禅師牀菜庵跡」があります。応仁文明の乱で大徳寺が焼けてしまったため、翌文明2年 1470(一休さん77歳)ここを拠点に大徳寺復興の活動を開始されたそうです

それから熊野古道に戻り、国の史跡に指定されている「南朝後村上天皇崩御の住吉行宮跡」を訪れました。また古道に戻って墨江小学校に向かいます

敷地内に津守王子があったと伝わり、津守廃寺跡、新宮社もあったそうです。そこから暫く歩き、宝樹寺を左に曲がり線路を渡った所に止止呂支比売命神社があり、その境内の中に「後鳥羽天皇行宮跡」があります。

そこからまた熊野古道へ戻って、大和川のほとりにある雲上地蔵尊でお参りしてから遠回りして大和川に架かる橋を渡りへ境王子跡へ向かいました。

境王子跡へ着いたのは12時を過ぎていて、トイレは無かったのですが木陰があったので境王子跡の隣の公園で昼休憩にしました。

午後からは、方違神社から古墳巡りです。方違神社の境内は車のお祓いが多いのか駐車場が整備されていました 

方違神社の南側から住宅街を通って田出井山古墳(反正天皇陵)に到着。世界遺産「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群」の登録物件です。

そこから熊野古道へ戻って、高野山女人堂十三里道標へ向かいました。

この道標の手前交差点から国道310号線と大阪府道2号大阪中央環状線との重複区間に架かる歩道橋を降りた所までの350mは熊野古道と「西高野街道」が重なっています。

「西高野街道」は平安時代末から鎌倉時代初期に開かれ、室町時代には高野聖の納骨や庶民の参詣の道となり、江戸時代には大坂、堺の町人の米・酒・綿など通商の幹線道として栄えました。この道標から高野山神谷の一里道標石まで、ほぼ1里(4km)ごとに13基の里石が建ち、安政4年1857に建立されたものがすべて現存しています。この「高野山女人堂十三里道標」の15m先に石作りの道標「竹内街道分岐点」があります。竹内街道は『日本書紀』の推古天皇21年613の条に、後に上町台地に首都の難波宮が置かれる「難波(大阪市)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた難波大道などと同様、日本最古の「官道」です。分岐点から左方向が竹之内街道で真っ直ぐ進む道が熊野古道+西高野街道です。国道に架かる歩道橋を渡って右に行く道が熊野古道、左が西高野街道です。今回は茶山古墳と大安寺山古墳(共に「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群」の登録物件)を右手に見ながら左に進み西高野街道を歩きました。二つの古墳は仁徳天皇陵の陪冢(主墳に埋葬された人物の親族や、臣下が埋葬されていると考えられています)で、濠にはさまれた堤の上に墳丘が造られることはたいへん珍しく、大安寺山古墳と茶山古墳以外では確認されていないとのことです。そして、「ミユキ御苑 仁徳天皇御陵参拝道碑」を見て南海本線の三国ケ丘駅へ向かいました。

みなさま暑い中お疲れさまでした。

(文責 小野田真弓)



第295回定例会 令和5年6月18日(日) 阿倍寺跡~住吉大社

梅雨の晴れ間の中、満員電車をやっと出た改札口には人ひとヒトの大混雑!何とか集合場所へ到着すると25人の方が集まっておられました。

 集合場所から階段を上って阿倍野遊歩道にでると掲げられた駅付近のマップの前でこれから向かう「阿倍寺址」の位置を確認しました。階段を降りてあべの筋へでると路面電車の阪堺電軌上町線の天王寺駅があり、駅周辺はスタイリッシュな建物が立ち並んでいます。 

今回調べていて「あべのハルカス」の名称は、日本の古の言葉「晴るかさむ」から名づけられている事を知りました。

『おぼつかなく思ひつめたること、すこしはるかさむ(もどかしく思い詰めた気持ちを、少し晴らそう。Weblio 古典辞書より)』

これは平安時代初期に著された「伊勢物語 九五」の一節で、はるかさむ=晴るかすは「晴らす、晴れ晴れとさせる」という意味で使われていました。2014年3月7日に全面開業した時は「日本一の高さ300m」と話題になりましたが、「ハルカス」という名前には、平安時代から続く日本人が持っている感性とことばがヒントになっていたんですね。

それから商業ビルの間を進んで庚申街道に出て阿倍寺址に到着しました。

それからあべの筋へ戻って「熊野街道」の石碑を見つけ、行き交う自転車や人混みに気をつけながら南へ進みました。松虫通りまできて「松虫塚」へ立ち寄り熊野古道へ戻って「阿倍野保名郵便局」でしばし休憩してから安倍晴明神社、阿倍王子神社(現在では大阪府下唯一の旧地現存王子社)、印山寺、源正寺にある登録有形文化財「竜宮造」に立ち寄りながら阪堺電軌上町線に戻って線路に沿って歩きました そして、前回の7巡目までは歩かなかった熊野街道を進んで万代池へ到着。昼休憩をしました。

昼休憩の後、予定通り住吉大社へ向かうと時間が余ってしまうので、午後の出発前に参加者の皆さんに相談して、「六道の辻 閻魔地蔵尊」と「生根(いくね)神社」「一運寺」へ立ち寄ることにしました。

下見をしていなかったので道が解らず帝塚山四丁目駅前にある和菓子屋さんで道を訪ね、参加者の皆さんのスマホのマップに頼りながら大阪住吉町郵便局を右手へ進み、神ノ木駅の下の道を線路に沿って歩き、遮断機のない線路を渡って暫く進むと7つの道が放射状に散らばっている場所に辿り着きました。傍らに「閻魔地蔵尊」がある、ここが「六道の辻」です。

  

 原始仏教には六道輪廻の思想がありました。人は生前(前世)の行いによって地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの迷界生死を繰り返す。六道の辻は、この世とあの世の境と信じられてきて、もし地獄に落ちたときに助けてくれるのがこの閻魔地蔵なのです。このお堂は現在も講組織によって護持されており、常駐している方がおられて、ご親切にパンフレットを2冊ずつ人数分いただきました。お地蔵様は大きく1.2m。天文7年(1538)の銘があり、中世の石仏としても希少な史料で、もとは難波の浜にあったものが、住吉の大神のもとにまつるようにとのお告げにより移されたといわれています。

そこから直ぐの所にある生根神社は、創立時期は不明ですが延喜式神名帳(927年)に官幣大社として記録された古来より有力な神社であったそうです。

また、別名「奥の天神」(奥天社)は住吉大社の奥の天満宮を称したとも、沖の天津神(少彦名命)から出た名称ともいわれています。 鳥居の前で記念写真を撮ろうとすると、ひっきりなしに自転車や徒歩で地元の方が参拝に訪れておられました。

そこから「一運寺」の前を通って、熊野

街道に戻り、「十三佛」のある宝泉寺へ立

ち寄り、住吉大社へ向かいました。

約3万坪ある住吉大社の境内には、本殿4棟、摂社4社(いずれも境内社)・末社25社(境内21社、境外4社)の計29社。そのほかに祠もあり、神功皇后11年(211)創建。日本全国約2300社ある住吉神社の総本社です。

そして、日本遺産39番「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の構成文化財に住吉大社と石灯籠が含まれています。

神前結婚式を終えた一行に遭遇、幸せな気分になりました。

暑い中お疲れさまでした。今回もご参加いただき、ありがとうございました。

(文責 小野田真弓)


第294回定例会 令和5年5月21日(日)八軒屋浜~四天王寺

快晴の下、大川(旧淀川)の渡辺の津と呼ばれ、近年「水辺で過ごす、水辺を楽しむ。川の駅はちけんや」として整備された「八軒屋船着場」にある広場に30人が集まりました。

 先ず、今回も語り部をお引き受けいただいた大上様から「大阪市パノラマ地図(大正13年)」を使って大阪市内の熊野古道のお話と「なぜ熊野詣をしたか?」や熊野の神様がその昔、天竺(今のインド)のマカダ国からやって来られたという「熊野権現縁起:五衰殿」などの説明を受けてから出発しました。

「昆布処永田屋」の店先にある「八軒屋船着場の跡」の碑の前を通り、渡辺(窪津とも)王子があったと言われる旧高倉筋の上町台地の坂へ立ち寄りました。

それから御祓筋の「熊野かいどう碑」の前で説明をうけた後、坐摩(いかすり)神社行宮(坐摩神社旧御鎮座地)向かいました。

坐摩神社は、大阪築城時に豊臣秀吉の命により、約2.3km南西に離れた場所の現在地(大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号。市営地下鉄本町駅南側)に遷座し、渡辺(窪津とも)王子は堀越神社へ遷座しましたが、令和5年4月22日に440年ぶりに御霊が坐摩神社旧御鎮座地に戻されました。5年前に来た時は、ビルの谷間にひっそりと佇む神社でしたが、美しい社殿に建て替えられていました。

坐摩神社前と後 撮影:佐本守氏

 そこから、北大江公園を通って坂口王子跡のある南大江公園へ向かいました。狸坂大明神の木陰で一休みし、

樹齢650年と推定される大きな榎がのある榎木大明神へ。またこの榎は一里塚であるとの説もあります。

 それから、空堀商店街を通って高津宮へ向かいました。

高津宮の境内には、郡戸(こうづ)王子推定地の碑があります。

また此処から北東約600mの所には「熊野街道 道標(上本町西3丁目)」がありその近くにある楠木大明神の南側には「近松門左衛門墓(国指定史跡)」がありますが、近松門左衛門の浄瑠璃作品の「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」では、絵師が遊女の世話役「みや」と熊野詣する場面があることを伺いました。

高津宮の公園で昼休憩をしました。

 午後は、高津宮から上町筋へ移動し、南下して上宮学園の南側にある上之宮台ハイツの玄関に置かれてある上野王子址(上宮之址)へ向かいました。

そこから四天王寺へ向かいましたが、21日はお大師様の命日で中心伽藍と絵堂が無料開放され、境内では骨董市が開かれ、境内は多くの参拝客、観光客が集まっていました。やっとのことで南大門の前にある四天王寺四石の一つである「熊野権現礼拝石」へ到着しました。陽射しが強く気温も上がって暑い中、みな様お疲れさまでした。私も2か月ぶり歩いて疲れましたが、みな様とお話しながら一緒に歩くことが出来て楽しかったです。ありがとうございました。(文責 小野田真弓)

 

 

第293回定例会 令和5年4月16日(日)城南宮界隈散策

JR海南駅から、くろしお12号、9時39分発に乗り込みました。高垣くんも和歌山駅から乗り込んできました。京都までの直通は、この1本だけですが、乗り換えがなく非常に快適でした。新しくなった大阪駅などを横目に、京都駅へ。

竹田駅では、果たして参加者はいるのだろうかと心配でしたが、予定通り11時33分竹田駅に着くと、6番出口は黒山の人だかり。おおー、36名もの参加者ということで、テンション上がる。

高垣くんに一番後を押さえてもらって出発。

まず、下調べした住宅街にぽつんとある【南天塚跡】へ。

南天塚は竹田四十八塚として旧竹田村地域に散在している墓塚の一つ。一説に鳥羽殿の遺跡といわれる石標が建つ。(所在地 伏見区竹田西桶ノ井町)  

次に、【安楽寿院】、京都市伏見区竹田にある真言宗智山派の寺院。

京都の南に位置した鳥羽離宮の東殿に鳥羽上皇が造営した仏堂を起源とする皇室ゆかりの寺院。

この門前に【車塚の跡】の石碑が会ったが今はないという。車塚は竹田四十八塚として旧竹田村地域に散在している墓塚の一つ。鳥羽離宮を開いた白河法皇(1053~1129)が、離宮より東山へ花見の宴に行った折に、裾野の外れの当所に車を駐め、花見をしたという。会員さんにあたりを調べてもらいましたがやはり石標を発見することができませんでした。【安楽寿院の三尊石仏】

当時は、薬師三尊像のお顔を削って水で練り、子どもの体に塗ると湿疹が治るという信仰があったため、お顔は削られてしまい、のっぺらぼうとなっています。

【北向山不動院】京都市伏見区にある天台宗系単立の寺院。山号は北向山。本尊は不動明王。開山は覚鑁。会員さんから、この日は拝観料が無料と聞き、皆さんに入っていただきました。

次に、【西行寺】へ。

この地は,白河天皇陵の北にあり,西行(1118~90)が鳥羽上皇(1103~56)の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝える場所です。公園に石標があるのみで、西行寺の跡を残すものは何もありません。

ついに【城南宮鳥居】に着く。

13時、ここで皆さんに食事休憩をとってもらいました。このとき、さっそく私は偽山伏に変身して、午後からの行事に参加しました。

【神苑 源氏物語花の庭】へ。

四季折々の花や紅葉に彩られ、また清流や池を随所に配した城南宮の神苑「楽水苑」は、『源氏物語』に描かれた80種あまりの草木が植栽されています。

【曲水の宴 遣水】

4月29日(昭和の日)午後3時より神苑内、平安の庭で斎行されるといいます。清流に盃が流れる曲水の宴は、『日本書紀』に記されている伝統行事。奈良時代から平安時代中期にかけて宮中の年中行事として正式に行われたという。先日、海南市の鈴木屋敷が再建されましたが、ここにも、曲水の施設があるのを皆さんに披露しました。のちに、戦乱の世となり長く途絶えましたが、江戸時代半ばの享保17年(1732年)に8代将軍徳川吉宗が故実を精査して曲水の宴を江戸城で再興したといいます。やはり、和歌山のお殿様。熊野古道の復興に力を入れた吉宗さん。今後は、吉宗の熊野古道の復興事業を、当会で精査して発表したいものです。

城南宮までの案内となりましたが、時間のためここから竹田駅に引き返しました。それまで天気はもっていたのに、ついに雨が降ってきました。急いで、竹田駅に戻り、ここで無事解散。お疲れさまでした。    

  (文責 大上敬史)








第291回定例会令和5年2月19日(日) 大辺路①

今回も定例会当日は雨の天気予報。JR紀伊田辺駅で集合時間まで待っている時も今にも降りだしそうな空でした。

このコースは、「和歌山県の街道マップ大辺路」ではJR紀伊富田駅まで18.6kmを1日で歩く行程ですが、今回は2回に分けて歩くことにしました。

それで前回は何時歩いたか?と確認すると第256回令和元年3月15日にコロナ禍で中止にしていて、その前は第81回平成16年2月20日に歩いていたので、なんと19年ぶりに歩きました。

雨合羽に身を包んで、闘鶏神社へ向かいました。参拝した後、鳥居を出て右手に進むと、道路に出た所に大辺路の道標があります。その前の道が県道31号線。熊野本宮大社へ向かう路線バスが走る道になります。途中まで舗装道路の歩道を歩いて大潟神社へ向かいます。20分ぐらい道なりに進むと、名喜里交差点に到着します。交差点を渡った所に道しるべがあり、県道に沿って旧道へ入ります。暫く進むと県道31号線に交差し、歩道橋を渡ります。歩道橋を降りると道標があります。

今回の区間は市街地内を抜けるコースなので道順は複雑ですが、道標が設置されていて順路はわかりやすいといわれていますが、それだけを頼りにしていた私は下見の時に大潟神社から上富田町の南紀の台手前にある紀勢自動車道の高架下の道標まで迷子になってしまいました。

話を戻しまして、先ほどの歩道橋を降りた所にある道標から旧道を進んで川沿いで県道31号線と再び交差し横断します。川沿いを進みJAの前で橋を渡ると住宅街の路地を進んでいきます。

ここの住宅街はレトロな建物が多く、某材木会社の本社がありますが、居宅の外壁に使われている木材には丁寧に細工が施されていました。そのまま進むと左側に道標が見えてきます。その前の道を左へ曲がると住宅お間に鳥居が現れます。大潟神社です。階段の参道の脇には、「安政の津波の碑」と「宝永の津波の碑/津波到達線(古老言傳)海抜十三米八十糎)」があります。

大潟神社は、もともとは若一王子社と呼ばれて熊野街道大辺路に面してふもとに鎮座していたそうですが、昭和16年に高台に神殿を造営して奉遷されました。社伝によると、欽明天皇10(520)年の頃の創建とありますが詳細はわからず、最も古い「田辺村々・瀬戸・神社書上」(慶安2年)に記されていることから、慶安2(1649)年以前の創立であると考えられます。明治維新の神仏分離の動きの中で、明治元年9月、大潟宮(大潟神社)と改称されました。

7月14日は、大潟神社に合祀されている祗園社の祭りで、その前夜、名喜里橋から神社までの家々で軒下や玄関先に昔話や伝説に因んだものや縁起のよいものを野菜、花、木の葉などで工夫して作った出し物を飾りつけます。これは新庄町名喜里の民俗行事になっていて、「ぎおんさんの夜見世」といいます。その昔、大潟神社のぎおんさんに夏場の流行り病をお払いしてもらうために始まったと伝えられています。

そして、大潟神社の鳥居を出てすぐ、神社の石垣に沿った小道を進みますが、下見の時にこの道を通らず旧道を進んでしまい国道42号線と交差するバイパスへ出て上富田町との境にあった田鶴トンネル跡に沿って歩いて上富田町の南紀の台手前にある紀勢自動車道の高架下にある道標の所まで来てしまいました。

それで本番の定例会では、田辺市在住の会員藤川ご夫妻に道案内をしていただきました。大潟神社の脇の小道を登り陸橋を渡ると平地へ出ました。

そこから新庄峠を登るルートですが、藤川会員が下見をしていただいた時に「ハチの巣がある」と地元の方に教えてもらっておられたので峠を行かずボタン工場の前を通って42号線へ向かいました。下る途中で雨が急に降ってきましたが、峠から移されていた「峠の高地蔵」に立ち寄りました。

42号線に合流し暫く進むと「太子堂」があり、対面の民家の庭にある「弘法の井戸」を見ながら「糠塚」へ。

ここには「史跡・大沼大橋の板碑」と「峠毘沙門神社」が祀られていました。

その先にある交差点を渡って道なりに行くと線路を通過する陸橋を渡り、降りた所に道標があり朝来駅周辺の住宅街へ進みます。すると会員さんの一人から「この先に美味しいお饅頭屋さんがある」と教えていただきお店へ向かいました。

お土産を購入している間に小雨になってきました。

そして、時計を確認すると後10分足らずでJR朝来駅12:05発の紀伊田辺行の電車に乗れます。これを逃せば14:13まで2時間余り待たなければなりません。それで、櫟原神社には次回立ち寄ることにして駅へ急ぎました。

最後は参加者の皆さんを慌てさせてしまい申し訳ありませんでした。お陰様に無事電車に乗れました。雨の中お疲れさまでした。


第287回から290回は近々アップします。スミマセンm(_ _)m


第286回定例会 令和4年1016日(日) コース: 滝尻王子跡~高原(昼食)~牛馬童子口 約12km 数日前まで週末は雨天で降水確率も高く、困っていましたが、定例会当日は晴れて日差しが差し込む時もありました

JR紀伊田辺駅から路線バスに乗り込むと外国人の方が数名おられて、出発してから田辺市内のバス停でも外国人の方が3名乗車されてきました。

滝尻王子跡前に到着すると久しぶりに参加された方など13名がおられました。そして、大きなリュックサックを背負った外国人3名とガイドさんの4人組の方が先に歩き始めました。

さて、滝尻王子跡=滝尻王子宮十郷神社前で合流する2つの川は、明治22年の大水害の前は、岩田川の川幅はもっと狭く、石船川は鳥居の前を流れていたそうです。また、鎌倉時代の幾つかの書物では「観音菩薩の補陀落浄土から流れてくる岩田川の水と薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる石船川の水で沐浴することで罪が滅される」と滝尻王子での水垢離の意義が説かれていました。ここからが聖域、ここからが世界遺産登録エリアです。

そして、今回歩くルートは近年新たに設定されたルートで、上部にある聖域(乳岩と胎内くぐり)に直接向かう道になっていますが、鎌倉時代までは、境内地から尾根筋上の鞍部までが一体となった磐座祭祀の聖域(南斜面)に拝礼しつつ進むものであったと考えられています。承久の乱(承久3年1221年 大河ドラマでももうすぐ登場)以降、皇族貴族による熊野詣の衰退で九十九王子社の衰退・退転がすすみ、さらに岩田川を何度も渡渉しなければならない難路であることから滝尻王子を経由していた参詣道が潮見峠越えの道に転じて行き、室町時代頃までには滝尻王子は近隣の住人のための叢社の地位に戻ったと考えられています。

今回は集合時間を1時間早い8時50分にして、高原の在所までの前半4kmを約2時間半で歩き、昼休憩後の後半、高原から牛馬童子口バス停まで4時間で歩くように変更しましたが、滝尻王子の裏山は急な坂が続き、まだ筋肉が温まっていないので、苦しい思いをしながら胎内くぐりまで上がりました。

そこから不寝王子、剣ノ山経塚跡までも急な上り坂が続きます。剣ノ山経塚跡からはフラットな道で、25分ほどで高原への車道と交差します。

そのあと針地蔵尊を過ぎてから階段状の登り坂道が続き、登り切ると高原の里に出ます。前は登りきった所に電波塔が建っていました。その電波塔が建つ前は急な階段状の道はなく、今の車道の一部が熊野古道だったそうです。

そして、高原熊野神社まで続く道の両側には、洒落た旅籠やゲストハウス等宿泊施設が数件建っていました。

どの看板にも英語が書かれ、これから観光政策が緩和されたら、また多くの外国人観光客の方々に歩きに来てもらいたいですね。

高原霧の里休憩所で昼食の休憩。

朝、先に出発されていた外国人4人組もお昼休憩をしていました。お話を伺うと日本全国を歩いておられて、最後に熊野古道に来られたそうです。

昼食後、3名の方が栗栖川へ向かわれ、後半は11名で牛馬童子口を目指しました。高原の在所から旧旅籠通りを通って「庚申さんと大日如来」までは滑りやすい石畳の細い登り坂が続きます。「庚申さんと大日如来」からは山道に変わりますが、登り坂は続き、疲れは増してきました。

それでも参加者の皆さんの協力のお蔭で、和歌山県街道マップの推奨標準歩行時間と同じ時間で大門王子から十丈王子まで進んできました。

小判地蔵の手前にあった登り坂もしんどかったですが、悪四郎屋敷跡を過ぎ一里塚の後、道標17番から18番までのつづら折れの急な上り坂は本当にキツかったです。やっとのことで上多和茶屋跡の看板が見えた時は、「やれやれ、やっと着いた」と、安堵しました。 そこからは、ずっと下り坂になり林道との交差点にやってきました。

「後15分で大坂本王子、王子跡から15分で牛馬童子口ですよ」と声かけながら「板尻の谷」と呼ばれる幅の狭い下り坂を歩き進みました。

だいぶ疲れてきたようで何度も木の根に足を引っ掛けながら小川沿いの坂道をどんどん下っていきます。車道を行き交う車のエンジン音が近くなってきました。もうすぐゴールです。

牛馬童子口のバス停に15:40に到着。皆さんの協力のお蔭で予定より早く到着出来ました。外国人4人組も到着されておられました。路線バス発車時刻まで、お土産を買ったり、座って休みながら過ごしました。皆さん、本当にお疲れ様でした。

第286回定例会 令和4年918日(日) コース: 稲葉根王子跡清姫の里 台風のため中止

285回定例会 令和4年821日(日) コース: 高野参詣道:京大阪道不動坂~奥の院 約6km

 今回の定例会では、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」が平成28年(2016)に追加登録された『高野参詣道;京・大阪道(きょうおおさかみち)』の最後の難所「いろは坂」を歩いてきました。

朝6時前後にスゴイ雨が降り、電車で移動中も止まず、諦めて電車内で雨具に身を包み、極楽橋駅まで来ました。

「熊出没中」の看板がある極楽橋駅の改札口を出ると、雨が止んでいます。

けれども空には暗雲が垂れ込めていて雨具を纏ったまま赤い極楽橋へ向かいました。

橋のたもとのお地蔵様がおられ左側には南海線の線路があります。

その線路の先に「だいしあしあとすぐ」と刻まれた石標が立っています。

「だいしあと」とは、弘法大師の足跡と伝承される窪みが二つ残る岩のことで、窪みの幅が四寸あることから「四寸岩」と呼ばれています。南海線が開通されるまで、石標の間は道が続いていました。

橋を渡ったところに「不動坂 女人堂迄二十四丁」と刻まれた道標が立ってあります。

その傍にスタンプ台があり、スタンプを押したり、雨具をリュックに仕舞ったりして山道に向かう準備をしました。

高野参詣道・京大坂道の極楽橋から不動坂女人堂口に至る区間は「不動坂」と呼ばれます。

この道の途中に「不動堂」が建っていたことに由来します。ここから不動坂女人堂までは約 2.7km と比較的短い距離ですが、高低差 310mある急坂で京大坂道最後の難所であったといわれています。

京大坂道不動坂は、1915年(大正4年)の高野山開創1100年を期に大改修が行われ、旧来の不動坂の急峻な坂道「いろは坂」を迂回する新道が作られました。

新不動坂は、幅員、ルート共に大幅に変更され歩きやすくなりましたが、旧来から使用されてきた旧不動坂は使用されなくなり、現在では不動坂といえば新道の不動坂を意味するようになっています。

新不動坂が主要参詣道となって以来、旧不動坂は使用されず、また開発されることも無く放置されたために江戸時代に描かれた「紀伊国名所図会」とほぼそのままの状態で保存される事となりました。

平成23年(2011)から、永らく使用されず山に埋もれていた旧不動坂が古道整備事業により調査が行われ、朽ち果てた桟橋の掛け替や「いろは坂」や、罪人を突き落としたと伝わる「万丈転かし」などが約100年ぶりに復元整備されて平成28年(2016)世界遺産に追加登録されました。

新不動坂は石畳が敷かれています。

暫く急な坂道を歩いて行くと、右手の山道へ上る道が現れます。そこが旧不動坂「いろは坂」への入口です。

ここからの登り坂はつづら折れの形式をそなえ、全ての曲がりをとって「四十八曲がり」と呼ばれていて、弘法大師が作ったという「いろはにほへと・・・」の「いろはうた」の字数につなげて、「いろは坂」とよばれるようになったと説明板に書かれていました。

 30分近くつづら折れの山坂道をのぼると木の柵が現れます。「万丈転かし」に到着です。

この場所は断崖絶壁で、足を踏み落とすと命にかかわる場所。その昔、罪人の手足を縛り付け、簀巻きにして落として、命が助かればそのまま放免という刑罰が行われていたそうです。

次に現れたのは「外不動」の説明板です。大正9年(1920)までこの場所に不動堂が建っていました。この不動堂は不動坂口女人堂の傍に立っていた不動堂(錐揉不動)の内不動に対して、外不動と呼ばれていたそうです。江戸時代にはすでに建立されていましたが、明治16年(1883)に焼失、明治20年(1887)に再建された後、大正9年(1920)に「清不動キヨメノフドウ」として新不動坂に修復移転されました。 

 途中、雨が降ったりして、汗か雨のどちらに濡れたのか解らない状態でしたが、涼しい山道を歩き「清不動」に到着しました。

「清不動」のお堂の右奥の旧道は短い距離ですが、急な坂道になっています。坂道を登り進んで「花折坂」へ。

高野山を目前にした参拝者たちはこの場所で花を摘んで当時2基あったという華瓶に供えたことからこの名前が付いたといわれています

 新不動坂と合流した左手には明和3年(1766)の宝篋印塔と石仏あり、道は舗装道路に変わります。舗装道路は坂道になり、南海のバス専用道路と合流、不動坂が終了しました。

 不動坂口女人堂で早めのお昼休憩をした後、壇上伽藍へ向かいました。

その途中で精進料理の「生麩まんじゅう笹巻きあんぷ」をお土産に買いました。

 平成27年(2015)に高野山開創1200年記念大法会の特別事業として172年ぶりに再建された中門により壇上伽藍は、弘法大師が高野山を開山した際、真っ先に造営に取り組んだ場所で密教思想に基づく曼荼羅の世界観を具現化した形になりました。

 現在、インドや中国、またそこから伝播した東南アジアなどでは密教の伝統は途絶え、信仰や研究が続いている密教は、日本とチベットだけとなっていますから、世界文化遺産登録基準「3」の「現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠」となっています。

 今回、壇上伽藍の基本的な回り方(時計回り)で中門から、金堂、六角経蔵、御社、山王院、西塔、孔雀堂、准胝堂、御影堂、大塔、大塔の鐘、愛染堂、不動堂、勧学院、大会堂、三昧堂、東塔、智泉廟、蛇腹路、六時の鐘の順で回りました。それから高野山のメインストリート、金剛峯寺前を東西に走る県道53号線(道の下が暗渠となっていて地面の下を流れている)を歩いて一ノ橋まで向かいました。

 一ノ橋では神戸から来た中学生の団体と一緒になり、抜きつ抜かれつしながら墓石群の中を歩きました。

 コロナ禍で残念ながら地下御法場は閉まっていました。参拝者や21日は、お大師様の月命日。観光客もそこそこ居られました。

 でも高野山なのに暑かったです。みな様お疲れさまでした。


第284回定例会 令和4年7月17日(日) コース: 岩代駅~みなべ駅 約6km

今回の定例会は、今年の猛暑から午前中だけ歩くコースに変更しました。

そして、みなべ観光ガイドの方々に新たに史跡登録された「千里王子跡北東参詣道(みなべ町山内、約180メートル)」を含め案内していただきました。

 JR岩代駅に到着すると、既にみなべ観光ガイドの石大和子(こくおおかずこ)様が出迎えて下さいました。石大様は地元岩代の方で、岩代駅から千里までを案内していただきました。

 集合が8:35にも関わらず、歩きはじめると日差しが強くなってきたので、手持ちの傘をさして歩くことにしました。

日差しの強い暑い時期に傘をさせば肩や腰まで日陰になり、ソーシャルディスタンスも確保できます。

 梅畑の木陰で休みながら世界農業遺産「みなべ・田辺の梅システム」についてお話を伺いました。世界農業遺産は令和4年7月現在、世界で22ヶ国67地域、日本では13地域が認定されています。

登録されたエリアでは、養分に乏しい斜面の梅林周辺に薪炭林を残すことで、水源涵養や崩落を防ぎ、薪炭林を活用した紀州備長炭の生産と、ミツバチを受粉に利用した梅栽培を行っています。

梅畑の合間を暫く進んでいくと、みなべ観光ガイドの会会長の坂本恭子様から電話が入り、昨日までの雨で道が崩れていることが解かり、迂回路を行くことになりました。古道に戻り、ガードをくぐると千里の浜に出ました。

すると、千里王子跡との間の浜に幅広い川が流れていて、王子側の対岸に坂本会長が手を振っておられました。

なんと昨日の雨による増水で、いつもは幅の狭い川が1メートルになっていたのです。水はどんどん増え、そのうえに潮が満ちてきて川幅は広がっていきます。また来た道を戻れば迂回路があるそうですが、王子社は直ぐそこにあります。

ここまで来たら、飛び越えるしかありません。助走をつけ、一人一人と川を飛び越えました。けれども、みんな足首まで水に浸かってしまいました。

千里王子から南部駅までは、坂本会長が案内してくださることになりましたが、石大様も引き続き一緒に歩いてくださいました。

 千里王子跡でトイレ休憩をして、「千里王子跡北東参詣道」へ向かいました。

線路の手前にある道標を右に曲がった所にある小川沿いの道は、柔らかい土の道です。その道を木々が覆い、日差しを遮ってくれていました。下草・雑草も刈り取られてあり、大変歩きやすい道になっていました。

それから道は梅畑の中を登り、一般道と合流します。朝からアスファルトに降り注がれた日差しで坂道は熱くなっていて、疲れが出始めた身体にはきつくなってきました。それで南部峠(地蔵峠)の石造り地蔵菩薩像の前で休憩することになりました。

この峠は、古代から明治初期に至るまで約千年にわたって人々が往来した峠で交通の要所でもありました。「中右記(1109年)にも「南陪山(みなべやま)を越え」と登場します。また、古い時代から地蔵堂や茶屋が建てられたと推定されています。こちらの地蔵菩薩像は、高さ31センチメートルの台座の上に像高50センチメートルの石造座像が安置されています。造像年代は室町時代と推定され、骨折に霊験顕かであるといわれ「骨つぎ地蔵」と称されているそうです。

坂本会長から地元に伝わる民話を伺い

ながら、ゆっくりと休むことが出来ました。峠を下って橋を渡ってみなべの街中に入っていきました。

和歌山県指定文化財の樹齢約300年の大イチョウ(雌株)のある丹河地蔵堂まで来ると三鍋王子跡まではもう少しです。 

王子跡は木々で覆われ木陰になっていました。ベンチもあり、ゆっくり座ってお話を伺いました。

お二人のガイドの方に案内いただき、贅沢な定例会になりました。

暑い中、みな様お疲れさまでした。


第283回定例会 令和4年6月1日(日) コース: 印南駅~切目王子~岩代駅 約10km


 定例会の数日前までは降水確率70%や午後から雨など様々な雨天の予報がでていましたが、当日は曇り空の下、開催できることになりました。

けれども最高気温が11時頃には29℃となる予報は変わりませんでした。夏のウォーキングは熱中症対策のため水分補給の水を大量に持って歩くために背負う荷物が重くなります。そして、未だ暑さに慣れていない心身で長距離を歩くにはリスクがあります。それで参加者の皆さんに説明した所ご理解いただき、予定コース14kmを10kmに短縮することにしました。

 前回(令和4年2月20日第278回定例会)は、西御坊駅から切目駅まで歩く予定が、急に雨が降ってきたため印南駅で終了しました。今回はその続きで印南駅から出発しましたので先ず「東光寺」へ向かいました。西御坊駅から切目駅のコースでは、東光寺に立ち寄ると17km近くになってしまうので滅多に行くことはありませんでした。

この寺には、 県指定の文化財1つと町指定の文化財が2つあります。

県指定文化財は、寺の入口の右側にある「ナギノキ」です。推定樹齢約700年余といわれ熊野速玉神社のナギに次いで県下2番目の大きさです。

町指定の文化財の一つ目は、観音堂の小さな木箱の中に安置されている帆船に乗る三十三菩薩像です。

現在は秘仏で残念ながら拝観することはできませんでした。二つ目の町指定文化財は観音堂の左奥にある宝篋印塔です。

この塔は町最古のもので紀年銘はありませんが鎌倉時代の様式を色濃く残しています。その昔に熊野古道沿い建立された物が東光寺に移されたと思われています。また県内には鎌倉時代の石造遺物は数えるほどしかなく、貴重な一基であります。

そこから、町内の路地を歩き、お地蔵様が並ぶ道を登って進み、光川橋を渡って細い道を進みます。途中で道に迷いましたが、路地に戻り、国道42号線の左側の道を登って斑鳩王子へ到着しました。東光寺からこの当たりの熊野古道は小栗判官が照手姫に曳かれて行ったので「小栗街道」と呼ばれています。いつもは国道を歩くので「何処へ連れて行かれるのだろう?」と思われた参加者の方もおられました。そして国道へ戻り、切目王子へ向かいました。

切目王子は五体王子の一つ。県指定天然記念物のホルトノキは推定樹齢約300年余といわれています。

そこから町内を歩いて進み、切目川に架かる切目橋を渡ろうとしたら橋がありません。新橋建設のため撤去されていていたのです。それで、一番近い橋が国道に架かる橋と解かり、少し迂回して橋を渡り、古道に戻ると直ぐに線路が現れました。

ガード下をくぐり、右手の線路沿いにあるのが光明寺です。町指定の文化財「蘇鉄」は町内の数ある蘇鉄の中では最大です。そして、古道に戻り坂道を登って切目中山王子跡に到着しました。中山王子社前には、榎木城主の墓と伝えられる宝篋印塔があります。紀年銘はありませんが室町初期の造立と考えられます。

そこから榎木峠をこえて海へ向かいます。山道の途中で梅農家の軽トラック数台とすれ違いました。その荷台に積み込んである大量のコン

テナの中には大粒の梅がどっさり入ってありました。その粒は鮮やかに赤く染まり、爽やかな香りが立ち込め一時、暑さを忘れさせてくれ

ました。

梅畑の間の山道をしばらく進んでいくと前方から心地よい風が吹いてきました。視界が開け、目の前に海が現れました。

山道は終わり徳本上人名号を左に曲がると国道と平行した農道を進んで国道へ出ます。

しばらく歩いて、国道から左へ曲がる前に「岩代の結松」の碑を道越しに眺めて、緩やかな坂道を登ります。

道の突き当りに光照寺があり、その左側に移設された犬養孝先生(1907年‐1998年)揮毫の「万葉歌碑」があります。

この碑には、有馬皇子が詠んだ歌「岩代の浜松が枝を 引き結び ま幸く(まさきく)あらば また帰り見む

《岩代の浜松の枝を結んでゆこう。もし願いかなえば無事に還って再び見ることができるだろう》」と

中皇女(斉明天皇説)が詠んだ「君が代もわが代も知るや 岩代の岡の草根を いざ結びてな 

《あなたの定めもわたしの定めも知っている岩代の岡の草をさあ結びましょう》」の二首が記されています。

その当時、松の枝を結んで幸運を祈るという風習があったそうです。

歌の説明をしている時に町内放送で12時を知りました。到着地の岩代駅まで歩いて30分程ですが、朝が早かったこともあり、お寺のトイレを使わせていただける事もできたので昼休憩にしました。

座って食事している間も気温はどんどん上がっていきました。

休憩後、農道から国道へ戻りしばらく歩くと国道の左側の道を下って国道をくぐる道へ進みます。梅農家のビニールハウスが立ち並び、その中には梅を干すための準備が着々と進んでいました。

梅畑の先にある線路を渡ると浜に出ます。岩代王子跡です。岩代の地名は、岩石信仰から名付けられたともいわれていま

天仁2年(1109年)は藤原宗忠が、建仁元年(1201年)は後鳥羽上皇に随行した藤原定家が参拝したと日記に記されています。

「千里王子3.0km」の道標の前を通って岩代駅へ向かい終了しました。暑い中、本当にお疲れ様でした。



第282回定例会 令和4年515日(日) コース: 「和歌祭四百年式年大祭」記念ウォーク 約5km

JR紀三井寺駅~紀州東照宮~和歌浦天満宮~高津子山~玉津島神社~塩釜神社~JR紀三井寺駅

定例会開催日の数日前までは天気予報は雨でしたが、当日は好転し曇り空の下、開催することができました。

「和歌祭四百年式年大祭」の神事を見る為、集合後は挨拶もそこそこに紀州東照宮へ向かいました。  

途中、和歌浦河口に向かう道に出た時、河口に浮かぶ小島の妹背山の中腹にある海禅院多宝塔直接を見ることが出来ました。

今迄は多宝塔の前にあった観海閣があり見えなかったのですが観海閣は撤去されていました。

この観海閣は、頼宣が慶安年間(1648~1652)に木造の水上楼閣として建立したもので対岸の紀三井寺と対面しています。

当時の建造物は昭和36年に第二室戸台風で流出後コンクリートで再建されたものでした。

定例会終了後に確認してみると建て替えのため撤去されたそうです。

市町川に沿ってあしべ通りを足早に急ぎましたが殆ど通行人がなく静かな佇まいです。

海岸通りとの交差点を渡って二の鳥居をくぐるとやっと祭の法被を着た人達が集まっていました。

三の鳥居迄の参道は何時もは駐車場になっていますが、今朝は祭の関係者や観光客、カメラマンが沢山集まっていていました。

三の鳥居の中は鬱蒼とした木々に囲まれ、参道は青石が敷き詰められ家臣たちが寄進した石灯籠が等間隔に並べられています。

鍵の手で折れ曲がった所まで行くと侍坂が見えますので進もうとした所、「神輿が通りますので石垣の上の赤い柵の中へ入ってください」と消防署員の方が大きな声で何度もアナウンスしていました。

けれども観光客やカメラマンの方は少なく、和歌祭り初体験の私たちは「どういうこと?」と訳も解らず登って赤い柵の中へ入りました。

すると爆竹のような花火を打ち上げるような音が突然聞こえてきました。8時です。「神輿おろし」の神事の始まりを告げているようでした。

暫くすると木立の隙間から神輿が見えました。神輿は、急勾配の108段の石段を右へ左へ移動しながらゆっくりと降りていきます。

そして神輿が坂を降りてしまったのか見えなくなると、大勢の人が侍坂の方向から三の鳥居へ向かって移動してきて私たちの前の参道を埋め尽くしました。それと同時に消防署員の方の「神輿が来ます。上に登ってください」という注意アナウンスが響きわたってきました。

大勢の人達の中に会員さんや知り合いを見つけては次々と赤い柵の中へ引き上げました。

「一体何が始まるんだろう?」とドキドキわくわくしながら待っていると参道の奥から低いうなり声のような音が響いてきます。

気づくと白や黄色の装束を纏った人たちが担いだ黄金の神輿が目の前に迫ってきました。

「あぁ!」と思わず声がでてのけ反りました。神輿は近くにあった石灯籠にぶつかると対面の石垣に向かっていきます。

すると白装束の一人が石灯籠と担ぎ手の間に入って神輿が石灯籠にぶつかるのを防いでいます。

神輿は参道を右へ左へ動きながら、あっという間に鳥居をくぐっていきました。

すると参道の奥から次から次へと人がやってきて暫く柵の中から降りることが出来ません。

 やっとのことで参道へ降りて三の鳥居まで行くと、今度は駐車場内で「神輿出立式」が始まっていました。

その間、救急車が一台やってきました。

そして、神輿は和歌山城へ向かいました。

すると潮が引いていくように、歩道橋の上まで溢れていた多くの人が居なくなっていきました。

私たちは静けさを取り戻した参道を侍坂へ向かいました。石橋の前の石灯籠が倒れて砕けていました。

夕方のニュースで石灯籠倒れ見物客が頭に軽傷されたことを知りました。

それから侍坂を登りましたが、この急で幅の狭い石段をあの大人数の担ぎ手が神輿をおろして言ったかと思うと足が震えてきました。

東照宮を参拝し、今度は「ゆるやかな階段」を降りました。

次に和歌浦天満宮への石段を上がって参拝した後、拝殿の左奥にある章魚頭姿山(高津子山)方面への潮騒の小径へ向かいました。

山道は疲れた足に優しかったです。

高津子山の展望台へ上がると晴れてきて360度み渡すことが出来ました。心地良い風が吹いていました。

 あしべ通りを戻り、玉津島神社へ到着しました。塩釜神社へ参拝した後、不老橋へ向かいました。

    湯浅町から参加した方から「不老橋を作った方は、湯浅の深専寺にある「大地震津なみ心え之記(大地震津波心得の記)」の石碑を作った方と同じ人」とおしえてもらいました。調べてみると橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工で、勾欄部分については湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されているそうです。最後に和医大の前にある「紀州藩塩田跡」に立ち寄りました。みなさま、お疲れ様でした。




第291回定例会令和5年2月19日(日) 大辺路①

今回も定例会当日は雨の天気予報。JR紀伊田辺駅で集合時間まで待っている時も今にも降りだしそうな空でした。

このコースは、「和歌山県の街道マップ大辺路」ではJR紀伊富田駅まで18.6kmを1日で歩く行程ですが、今回は2回に分けて歩くことにしました。

それで前回は何時歩いたか?と確認すると第256回令和元年3月15日にコロナ禍で中止にしていて、その前は第81回平成16年2月20日に歩いていたので、なんと19年ぶりに歩きました。

雨合羽に身を包んで、闘鶏神社へ向かいました。参拝した後、鳥居を出て右手に進むと、道路に出た所に大辺路の道標があります。その前の道が県道31号線。熊野本宮大社へ向かう路線バスが走る道になります。途中まで舗装道路の歩道を歩いて大潟神社へ向かいます。20分ぐらい道なりに進むと、名喜里交差点に到着します。交差点を渡った所に道しるべがあり、県道に沿って旧道へ入ります。暫く進むと県道31号線に交差し、歩道橋を渡ります。歩道橋を降りると道標があります。

今回の区間は市街地内を抜けるコースなので道順は複雑ですが、道標が設置されていて順路はわかりやすいといわれていますが、それだけを頼りにしていた私は下見の時に大潟神社から上富田町の南紀の台手前にある紀勢自動車道の高架下の道標まで迷子になってしまいました。

話を戻しまして、先ほどの歩道橋を降りた所にある道標から旧道を進んで川沿いで県道31号線と再び交差し横断します。川沿いを進みJAの前で橋を渡ると住宅街の路地を進んでいきます。

ここの住宅街はレトロな建物が多く、某材木会社の本社がありますが、居宅の外壁に使われている木材には丁寧に細工が施されていました。そのまま進むと左側に道標が見えてきます。その前の道を左へ曲がると住宅お間に鳥居が現れます。大潟神社です。階段の参道の脇には、「安政の津波の碑」と「宝永の津波の碑/津波到達線(古老言傳)海抜十三米八十糎)」があります。

大潟神社は、もともとは若一王子社と呼ばれて熊野街道大辺路に面してふもとに鎮座していたそうですが、昭和16年に高台に神殿を造営して奉遷されました。社伝によると、欽明天皇10(520)年の頃の創建とありますが詳細はわからず、最も古い「田辺村々・瀬戸・神社書上」(慶安2年)に記されていることから、慶安2(1649)年以前の創立であると考えられます。明治維新の神仏分離の動きの中で、明治元年9月、大潟宮(大潟神社)と改称されました。

7月14日は、大潟神社に合祀されている祗園社の祭りで、その前夜、名喜里橋から神社までの家々で軒下や玄関先に昔話や伝説に因んだものや縁起のよいものを野菜、花、木の葉などで工夫して作った出し物を飾りつけます。これは新庄町名喜里の民俗行事になっていて、「ぎおんさんの夜見世」といいます。その昔、大潟神社のぎおんさんに夏場の流行り病をお払いしてもらうために始まったと伝えられています。

そして、大潟神社の鳥居を出てすぐ、神社の石垣に沿った小道を進みますが、下見の時にこの道を通らず旧道を進んでしまい国道42号線と交差するバイパスへ出て上富田町との境にあった田鶴トンネル跡に沿って歩いて上富田町の南紀の台手前にある紀勢自動車道の高架下にある道標の所まで来てしまいました。

それで本番の定例会では、田辺市在住の会員藤川ご夫妻に道案内をしていただきました。大潟神社の脇の小道を登り陸橋を渡ると平地へ出ました。

そこから新庄峠を登るルートですが、藤川会員が下見をしていただいた時に「ハチの巣がある」と地元の方に教えてもらっておられたので峠を行かずボタン工場の前を通って42号線へ向かいました。下る途中で雨が急に降ってきましたが、峠から移されていた「峠の高地蔵」に立ち寄りました。

42号線に合流し暫く進むと「太子堂」があり、対面の民家の庭にある「弘法の井戸」を見ながら「糠塚」へ。

ここには「史跡・大沼大橋の板碑」と「峠毘沙門神社」が祀られていました。

その先にある交差点を渡って道なりに行くと線路を通過する陸橋を渡り、降りた所に道標があり朝来駅周辺の住宅街へ進みます。すると会員さんの一人から「この先に美味しいお饅頭屋さんがある」と教えていただきお店へ向かいました。

お土産を購入している間に小雨になってきました。

そして、時計を確認すると後10分足らずでJR朝来駅12:05発の紀伊田辺行の電車に乗れます。これを逃せば14:13まで2時間余り待たなければなりません。それで、櫟原神社には次回立ち寄ることにして駅へ急ぎました。

最後は参加者の皆さんを慌てさせてしまい申し訳ありませんでした。お陰様に無事電車に乗れました。雨の中お疲れさまでした。


第287回から290回は近々アップします。スミマセンm(_ _)m


第286回定例会 令和4年10月16日(日) コース: 滝尻王子跡~高原(昼食)~牛馬童子口 約12km 数日前まで週末は雨天で降水確率も高く、困っていましたが、定例会当日は晴れて日差しが差し込む時もありました

JR紀伊田辺駅から路線バスに乗り込むと外国人の方が数名おられて、出発してから田辺市内のバス停でも外国人の方が3名乗車されてきました。

滝尻王子跡前に到着すると久しぶりに参加された方など13名がおられました。そして、大きなリュックサックを背負った外国人3名とガイドさんの4人組の方が先に歩き始めました。

さて、滝尻王子跡=滝尻王子宮十郷神社前で合流する2つの川は、明治22年の大水害の前は、岩田川の川幅はもっと狭く、石船川は鳥居の前を流れていたそうです。また、鎌倉時代の幾つかの書物では「観音菩薩の補陀落浄土から流れてくる岩田川の水と薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる石船川の水で沐浴することで罪が滅される」と滝尻王子での水垢離の意義が説かれていました。ここからが聖域、ここからが世界遺産登録エリアです。

そして、今回歩くルートは近年新たに設定されたルートで、上部にある聖域(乳岩と胎内くぐり)に直接向かう道になっていますが、鎌倉時代までは、境内地から尾根筋上の鞍部までが一体となった磐座祭祀の聖域(南斜面)に拝礼しつつ進むものであったと考えられています。承久の乱(承久3年1221年 大河ドラマでももうすぐ登場)以降、皇族貴族による熊野詣の衰退で九十九王子社の衰退・退転がすすみ、さらに岩田川を何度も渡渉しなければならない難路であることから滝尻王子を経由していた参詣道が潮見峠越えの道に転じて行き、室町時代頃までには滝尻王子は近隣の住人のための叢社の地位に戻ったと考えられています。

今回は集合時間を1時間早い8時50分にして、高原の在所までの前半4kmを約2時間半で歩き、昼休憩後の後半、高原から牛馬童子口バス停まで4時間で歩くように変更しましたが、滝尻王子の裏山は急な坂が続き、まだ筋肉が温まっていないので、苦しい思いをしながら胎内くぐりまで上がりました。

そこから不寝王子、剣ノ山経塚跡までも急な上り坂が続きます。剣ノ山経塚跡からはフラットな道で、25分ほどで高原への車道と交差します。

そのあと針地蔵尊を過ぎてから階段状の登り坂道が続き、登り切ると高原の里に出ます。前は登りきった所に電波塔が建っていました。その電波塔が建つ前は急な階段状の道はなく、今の車道の一部が熊野古道だったそうです。

そして、高原熊野神社まで続く道の両側には、洒落た旅籠やゲストハウス等宿泊施設が数件建っていました。

どの看板にも英語が書かれ、これから観光政策が緩和されたら、また多くの外国人観光客の方々に歩きに来てもらいたいですね。

高原霧の里休憩所で昼食の休憩。

朝、先に出発されていた外国人4人組もお昼休憩をしていました。お話を伺うと日本全国を歩いておられて、最後に熊野古道に来られたそうです。

昼食後、3名の方が栗栖川へ向かわれ、後半は11名で牛馬童子口を目指しました。高原の在所から旧旅籠通りを通って「庚申さんと大日如来」までは滑りやすい石畳の細い登り坂が続きます。「庚申さんと大日如来」からは山道に変わりますが、登り坂は続き、疲れは増してきました。

それでも参加者の皆さんの協力のお蔭で、和歌山県街道マップの推奨標準歩行時間と同じ時間で大門王子から十丈王子まで進んできました。

小判地蔵の手前にあった登り坂もしんどかったですが、悪四郎屋敷跡を過ぎ一里塚の後、道標17番から18番までのつづら折れの急な上り坂は本当にキツかったです。やっとのことで上多和茶屋跡の看板が見えた時は、「やれやれ、やっと着いた」と、安堵しました。 そこからは、ずっと下り坂になり林道との交差点にやってきました。

「後15分で大坂本王子、王子跡から15分で牛馬童子口ですよ」と声かけながら「板尻の谷」と呼ばれる幅の狭い下り坂を歩き進みました。

だいぶ疲れてきたようで何度も木の根に足を引っ掛けながら小川沿いの坂道をどんどん下っていきます。車道を行き交う車のエンジン音が近くなってきました。もうすぐゴールです。

牛馬童子口のバス停に15:40に到着。皆さんの協力のお蔭で予定より早く到着出来ました。外国人4人組も到着されておられました。路線バス発車時刻まで、お土産を買ったり、座って休みながら過ごしました。皆さん、本当にお疲れ様でした。

第286回定例会 令和4年9月18日(日) コース: 稲葉根王子跡~清姫の里 台風のため中止

第285回定例会 令和4年8月21日(日) コース: 高野参詣道:京大阪道不動坂~奥の院 約6km

 今回の定例会では、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」が平成28年(2016)に追加登録された『高野参詣道;京・大阪道(きょうおおさかみち)』の最後の難所「いろは坂」を歩いてきました。

朝6時前後にスゴイ雨が降り、電車で移動中も止まず、諦めて電車内で雨具に身を包み、極楽橋駅まで来ました。

「熊出没中」の看板がある極楽橋駅の改札口を出ると、雨が止んでいます。

けれども空には暗雲が垂れ込めていて雨具を纏ったまま赤い極楽橋へ向かいました。

橋のたもとのお地蔵様がおられ左側には南海線の線路があります。

その線路の先に「だいしあしあとすぐ」と刻まれた石標が立っています。

「だいしあと」とは、弘法大師の足跡と伝承される窪みが二つ残る岩のことで、窪みの幅が四寸あることから「四寸岩」と呼ばれています。南海線が開通されるまで、石標の間は道が続いていました。

橋を渡ったところに「不動坂 女人堂迄二十四丁」と刻まれた道標が立ってあります。

その傍にスタンプ台があり、スタンプを押したり、雨具をリュックに仕舞ったりして山道に向かう準備をしました。

高野参詣道・京大坂道の極楽橋から不動坂女人堂口に至る区間は「不動坂」と呼ばれます。

この道の途中に「不動堂」が建っていたことに由来します。ここから不動坂女人堂までは約 2.7km と比較的短い距離ですが、高低差 310mある急坂で京大坂道最後の難所であったといわれています。

京大坂道不動坂は、1915年(大正4年)の高野山開創1100年を期に大改修が行われ、旧来の不動坂の急峻な坂道「いろは坂」を迂回する新道が作られました。

新不動坂は、幅員、ルート共に大幅に変更され歩きやすくなりましたが、旧来から使用されてきた旧不動坂は使用されなくなり、現在では不動坂といえば新道の不動坂を意味するようになっています。

新不動坂が主要参詣道となって以来、旧不動坂は使用されず、また開発されることも無く放置されたために江戸時代に描かれた「紀伊国名所図会」とほぼそのままの状態で保存される事となりました。

平成23年(2011)から、永らく使用されず山に埋もれていた旧不動坂が古道整備事業により調査が行われ、朽ち果てた桟橋の掛け替や「いろは坂」や、罪人を突き落としたと伝わる「万丈転かし」などが約100年ぶりに復元整備されて平成28年(2016)世界遺産に追加登録されました。

新不動坂は石畳が敷かれています。

暫く急な坂道を歩いて行くと、右手の山道へ上る道が現れます。そこが旧不動坂「いろは坂」への入口です。

ここからの登り坂はつづら折れの形式をそなえ、全ての曲がりをとって「四十八曲がり」と呼ばれていて、弘法大師が作ったという「いろはにほへと・・・」の「いろはうた」の字数につなげて、「いろは坂」とよばれるようになったと説明板に書かれていました。

 30分近くつづら折れの山坂道をのぼると木の柵が現れます。「万丈転かし」に到着です。

この場所は断崖絶壁で、足を踏み落とすと命にかかわる場所。その昔、罪人の手足を縛り付け、簀巻きにして落として、命が助かればそのまま放免という刑罰が行われていたそうです。

次に現れたのは「外不動」の説明板です。大正9年(1920)までこの場所に不動堂が建っていました。この不動堂は不動坂口女人堂の傍に立っていた不動堂(錐揉不動)の内不動に対して、外不動と呼ばれていたそうです。江戸時代にはすでに建立されていましたが、明治16年(1883)に焼失、明治20年(1887)に再建された後、大正9年(1920)に「清不動キヨメノフドウ」として新不動坂に修復移転されました。 

 途中、雨が降ったりして、汗か雨のどちらに濡れたのか解らない状態でしたが、涼しい山道を歩き「清不動」に到着しました。

「清不動」のお堂の右奥の旧道は短い距離ですが、急な坂道になっています。坂道を登り進んで「花折坂」へ。

高野山を目前にした参拝者たちはこの場所で花を摘んで当時2基あったという華瓶に供えたことからこの名前が付いたといわれています

 新不動坂と合流した左手には明和3年(1766)の宝篋印塔と石仏あり、道は舗装道路に変わります。舗装道路は坂道になり、南海のバス専用道路と合流、不動坂が終了しました。

 不動坂口女人堂で早めのお昼休憩をした後、壇上伽藍へ向かいました。

その途中で精進料理の「生麩まんじゅう笹巻きあんぷ」をお土産に買いました。

 平成27年(2015)に高野山開創1200年記念大法会の特別事業として172年ぶりに再建された中門により壇上伽藍は、弘法大師が高野山を開山した際、真っ先に造営に取り組んだ場所で密教思想に基づく曼荼羅の世界観を具現化した形になりました。

 現在、インドや中国、またそこから伝播した東南アジアなどでは密教の伝統は途絶え、信仰や研究が続いている密教は、日本とチベットだけとなっていますから、世界文化遺産登録基準「3」の「現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠」となっています。

 今回、壇上伽藍の基本的な回り方(時計回り)で中門から、金堂、六角経蔵、御社、山王院、西塔、孔雀堂、准胝堂、御影堂、大塔、大塔の鐘、愛染堂、不動堂、勧学院、大会堂、三昧堂、東塔、智泉廟、蛇腹路、六時の鐘の順で回りました。それから高野山のメインストリート、金剛峯寺前を東西に走る県道53号線(道の下が暗渠となっていて地面の下を流れている)を歩いて一ノ橋まで向かいました。

 一ノ橋では神戸から来た中学生の団体と一緒になり、抜きつ抜かれつしながら墓石群の中を歩きました。

 コロナ禍で残念ながら地下御法場は閉まっていました。参拝者や21日は、お大師様の月命日。観光客もそこそこ居られました。

 でも高野山なのに暑かったです。みな様お疲れさまでした。


第284回定例会 令和4年7月17日(日) コース: 岩代駅~みなべ駅 約6km

今回の定例会は、今年の猛暑から午前中だけ歩くコースに変更しました。

そして、みなべ観光ガイドの方々に新たに史跡登録された「千里王子跡北東参詣道(みなべ町山内、約180メートル)」を含め案内していただきました。

 JR岩代駅に到着すると、既にみなべ観光ガイドの石大和子(こくおおかずこ)様が出迎えて下さいました。石大様は地元岩代の方で、岩代駅から千里までを案内していただきました。

 集合が8:35にも関わらず、歩きはじめると日差しが強くなってきたので、手持ちの傘をさして歩くことにしました。

日差しの強い暑い時期に傘をさせば肩や腰まで日陰になり、ソーシャルディスタンスも確保できます。

 梅畑の木陰で休みながら世界農業遺産「みなべ・田辺の梅システム」についてお話を伺いました。世界農業遺産は令和4年7月現在、世界で22ヶ国67地域、日本では13地域が認定されています。

登録されたエリアでは、養分に乏しい斜面の梅林周辺に薪炭林を残すことで、水源涵養や崩落を防ぎ、薪炭林を活用した紀州備長炭の生産と、ミツバチを受粉に利用した梅栽培を行っています。

梅畑の合間を暫く進んでいくと、みなべ観光ガイドの会会長の坂本恭子様から電話が入り、昨日までの雨で道が崩れていることが解かり、迂回路を行くことになりました。古道に戻り、ガードをくぐると千里の浜に出ました。

すると、千里王子跡との間の浜に幅広い川が流れていて、王子側の対岸に坂本会長が手を振っておられました。

なんと昨日の雨による増水で、いつもは幅の狭い川が1メートルになっていたのです。水はどんどん増え、そのうえに潮が満ちてきて川幅は広がっていきます。また来た道を戻れば迂回路があるそうですが、王子社は直ぐそこにあります。

ここまで来たら、飛び越えるしかありません。助走をつけ、一人一人と川を飛び越えました。けれども、みんな足首まで水に浸かってしまいました。

千里王子から南部駅までは、坂本会長が案内してくださることになりましたが、石大様も引き続き一緒に歩いてくださいました。

 千里王子跡でトイレ休憩をして、「千里王子跡北東参詣道」へ向かいました。

線路の手前にある道標を右に曲がった所にある小川沿いの道は、柔らかい土の道です。その道を木々が覆い、日差しを遮ってくれていました。下草・雑草も刈り取られてあり、大変歩きやすい道になっていました。

それから道は梅畑の中を登り、一般道と合流します。朝からアスファルトに降り注がれた日差しで坂道は熱くなっていて、疲れが出始めた身体にはきつくなってきました。それで南部峠(地蔵峠)の石造り地蔵菩薩像の前で休憩することになりました。

この峠は、古代から明治初期に至るまで約千年にわたって人々が往来した峠で交通の要所でもありました。「中右記(1109年)にも「南陪山(みなべやま)を越え」と登場します。また、古い時代から地蔵堂や茶屋が建てられたと推定されています。こちらの地蔵菩薩像は、高さ31センチメートルの台座の上に像高50センチメートルの石造座像が安置されています。造像年代は室町時代と推定され、骨折に霊験顕かであるといわれ「骨つぎ地蔵」と称されているそうです。

坂本会長から地元に伝わる民話を伺い

ながら、ゆっくりと休むことが出来ました。峠を下って橋を渡ってみなべの街中に入っていきました。

和歌山県指定文化財の樹齢約300年の大イチョウ(雌株)のある丹河地蔵堂まで来ると三鍋王子跡まではもう少しです。 

王子跡は木々で覆われ木陰になっていました。ベンチもあり、ゆっくり座ってお話を伺いました。

お二人のガイドの方に案内いただき、贅沢な定例会になりました。

暑い中、みな様お疲れさまでした。


第283回定例会 令和4年6月1日(日) コース: 印南駅~切目王子~岩代駅 約10km


 定例会の数日前までは降水確率70%や午後から雨など様々な雨天の予報がでていましたが、当日は曇り空の下、開催できることになりました。

けれども最高気温が11時頃には29℃となる予報は変わりませんでした。夏のウォーキングは熱中症対策のため水分補給の水を大量に持って歩くために背負う荷物が重くなります。そして、未だ暑さに慣れていない心身で長距離を歩くにはリスクがあります。それで参加者の皆さんに説明した所ご理解いただき、予定コース14kmを10kmに短縮することにしました。

 前回(令和4年2月20日第278回定例会)は、西御坊駅から切目駅まで歩く予定が、急に雨が降ってきたため印南駅で終了しました。今回はその続きで印南駅から出発しましたので先ず「東光寺」へ向かいました。西御坊駅から切目駅のコースでは、東光寺に立ち寄ると17km近くになってしまうので滅多に行くことはありませんでした。

この寺には、 県指定の文化財1つと町指定の文化財が2つあります。

県指定文化財は、寺の入口の右側にある「ナギノキ」です。推定樹齢約700年余といわれ熊野速玉神社のナギに次いで県下2番目の大きさです。

町指定の文化財の一つ目は、観音堂の小さな木箱の中に安置されている帆船に乗る三十三菩薩像です。

現在は秘仏で残念ながら拝観することはできませんでした。二つ目の町指定文化財は観音堂の左奥にある宝篋印塔です。

この塔は町最古のもので紀年銘はありませんが鎌倉時代の様式を色濃く残しています。その昔に熊野古道沿い建立された物が東光寺に移されたと思われています。また県内には鎌倉時代の石造遺物は数えるほどしかなく、貴重な一基であります。

そこから、町内の路地を歩き、お地蔵様が並ぶ道を登って進み、光川橋を渡って細い道を進みます。途中で道に迷いましたが、路地に戻り、国道42号線の左側の道を登って斑鳩王子へ到着しました。東光寺からこの当たりの熊野古道は小栗判官が照手姫に曳かれて行ったので「小栗街道」と呼ばれています。いつもは国道を歩くので「何処へ連れて行かれるのだろう?」と思われた参加者の方もおられました。そして国道へ戻り、切目王子へ向かいました。

切目王子は五体王子の一つ。県指定天然記念物のホルトノキは推定樹齢約300年余といわれています。

そこから町内を歩いて進み、切目川に架かる切目橋を渡ろうとしたら橋がありません。新橋建設のため撤去されていていたのです。それで、一番近い橋が国道に架かる橋と解かり、少し迂回して橋を渡り、古道に戻ると直ぐに線路が現れました。

ガード下をくぐり、右手の線路沿いにあるのが光明寺です。町指定の文化財「蘇鉄」は町内の数ある蘇鉄の中では最大です。そして、古道に戻り坂道を登って切目中山王子跡に到着しました。中山王子社前には、榎木城主の墓と伝えられる宝篋印塔があります。紀年銘はありませんが室町初期の造立と考えられます。

そこから榎木峠をこえて海へ向かいます。山道の途中で梅農家の軽トラック数台とすれ違いました。その荷台に積み込んである大量のコン

テナの中には大粒の梅がどっさり入ってありました。その粒は鮮やかに赤く染まり、爽やかな香りが立ち込め一時、暑さを忘れさせてくれ

ました。

梅畑の間の山道をしばらく進んでいくと前方から心地よい風が吹いてきました。視界が開け、目の前に海が現れました。

山道は終わり徳本上人名号を左に曲がると国道と平行した農道を進んで国道へ出ます。

しばらく歩いて、国道から左へ曲がる前に「岩代の結松」の碑を道越しに眺めて、緩やかな坂道を登ります。

道の突き当りに光照寺があり、その左側に移設された犬養孝先生(1907年‐1998年)揮毫の「万葉歌碑」があります。

この碑には、有馬皇子が詠んだ歌「岩代の浜松が枝を 引き結び ま幸く(まさきく)あらば また帰り見む

《岩代の浜松の枝を結んでゆこう。もし願いかなえば無事に還って再び見ることができるだろう》」と

中皇女(斉明天皇説)が詠んだ「君が代もわが代も知るや 岩代の岡の草根を いざ結びてな 

《あなたの定めもわたしの定めも知っている岩代の岡の草をさあ結びましょう》」の二首が記されています。

その当時、松の枝を結んで幸運を祈るという風習があったそうです。

歌の説明をしている時に町内放送で12時を知りました。到着地の岩代駅まで歩いて30分程ですが、朝が早かったこともあり、お寺のトイレを使わせていただける事もできたので昼休憩にしました。

座って食事している間も気温はどんどん上がっていきました。

休憩後、農道から国道へ戻りしばらく歩くと国道の左側の道を下って国道をくぐる道へ進みます。梅農家のビニールハウスが立ち並び、その中には梅を干すための準備が着々と進んでいました。

梅畑の先にある線路を渡ると浜に出ます。岩代王子跡です。岩代の地名は、岩石信仰から名付けられたともいわれていま

天仁2年(1109年)は藤原宗忠が、建仁元年(1201年)は後鳥羽上皇に随行した藤原定家が参拝したと日記に記されています。

「千里王子3.0km」の道標の前を通って岩代駅へ向かい終了しました。暑い中、本当にお疲れ様でした。



第282回定例会 令和4年5月15日(日) コース: 「和歌祭四百年式年大祭」記念ウォーク 約5km

JR紀三井寺駅~紀州東照宮~和歌浦天満宮~高津子山~玉津島神社~塩釜神社~JR紀三井寺駅

定例会開催日の数日前までは天気予報は雨でしたが、当日は好転し曇り空の下、開催することができました。

「和歌祭四百年式年大祭」の神事を見る為、集合後は挨拶もそこそこに紀州東照宮へ向かいました。  

途中、和歌浦河口に向かう道に出た時、河口に浮かぶ小島の妹背山の中腹にある海禅院多宝塔直接を見ることが出来ました。

今迄は多宝塔の前にあった観海閣があり見えなかったのですが観海閣は撤去されていました。

この観海閣は、頼宣が慶安年間(1648~1652)に木造の水上楼閣として建立したもので対岸の紀三井寺と対面しています。

当時の建造物は昭和36年に第二室戸台風で流出後コンクリートで再建されたものでした。

定例会終了後に確認してみると建て替えのため撤去されたそうです。

市町川に沿ってあしべ通りを足早に急ぎましたが殆ど通行人がなく静かな佇まいです。

海岸通りとの交差点を渡って二の鳥居をくぐるとやっと祭の法被を着た人達が集まっていました。

三の鳥居迄の参道は何時もは駐車場になっていますが、今朝は祭の関係者や観光客、カメラマンが沢山集まっていていました。

三の鳥居の中は鬱蒼とした木々に囲まれ、参道は青石が敷き詰められ家臣たちが寄進した石灯籠が等間隔に並べられています。

鍵の手で折れ曲がった所まで行くと侍坂が見えますので進もうとした所、「神輿が通りますので石垣の上の赤い柵の中へ入ってください」と消防署員の方が大きな声で何度もアナウンスしていました。

けれども観光客やカメラマンの方は少なく、和歌祭り初体験の私たちは「どういうこと?」と訳も解らず登って赤い柵の中へ入りました。

すると爆竹のような花火を打ち上げるような音が突然聞こえてきました。8時です。「神輿おろし」の神事の始まりを告げているようでした。

暫くすると木立の隙間から神輿が見えました。神輿は、急勾配の108段の石段を右へ左へ移動しながらゆっくりと降りていきます。

そして神輿が坂を降りてしまったのか見えなくなると、大勢の人が侍坂の方向から三の鳥居へ向かって移動してきて私たちの前の参道を埋め尽くしました。それと同時に消防署員の方の「神輿が来ます。上に登ってください」という注意アナウンスが響きわたってきました。

大勢の人達の中に会員さんや知り合いを見つけては次々と赤い柵の中へ引き上げました。

「一体何が始まるんだろう?」とドキドキわくわくしながら待っていると参道の奥から低いうなり声のような音が響いてきます。

気づくと白や黄色の装束を纏った人たちが担いだ黄金の神輿が目の前に迫ってきました。

「あぁ!」と思わず声がでてのけ反りました。神輿は近くにあった石灯籠にぶつかると対面の石垣に向かっていきます。

すると白装束の一人が石灯籠と担ぎ手の間に入って神輿が石灯籠にぶつかるのを防いでいます。

神輿は参道を右へ左へ動きながら、あっという間に鳥居をくぐっていきました。

すると参道の奥から次から次へと人がやってきて暫く柵の中から降りることが出来ません。

 やっとのことで参道へ降りて三の鳥居まで行くと、今度は駐車場内で「神輿出立式」が始まっていました。

その間、救急車が一台やってきました。

そして、神輿は和歌山城へ向かいました。

すると潮が引いていくように、歩道橋の上まで溢れていた多くの人が居なくなっていきました。

私たちは静けさを取り戻した参道を侍坂へ向かいました。石橋の前の石灯籠が倒れて砕けていました。

夕方のニュースで石灯籠倒れ見物客が頭に軽傷されたことを知りました。

それから侍坂を登りましたが、この急で幅の狭い石段をあの大人数の担ぎ手が神輿をおろして言ったかと思うと足が震えてきました。

東照宮を参拝し、今度は「ゆるやかな階段」を降りました。

次に和歌浦天満宮への石段を上がって参拝した後、拝殿の左奥にある章魚頭姿山(高津子山)方面への潮騒の小径へ向かいました。

山道は疲れた足に優しかったです。

高津子山の展望台へ上がると晴れてきて360度み渡すことが出来ました。心地良い風が吹いていました。

 あしべ通りを戻り、玉津島神社へ到着しました。塩釜神社へ参拝した後、不老橋へ向かいました。

    湯浅町から参加した方から「不老橋を作った方は、湯浅の深専寺にある「大地震津なみ心え之記(大地震津波心得の記)」の石碑を作った方と同じ人」とおしえてもらいました。調べてみると橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工で、勾欄部分については湯浅の石屋忠兵衛の施工と推定されているそうです。最後に和医大の前にある「紀州藩塩田跡」に立ち寄りました。みなさま、お疲れ様でした。

第280回定例会 令和4年3月20日(日) コース: 和歌山市内散策 約5km(和歌山駅~和歌山城)

花冷えの朝、10名の方が参加され、約2時間和歌山市内を散策してきました。

まず、JR和歌山駅から西へ「けやき通り」に向かいました。けやき通りをしばらく進み柳通りを南へ入り大立寺へ。

大立寺は、浄土宗で本尊は阿弥陀如来。文禄年間(安土桃山時代)の創建と伝えられています。入口の山門も安土桃山時代のもので薬医門型式、高さは約5.6m。和歌山市指定文化財になっています。そして、この門は戦国時代末期の紀州在地勢力のひとつである太田党の居館であった太田城の大門を移築したものとされています。 また、徳川八代将軍吉宗公の祖母冷香院の墓所があります。そこからの帰り道、寺内で徳本上人の名号碑を見つけました。この寺は私の菩提寺でもあり半世紀以上通っているのに、初めて気が付きました。 

台座には「弘化二巳年十一月五日」とありましたが、徳本上人は文政元年10月6日(1818年11月4日)に亡くなられています。

それで、ご住職にお尋ねしたところ、同じ浄土宗なので墓石にされたとのことでしたが、既に無縁仏になっておられて詳細は解らないとのことでした。「念仏行者徳本上人研究会」がまとめた一覧表によると、全国にある徳本上人の名号塔は1641基(2019年11月26日現在)。都道府県別では長野県内は最多の490基。2位が和歌山県の260基だそうです。この260基の中にこの墓碑が含まれているのか調べてみなければなりません。

そして、三年坂通りを西へ向かってお堀がみえてきた南側に旧大村家住宅長屋門があります。 この長屋門は紀州藩の中級藩士であった大村弥兵衛家のもので、江戸時代末期の建設とみられます。大村家9代高行は10代藩主治宝に重用され元々300石取りの藩士でしたが最終的には800石まで禄高を増やしました。 

長屋門とは、江戸時代の武家等の屋敷にみられる門の形式で、従者や使用人の住まう部屋である長屋と門構えとが一体となって造られたものです。どの家でも造ることができる建物ではなく石高によって制限されていました。 

江戸時代、米1合がだいたい大人の1食分。1年でおよそ1000合、これが1石です。そして1石が10両(今の価値で10~15万円)といわれています。享保7年(1722)の記録では、旗本の平均の石高は507石とありますから大村家は十分門が建てられた家柄だったのでしょう

 その裏側に「陸奥宗光」の像があります。

そこから岡公園の巨大滑り台の前に李梅渓の「父母状」の碑があります。

万治3年(1660)、熊野の山中で親殺しの罪を犯した者がいました。ところが、その者は反省もせずに「私が殺したのは他人ではなく自分の親だ。我が儘ばかり言って家の者も困り果てたので殺した。間違ったことはしていない。」と抗弁するばかり。これを知った頼宣公は、「自らの罪が解らないまま処刑すべきではない」と言い、藩主お抱えの儒学者である李梅渓に命じて、この者を教え諭すように命じました。3年の年月を経て、ようやく自らの罪に気がついたその者は自らの罪を悔い、刑を受けたそうです。その後、頼宜公が再びこのような事件が起こらないようにと藩内に教訓状として広く宣布したのが「父母状」です。「父母に孝行し、法を守り、質素に、家業に勤め、正直に暮らすことは、誰でも知っていることではあるけれども、しっかりと心得るように常々言い聞かせなければならない」との趣旨です。 そこから和歌山城のお岡口門から和歌山城動物園の中を通って不明門跡へ。そして三年坂をわたり岡山の時鐘堂へ登りました。身代わり地蔵の脇のフェンスを通って芝生が張られた広場に出ます。

そこは和歌山県立近代美術館と博物館が見下ろせる場所ですが、ここには黒川紀章さんが作った「熊野古道」があるのです。この道を歩いていただきたくてこのコースを企画しました。和歌山県立近代美術館は1994(平成6)年7月新築移転しました。

建物の正面には巨大な灯籠が建ち並び、特徴的な庇(ひさし)を数多く設けるなど、近代的な中にも日本の伝統を感じさせます。池の中には、天然記念物である根上がり松を背景にした野外ステージを設けて、三年坂をへだてた和歌山城との歴史のつながり、熊野古道をイメージした自然とのつながりを念頭に置いた「黒川紀章の共生の思想」が反映された施設となっていて、黒川紀章のポストモダニズム的意匠が非常に印象的な建築物です。和歌山の建築物で唯一「公共建築百選(建設省:現国土交通省が設立50周年を記念して、1998年(平成10年)9月25日に選定委員会において決定し同年10月14日発表された100件の優れた公共建築物)」に選ばれています。

近代美術館の瀧に沿った階段道を降りて和歌山城へ向かいました。「ブラタモリ」で放送された「鶴の渓の石垣」に立ち寄り、一中門跡の石垣を見て、大手門へ向かいました。まだソメイヨシノは咲いていませんでしたが、5分咲きの枝垂桜の前で写真を撮り解散しました。

皆様お疲れ様でした。


第279回定例会 令和4年2月20日(日) コース: 西御坊駅~塩屋王子跡~津井王子跡~印南駅 約12km 

定例会前の数日間の天気予報は70%の降水確率。心配しながら迎えた当日は雨雲もなく穏やかな天気になりましたが、午後からは雨の天気予報もあり、何処まで歩こうかを考えながら和歌山駅から電車に乗り込みました。

JR御坊駅の一番端の0番ホームにある紀州鉄道は、終着駅までの距離がわずか2.7kmしかない日本一短いローカル線として有名です。

「乗って残そうローカル線!」できるだけローカル線に乗る機会を増やし、地元の足を残していきたいですね。

発車したかと思うと西御坊駅まではあっという間。そこから小竹八幡宮旧跡へ立ち寄り、神社前にあるトイレで休憩をして日高川へ向かいました。

橋を渡り堤防を歩いて国道42号線を渡ると熊野古道に合流します。暫く歩いて塩屋王子跡へ到着しました。

塩屋の歴史は古く、天田古墳群、中村遺跡、東大人遺跡、尾ノ崎遺跡など旧石器時代から中世にかけての遺跡が有り、古くから製塩が行われていたようで多くの製塩土器が出土しています。また、平城京跡から出土した木簡には、日高地方から潮を送ったという記録も発見されています。

そして、平成30年2月13日「熊野参詣道紀伊路(くまのさんけいみちきいじ)塩屋王子跡(しおやおうじあと) 」として国指定の史跡に登録されています。

続いて、県下でも最大級のもので幹周り約7m、樹高約15mにおよび樹齢は600年以上と推定されるビャクシンを見に光専寺へ向かいました。

そこから暫く歩き祓井戸観音へ行く道に進みましたが、どんどん山へ向かって坂道を登っていきます。このまま行くと国道から離れ「八十八体の石仏」が有る山中へ向かってしまいます。

前回平成29年7月に歩いた時は国道をひたすら歩いて「暑かった」という苦しい思い出しか残っておらず、「道に迷ったか?」と不安がっていると参加者の方が道を見つけていただき、何とか熊野古道へ戻ることが出来ました。

そこから、清姫の草履塚、十三塚へ立ち寄りアスファルトの熊野古道を歩き進みました。また国道に戻って魚を販売する店の片隅にある万葉歌碑(『吾が欲りし 野島は見せつ 底深き阿古根の浦の 玉ぞひろはぬ』=わたしが見たいと思っていた野島は見せてくれましたが、底の深いアゴネの浦の珠はまだ拾っていません)に来た時は、流石に海の近くで風が吹きすさんでいました。作者は中皇命(ナカツスメラギノミコト)で斉明天皇であるといわれています。このたび斉明天皇(594~661年)の墓とされる牽牛子塚(けんごしづか)古墳(奈良県明日香村)の4年かけた整備工事が終わり、3月6日から一般公開されています。 

そして、仏井戸(上野王子旧社地)へ到着しました。ここまで約6km、これから切目駅までは残り約8kmとなります。それで皆さんと相談して後半5km歩き、本日は印南駅で終了することにしました。トイレ休憩をしてから熊野古道へ戻って見落とさずに上野王子跡と清姫の腰掛け石に立ち寄り国道へ出ました。  印南町へ入ると道は登り坂になっていきます。津井王子跡=叶神社へ到着した時には12時半になっていました。

予定では、トイレのある印南駅で昼食をとろうと思っていましたが、朝の集合が早かった為お腹が空いてきました。また、印南港の中にある公園にはトイレが併設してありますが海から風が吹きつけるような場所にあり、未だ15分ほど歩かなければなりません。パワー不足になってはケガや事故を起こしやすいので、トイレはありませんが王子跡で昼休憩をすることにしました。

ところが、お弁当をひろげ、ご飯を食べ始めた時になって雪のような冷たいものが降ってきました。止むを得ず昼休憩を切り上げ、雨具や傘を取り出して印南駅へ向かいました。

印南川に沿って「かえる橋」を目印に駅へ向かいました。かえる橋の名の由来は、『努力、忍耐、飛躍』を象徴する ”柳に跳びつくかえる”(小野道風)をイメージし、「考える」「人をかえる」「町をかえる」「古里へかえる」「栄える」という5つの”かえる”にひっかけ、ネーミングされたそうです。駅前は綺麗に整備されていて、トイレと駐車場が出来ていました。みな様お疲れさまでした。


第278回定例会 令和4年1月16日(日) コース: 紀伊内原駅~道成寺~岩内王子~御坊駅 約12km

令和4年最初の定例会の日は、前夜に起こったトンガでの大爆発の津波の影響で田辺市の会員さんが非難されていると知りました。それで、朝電車に乗る前にJR和歌山駅で津波の影響での運行状況を確認すると「このような事は初めてで、今は津波注意報ですが、警報になると電車は動きません」と言われました。

それで、集合場所のJR紀伊内原駅で集まられた16名の方に電車の運行のことを説明すると「電車が動かなくても、車で来ているので便乗して和歌山へ帰ったらいいよ」と、車で来られた方々が快諾してくださったので開催することが出来ました。

そして、JR紀伊内原駅を出発し旧道を右へ曲がって暫く歩き、また右に曲がり踏切を渡ると道は緩やかな登りの坂道になっていきます。そして、上がった所のT路字で熊野古道と合流します。そこから右方向へ進んで一里塚、弁財天山古墳を見ながら進み、T路地の脇にあるお地蔵さんに到着しました。このお地蔵さんは”道標”の役割も担っているお地蔵さんで「左ハきみい寺道」と記されています。その道標を左(東)へ進んで、「御坊市指定天然記念物・古田春三家の屋敷林(ふるたしゅんぞうけのやしきりん)」を通りすぎた先に地元の人に「あしきりさん」と親しまれている万福寺(足切地蔵院)があります。諸説あるそうですが、弘法大師が讃岐で彫った仏像が大師の熊野参詣を追ってきて、帰れと言

っても聞かないため爪先を切ってこの地に祀ったといわれています。

足の病に霊験あらたかということで全国から足の不自由な人の参拝が絶えないといわれています。

毎年1月の第3日曜日には地蔵尊会式が行われ大草鞋が奉納されると伺ったところ、昨年からコロナ対策で地蔵尊会式は行っていないとのことでした。それで帰ろうとしていたら、住職さんから資料をいただいたうえに秘仏の御本尊を拝観させていただきました。ありがとうございました。

そして、熊野古道へ戻り「善童子王子跡」に到着しました。そこから徳本上人の名号碑に立ち寄り、愛徳山王子跡へむかいました。

車道から王子跡へ入り込む土道の149.6メートルは、平成30年2月13日「愛徳山王子跡北東参詣道」として国指定史跡に登録されています。以前は「愛徳山王子跡」の碑の後ろ側は竹藪に覆われていたのですが、今は綺麗に刈取られ道になっていました。そこから、「北吉田 蓮の郷公園」にも立ち寄り「道成寺」へ。珍しく観光客の姿はなく閑散としていました。そして昼休憩をしました。

また、コロナ禍で参道のお土産屋さんは殆どが閉まっていました。

昼休憩の後は「九海士王子跡」、「湯川神社へ」立ち寄り、日高川を渡って熊野古道から離れ、「熊野(いや)神社」へ向かいました。

ここは、熊野本宮大社から勧進されたのではなく、出雲民族が紀伊に植民する際に祖神の分霊を勧請したといわれています。「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中に当地に熊野神が一時留まりませるということが当神社由緒」になっているそうです。そして、田辺市の芳養にある「牛ノ鼻」までの渡御の出発点であります。熊野王子社の岩内王子を合祀しています。

また江戸時代、吉宗が藩主になって間もない頃、熊野神社の巫女が江戸にいる吉宗が疱瘡(天然痘)にかかるというお告げを出します。慌てて使者を江戸に送ったところ、品川で江戸からの使者に出会います。それは、吉宗が疱瘡にかかったという知らせを和歌山に伝える使者でした。やはり巫女の予言は当たっていたのです。そこで熊野神社では平癒祈願を行い、そのためか吉宗は健康を取り戻します。以後、和歌山藩主はこのお社の氏子として、明治の廃藩まで供物料の寄進を続けたそうです。

そこから、「岩内古墳群1号墳」、「岩内王子跡」と巡りました。

そして、定例会終盤、終着地点の御坊駅へ向かっている時、市内の放送で津波注意報が解除になったと判り、電車で帰ることが出来ました。 

今回は、天候にも恵まれ、寄り道する所が多すぎて予定より大幅に距離と時間を過ごしてしまいました。皆さま大変お疲れ様でした。



第277回定例会 令和3年12月19日(日)コース:紀伊内原駅~湯浅駅 約7km

 師走になり何かと慌ただしい中、前日は雨や霙が降ったり急激に寒くなったりと悪天候で19日の天気予報は「晴れのち雨」でしたので、コロナのオミクロン株の登場もあり、雨のなか寒い天候で開催するのは心配でした。ところが、当日朝は快晴に向かい、日差しさす暖かい天候の下、初めて参加される4名の方を含め20名で歩いてきました。

駅から歩き始めて川の堤防へ上がると、道に迷っていたことに気づきました。すみませんでした。本来、拝の峠ら降りてくると線路をこえて進み「札付地蔵」へ辿り着き、そこから堤防へ上がって有田川へかかる宮原橋を渡るのですが、川の下流・反対側から橋へ到着してしまいました。 

そこから橋を渡り堤防を歩いて国道42号線を渡ると得生寺へ到着します。ここ得生寺は、中将姫(藤原鎌足の曾孫)に縁のあるところです。 

姫が意地悪な継母に殺されそうになるも家来が哀れに思い「ヒバリサン」に匿います。そして3年後(所説あり)父と再会し都に戻りますが、出家し、一夜で蓮糸で『当麻曼荼羅』を織りました。そして、29歳の時に阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったという実在の人間ながら伝説に満ちた女性なのです。また「ヒバリサン」は、奈良県宇陀市、和歌山県橋本市と糸我の「得生寺」の3か所にそれぞれ伝承があります。

続いて、一里塚に立ち寄った後、日本最古の糸我稲荷神社で参拝しました。それから隣接する「くまの古道 歴史民俗資料館」を見学の後、糸我王子跡へ(ここも諸説あります)。美味しそうに色付いたミカン畑の中の道を進みながら糸我峠に向かいました。標高差150mですが、急な坂で疲れました。そこから坂道を下ってくだったところに逆川王子・逆川神社があります。そして、方津戸峠を越えて湯浅の町へ入りました。

初めて参加された方の中に湯浅町出身の方がおいでになられたので、税務署の庭に移動されていた一里塚と何度来ても辿り着けない北英橋から「湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区(通称:伝建築)」を案内していただきました。

伝建築の沢山ある見所から醬油資料館と懐かしい風情を残す甚風呂を紹介していただき、途中、駄菓子屋さんのお菓子やミカンの無人販売に後ろ髪を引かれながら深専寺へ向かい、記念写真を撮って解散しました。

新しいJR湯浅駅舎は、観光案内所と図書館が併設されていました。ホームで待っている時は強風と寒さに驚きました。

そして電車に乗って和歌山駅へ着く頃には、午前中の快晴が嘘のように霙が降ってきました。

令和3年もコロナ禍の中で開催しましたが、多くの方にご参加いただきありがとうございました。

 令和4年もコロナ感染対策をし、状況をみながら開催していきます。


第276回定例会 令和3年11月21日(日) 第36回国民文化祭・わかやま2021 ウォーキングin三谷坂

泉南市、和歌山県内からお集まりいただいた12歳~77歳の44名の方に参加いただきました。

また、参加した参加した6名の高校生達が、披露困憊でリタイヤしようとした他府県から参加した年配の参加者の荷物を持ち、手を繋いで一緒に歩き、励まし続けたことにより完歩することが出来たことは、世代や地域を超え参加者が一帯となった活動となりました。

到着点の丹生都比売神社では宮司の丹生様にお話を伺いました。

第275回定例会 令和3年10月17日(日)コース:海南駅・藤白坂~拝の峠・紀伊宮原駅 約15km  

今回の定例会は、2つ峠をこえるので集合時間を早くしましたが、17名の方に参加いただきました。

けれども、天気予報は雨。駅で雨河童を着たり、リュックサックに雨除けカバーを掛けたりと雨対策万全で歩き始めました。

春日神社から菩提房王子跡を通って鳥居跡まで進む道は割愛し、JR海南駅から真っ直ぐ鳥居跡へ向かいました。

駅周辺には万葉歌碑が多くありますが、説明もそこそこに藤白神社へ急ぎました。

神社手前にある「鈴木屋敷」の再建が始まりました。完成が楽しみです。神社に到着したころには少し空は明るくなってきたので雨具を片付け藤白坂へ向かいました

すると、道普請なのか丸太棒が道端に積み上げられていて、暫く歩くと木で道を補強していました。雨が降った時の土砂の流出防止のためか所々石を積み上げて側溝も作ってありました。

峠を登り切った所にある藤白搭下王子跡からはミカン畑の中の坂道を下っていきます。

そして、12時には早かったですが橘本神社で昼食の休憩をしました。

昼食後、「泣き相撲」で有名な一壺王子跡のある市坪の在所から沓掛の集落までは車道を歩きますが、どんどん坂道が急になっていきます。中腹の地蔵堂で休憩。横に「沓掛松」があります。紀伊続風土記の記載によると、この地蔵堂から峠の頂上までの険しい坂道を登るため、ここで沓を脱いでわらじに履き替えて、脱いだ沓をこの松に掛けたといわれています。また、弘法大師縁の井戸の伝説があります。

暫く休んで拝の峠の入口へ向かいました。

10数年前にこの道は緑のペンキが塗られ歩き辛かったです。今はそのペンキはとられていますが道の表面がぬるぬるして滑りやすくなって変わらず歩き辛く、なかなか進めません。やっとのことで頂上に到着しますと心地よい風が吹いいました。

 爪書地蔵の所まで坂道が続き、滑らないよう気を付けながら歩き進みました。

有田川が見えてきました。駅はその手前にあります。予定では無人販売があちこちにありミカンを買って帰るつもりでしたが、一か所もなく、JR紀伊内原駅前の無人販売には売り切れたのか売ってないのか何もありませんでした。

時刻表を見違えて、後5分で和歌山駅行の電車がきてしまい最後は走ってホームへ辿り着きました。雨に遭わず助かりましたが、みな様お疲れさまでした。


第274回定例会 令和3年9月19日(日)コース:日本遺産#99「葛城修験」の町「加太」散策

令和3年9月19日(日) 開催した第274回定例会は、2020年6月に99番目に日本遺産に登録された「「葛城修験-里人とともに守り伝える修験道はじまりの地」である「加太」を15名で歩いてきました。

最初に訪れたのは、明治の終わり頃に建てられた旧加太警察署は古い木造の洋館。昭和39年以降は民宿として使用されていたようですが、現在は看板もありません。平成17年に国の登録有形文化財に登録されています。

大川峠へ向かう道と加太の街中の分かれ道にある道標に立ち寄り、続いて現在も本山修験宗聖護院のほか葛城入峯修験者の接待もされている「迎之坊(向井家)」に。

 揚げパンを買ってから加太春日神社へ向かいました。

そして隣の称念寺へ入ると、ご住職が1795(寛政)年の建築と伝わる本堂に案内していただき、平成28年代修復されるまでの歴史をお話していただきました。堂内の天井画の彩色も美しく修復されていました。

帰って調べてみると、なんと本堂と山門は平成29年に国の登録有形文化財に登録されていたのでした。

それから阿弥陀寺へ。堤川に沿って歩き進み、よもぎモチを買って少し進むと大きな石碑が現れます。

その脇の階段を117段上って役行者堂へ到着。見晴らしが素晴らしく良かったです。

階段を降り、少し歩いて道を左へ曲がり細い道を進むと太子堂がありました。

そして、淡島神社へ。

お天気も良く連休中もあって思った以上に参拝客が多かったです。

お昼休憩の後、海岸沿いの車道をひたすら歩いて「徳本上人の石碑」に到着しました。それから加太の街中に戻り常行寺へ。 

和歌山県指定の天然記念物ビャクシンの幹のねじり方に驚きました。

約3時間かけて加太の街中を散策しました。お疲れさまでした。

加太駅について電車を待っていると、どんどん人が増えていきます。

不思議に思って待っているとやって来た電車は黒いボディの“めでたいでんしゃ”でした。

なんと前日の9月18日から走り始めた和歌山市出身のアーティストHIDEとコラボレーションした新車でした。

車内はみるみる観光客でいっぱいに。車内は大撮影大会になっていました。乗って残そうローカル線!ですね(^^)

第273回定例会 令和3年8月22日(日)コース:高野参詣道 町石道 約20km

町石道を歩いたのは第78回の2004年11月21日。なんと17年近く町石道を歩いていなかったのでした。

定例会当日の天気予報は「降水確率60%」。数日前から降水確率の変動はありますが、天気予報の雨には変わりありませんでした。

雨合羽と着替えと大雨で町石道を歩くのを残念した時のための「九度山町内散策マップ」と「トロッコ道ハイキングマップ(九度山駅~上古沢駅約7.6km)を準備して電車に乗り込みました。

九度山駅から慈尊院まで歩き8時前に到着すると既に田辺から車で来られた3名の方が到着していました。まだ雨は降っておらず「雨具を用意した方がいいかな?」と悩んでいると軽装のカップルや杖を突いた山歩きスタイルの人達が丹生官省符神社へ向かう119段の石段を登っていきます。「とりあえず雨具なしで」と私達は8時15分に慈尊院を出発しました。

1か月前の下見の時と違い、雨雲が日差しを遮り、コンクリートの道は照り返しもありません。時折涼しい風も吹いてきていました。

展望台まで時間通りに着きました。この1ケ月で雑草を刈ってくださったようで、柿畑の中に設置されている大門までの標識が見えやすくなっていました。

2時間かかって六本杉へ到着。すると雨粒が落ちてきました。「とうとう降ってきたかぁ」と落胆しながら傘など雨具を用意し歩き始めました。けれども5分も経たない間に雨は止みました。途中、トレイルランニングの方達に追い越されながら昼休憩の応其池の先にある地蔵堂に11時10分に到着しました。予定通り3時間で到着しました。昼休憩中もトレイルランニングの方達が大門に向かって走っていきました。昼食後はハイペースにならないように気を付けて歩き進みました。すると笠木峠を越えて20分程たった所で今にも落ちてきそうな大きな倒木を見つけました。それから、70町石の所にも大きな倒木がありました。通れるのですが、いつ道に落ちてきてもおかしくないと言う不安定な状態なのです。予定通りに矢立に到着。30分程休憩をして記念写真も撮り、午後2時に出発しました。矢立からは急な登り道が続きます。13町石を過ぎた頃から急な登り坂の道になり道幅も狭くなっていきました。そして最後、急な階段を上って国道に出て、午後4時10分に大門に到着ました。前半3時間、後半4時間、昼休憩や小さい休憩あわせて1時間、トータル8時間で歩きました。何とか雨も降らず助かりました。ありがとうございました。お疲れさまでした。後日、和歌山県世界遺産センターに倒木の事を報告したところ、なんと翌日の8月23日に対応(撤去)されていたとのことでした。これからは、安心して歩けます。

また、「トロッコ道ハイキングマップ(九度山駅~上古沢駅約7.6km)を次年度以降で計画したいと思います


第 272 回定例会 令和 3 年 7 月 18 日(日)  コース:伊太祈曽駅~海南駅 約 7km

第272回は、快晴の下、和歌山電鐵貴志 川線伊太祈曽駅に集合しましたが、出発す る頃には雲が現れ太陽を遮ってくれて日差 しが和らいでいました。 駅から参道へ進み、伊太祁曽神社さん の鳥居の前の古い県道を車が往来する中 歩きます。六地蔵に立ち寄り、須佐神社を 通りすぎました。 前回H31年4月2 1日第245回の定例 会でみつけた石碑 もまた見ることが出 来ました(民家のお 庭はリニューアルさ れていました)。 それから、暫く道 を進み、山側へ上り、 奈久地王子跡へ。それから、高速道路の 下をくぐって続いて武内神社へ到着。 再び古道へ戻り高速道路沿いの道を進み 徳本上人名号碑の所まで行くと風景が違っ ています。 『紀伊続風土記』に記されてある奈久地 王子跡は山が削られ車道になり、第204回 定例会H28年1月17日で来た時はフェン スの中にお祀りされていたお地蔵様はあり ませんでした。そして、海南市へ入ると道 幅が細くなっていきます。亀川の氾濫で小 栗判官が足止めされ腰かけた「腰かけ岩」 は見つけられませんでした。四つ石地蔵に 立ち寄り、新しい住宅街の中を通り、松阪 王子へ。道に迷って小野坂の入口を見つ けることが出来ず車道を歩いて「くも池」に 到着。ここにある徳本上人名号碑は大きい ものです。汐見峠で安政(1854~60)の頃 大津波に大活躍した「呼び上げ地蔵」にお 詣りした頃には 12 時を過ぎていました。 暑さのためか、思った以上に時間がかか ってしまいました。そして、昼休憩の場所に 決めていた春日神社へ向かいました。 前回、本殿の南側にあった建物が無くな っていましたが、屋根のある休憩場が作ら れベンチが置いてあり、急に雨が降ってき たなかご飯を食べるのに助かりました。 すると一台の軽自動車が坂道を上がっ てきて境内に入ってきました。そして、車か ら宮司が降りて来られました。 お陰様で御朱印長に御朱印を書いてい ただくことが出来ました。 そして海南駅へ向かおうと参道の階段を 降り始めた時、雨が上がりました。野上電 鉄の廃線跡を利用して作られた遊歩道を 歩いて JR 海南駅へ向かい解散しました。 暑い中、皆さんお疲れさまでした。

第271定例会 令和3年6月20日コース:紀伊駅~伊太祈曽駅 約14.5km

 第271回は、今年度のコースを変更した初めての定例会になりました。

JR紀伊駅へ集合したところ、参加者の方から「先日、布施屋駅から熊野古道を歩いたところ、布施屋駅が改修工事していてトイレが使えなかった。そして和佐大八郎の墓も雑草が沢山生えていた」と教えていただきました。私の予定では、紀伊駅から出発して7km目の布施屋駅で昼食の休憩をして後半7km歩いて伊太祁曽神社へ向かうつもりでした。このコースで布施屋駅以外にトイレが有る所といえば、力侍神社か旧中筋家住宅です。旧中筋家住宅は拝観料がいるので無理。力侍神社には11時頃到着予定ですが、トイレのない所で昼休憩をとることは避けたいので力侍神社で昼休憩をする予定で紀伊駅を出発しました。

先ず川辺王子跡へ向かいました。そして田んぼ中の道を進んでいくと神波エリアに入ったあたりで新しい2車線道路が出来ていました。その道を横断し住宅街へ入っていきました。そして、古道からはずれて住宅街を西へ向かい「大屋都姫神社」を訪れました。702年伊太祁曽神社が、現在、日前宮のある秋月の地から山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座された時に五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命(抓津姫命)の三神が分遷されました。都麻津姫命は五十猛命の妹神で、大屋都姫命と共に素盞嗚尊の子神とされる木の神である説と五十猛命は別名大屋毘古命で、その正妻が大屋都姫命、二位の后が都麻津姫命との解釈もあるそうです。境内は、平成31年2月24日第243回定例会で訪れた時よりこざっぱりとした感じになっていました。

そして、古道へ戻り、中村王子跡に立ち寄り、力侍神社へ到着しました。長い参道を歩き進むにつれ、雅楽の音色が響いてきます。なんと拝殿ではお宮参りの神事が行われていたのです。長年この神社を訪れますが、宮司さんを拝見する事は初めてでした。やはり11時でしたが昼休憩にしました。数年前に作られたトイレが綺麗で、古道歩きには助かります。

昼休憩後、国道24号線にある横断歩道を渡り間違ったようで道に迷ってしまったところ、農作業中の地元の男性に道順を教えていただいて、なんとか土手の下にある案内板に到着出来ました。

紀の川にかかる田井ノ瀬橋をわたり、吐前王子跡へは行かず、改修中のJR布施屋駅を横目に川端王子へ向かいました。

この和佐地区は地元の方々が案内板を数年に一度リニューアルしてくださっているので古道歩きには道に迷わず助かります。そして旧中筋家住宅へ。

旧中筋家住宅は、正徳2年(1712紀州藩主が吉宗)から明治2年(1865)まで実に157年の間6代に渡って和佐・西和佐・四ヶ郷地区一帯を管轄した大庄屋にふさわしい屋敷構えを残しています。嘉永5年(1852)建築の主屋は、三階の望山楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家です。昭和49年(1974)、主屋のほか表門・長屋蔵・北蔵・内蔵・御成門の付属建物が、国の重要文化財に指定されました。旧中筋家住宅は昭和の時代、楫本重一氏の所有となり維持管理されてきましたが、その後、和歌山市が管理団体へ移り、平成12年(2000)から約10年間にわたって保存修理事業を行ないわれました。修復が終了した平成22年(2010)8月から一般公開されています。

弊会は、修復前、修復中、修復後と過去数回拝観させていただいていましたが、今回は拝観しませんでした。それから、和佐王子跡の碑がある和佐王子公園内で和佐大八郎の説明をして墓へは立寄らず、矢田峠へ向かいました。


途中、石の道標を見つけました。その後、県道を渡って、このコースで唯一山中を歩く道に進み、3m近くある徳本上人の南無阿弥陀仏六字名号碑をみながら矢田峠を越えました。峠を下りた所に役行者の石像が待っています。そこから車道と古道を行ったり来たりしながら平緒王子跡へ到着しました。:そこから伊太祈曽神社までは直ぐですが、昼食後約10km歩いて来て暑さも重なり、だいぶ疲れていました。

2014年04月25日登録有形文化財(建造物)に登録された「和歌山電鐵貴志川線伊太祈曽駅検査場」と「伊太祈曽駅プラットホーム及び上屋」を左手に見ながら伊太祈曽神社へ向かいました。

コロナ禍の中、開催を中止しようかと悩みましたが、参加者の方々にマスク着用やソーシャルディスタンスに協力いただき、無事に開催し終了することが出来ました。そして暑い中、本当に有難うございました。

第270定例会 令和3年5月18日コース:牛馬童子口バス停~近露王子~小広峠   約10km

降水確率70%から100%に天気予報が変化する中、JRきのくに線と路線バスを乗り継いで牛馬童子口バス停に到着しました。

道の駅では、今までは開店と同時に売り切れていた「コンニャクいなり(お寿司)」が販売されていて昼ご飯に購入しました。

 元々今回のコースは、今年5月に関西2府4県に福井、岡山、鳥取、徳島を加えた10の府と県で35競技59種目が行われるはずだった「ワールドマスターズゲームズ2021関西」のスポーツ以外に開催するイベント「TSUNAGUプログラム」に登録するため、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」で登録されている物件や名勝旧跡が多くあり、初めての方や他府県の方に世界遺産を知ってもらい楽しめて参加しやすいように約5キロメートルの日程にしていました。しかし、新型コロナウイルスの感染の収束が見通せないことなどから、大会の組織委員会は2020年10月28日に来年2022年5月に開催する方針を決められたのでした。けれども、和歌山県内で配布されている「きのくに県民カレッジ」の小冊子への変更が出来なかったことから、出発地点は変えず、距離を伸ばして開催しました。

 今にも雨粒が零れ落ちてきそうな雨空の下、牛馬童子口バス停を12名で出発。国道311号線を渡って熊野古道へ入りました。土道を進んで農道へ出て暫くアスファルトの車道を歩いて古道へ戻ります。一里塚を通って、箸折峠に到着。峠にある高さ1.1mの宝篋印塔(県指定文化財:史跡、正和4年(1315鎌倉時代)の造立銘が有り、室町時代初期の様式で、花山法皇の経塚といわれます。傍らの牛馬童子像と役行者像は、明治22年(24年とも)に設置されたものといわれます。箸折峠から近露の里へ向かう山道は平成の時代に作られた丸石の石畳が続きます。朝方降った雨のため滑りやすくなっていました。それで道の路肩の石が敷かれていない所を選んで歩きました。

坂道の途中に東屋がありますが草木が伸びに伸びていて、また雨雲が広がって視界も悪く今回は立ち寄りませんでした。

眼下に流れる日置川は、明治22年の大洪水で流れが変わってしまったそうで、以前は峠を降りた所で川を渡り、王子までは少し距離があったそうです。

近露は田辺と本宮のほぼ中間に位置する中辺路の要所・宿場として早くから発達し、近世になってからも宿駅として栄えていました。また、橋を渡って王子の前あたりから200メートルほどの区域は道中(どうちゅう)と呼ばれ多くの旅籠が軒を連ねていました。現在は、その旅籠跡を利用したカフェやレストラン、ゲストハウスが立ち並んでいます。前回第260回の定例会で令和2年7月19日に私達が通った時は、「パンあります」と看板を出したお洒落なカフェがありましたが、パンを買わずに後悔していました。今回「パンあります」看板が出ていたら絶対に買おうと心に決め、足を早め参加者の皆さんから離れました。到着するとこのコロナ禍でも営業されていて「パンあります」看板が店の前に出されていました。私は店頭に駆け寄り「パン下さい!」と店の奥で背を向けて立っていた店員さんに叫びました。パンはベーグルが2種類と菓子パンの計3種類ありました。ベーグルはずっしり重く食べ応えがありそうでした。

そして、野長瀬一族の墓へ向かいました。すると説明用の資料がありません。先ほどパンを買ったカフェの店先に置き忘れてきたようでした。参加者の皆さんにお詫びしながら比曽原王子跡へ向かいました。

途中、前回は綺麗に見られた「乙女の寝顔」が見られませんでした。「乙女の寝顔」といわれる半作嶺(ハンサミネ/ハンサレイ)周辺の山々に雨雲がかかり、見る位置を見誤ってしまったのでした。申し訳ありませんでした。続いて比曽原王子跡に。江戸中期にすでに社殿がなかったため緑泥片岩の石碑が建てられました。また、明治末期まで160坪の常緑樹の悠然とした官山でした。

そこから20分程で「とがの木茶屋」に到着します。前回は、見知らぬ男性に気を取られ、継桜王子跡を通り過ぎてしまう失態を起こしました。それで、今までは石段を登らず説明していましたが、今回は石段を上がり野中の氏神様である若一王子権現(現在は近野神社に合祀)に参拝して来ました。石段を下り、とがの木茶屋の前まで来ると、とうとう雨粒が落ちてきました。

軒下をお借りして昼休憩にしました。

ご飯を食べている間に雨は止みました。近露で買ったベーグルパンは噛み応えがあり満腹になりました。それから小広峠のバス停13:25発か14:56発のどちらのバスに乗るかを皆さんと相談し、大雨になる前にバスに乗ろうと13:25発に間に合うよう出発しました。中川王子跡には「和歌山県街道マップ」通りの時間配分で到着しました。まだ雨は降って来ません。峠までは車道が長々と続きます。そして、後30分余りで峠にあるトイレに着こうかという所(日野武道研究所付近)で雨が降ってきました。

けれども3月のような大雨にならず助かりました。そして、雨の中、熊瀬川王子へ向かう所にある看板前で記念写真が撮りました。

今回も参加者の皆さんのお蔭様でバスの時刻に間に合いました。ありがとうございました。お疲れ様でした。




第269回定例会 令和3年4月18日コース:清水峠(約5km)

令和3年度の初回定例会は、快晴の下、初参加者の方を含めて16名で歩いてきました。そして、駅前にある「木の葉神社」へ立ち寄らず国道42号線へ向かってしまいました。スミマセンでした。

この木の葉神社には毎年12月に行われる「ねんねこ祭り」があります。その昔、神功皇后が後の応神天皇を三重県の獅子岩辺りで出産された時、田原の人達が早起きなのを知って子守を頼まれたと伝わっています。その事から、今も12月の初めには早朝から海辺に出て朝日を拝む「ねんねこ祭り」が続けられています。

今回は新田橋を渡らず国道42号線沿いを歩いてしまったので「堂道の道標地蔵」を見失ってしまいましたが、昨年から工事が始まった日本で初めてとなる民間ロケット発射場「スペースワン」の敷地を見つけました。

串本町田原地区に建設予定が決まったと伺った時には「清水峠から近いの?遠いの?」と空想を膨らませていました。敷地面積は 約 15ヘクタール、ロケットの発射台や組み立て棟、保管庫などが建設され、2020年代半ばには年間 20機の打ち上げを目指しているそうです

 

そこから42号線と線路の間にある湿地帯の42号線側に作られた遊歩道を歩き進みます。この湿地帯はその昔「水田」だったそうですが水がひかず、今は使われていません。

また国道に戻り、坂道を登ったところに「清水峠」の入口看板がありますが、先に昭和2年建立された「口熊野奥熊野境界址」の碑を見に行きました。

今は串本町田原と那智勝浦町浦神の境界になっていますが、建立された時は、口熊野と熊野の境界だったそうです

碑から少し戻って国道から棒杭の谷に入って浦神に抜ける清水峠へ向かいました。入口には和歌山県が平成29年3月初めに新たに設けた押印所がありました。


押印所から清水峠の入口までの平地には養蜂家がいくつも箱を置いてあり、清水峠の中にも日本みつばちの巣箱「ごうら」が置いてありました。

清水峠の入口にある小川では、昨日の大雨で小川の水が溢れていました。その小川を渡ってからの1.7㎞の区間が世界遺産登録されているのです。

古座川弧状岩脈(約1500万年前~1400万年前、「熊野カルデラ」形成に伴い流紋岩質マグマが地表へ噴出する際の通路として、延長20km以上にわたり形成された)の延長である火成岩脈の峰に挟まれた谷を上っていくと、上田原と浦神へ行く分かれ道になり、その先に「右上田原左大へち」と刻まれた石の道標があります。これは、「大へち(大辺路)」と表記された唯一の道標と言われています。

そこからしばらくゆるやかな山道が続きます。掘割の道を抜けると清水峠です。峠からの下りには石段が約100mほど残っていますが少し急な坂になっています。 

清水峠のコース内には細い脇道がたくさんありますが、地元の方々が作られた道標がしっかりと設置され迷うことはありません。

根が地上に張り出している大きな老木が見えてきました。JR紀伊浦神駅までは近いです。「この老木は、何の木?」と尋ねられましたが解らず申し訳ありませんでした。そこから暫く下ると、地元の方が作った「津波災害避難小屋」があり、それを背にした場所からは、浦神湾が綺麗に見え、昼休憩にしました。

その辺りからコンクリート道になり、JR浦神駅へ順調に到着しました。

列車の時間まで約1時間ほどあり、それぞれ駅周辺の散策を始めました。

浦神峠へ向かう標識があった所に「鹽竈神社」がありました。石段を登って参拝しました。見晴らしがよく、線路の北側にある海蔵寺が見えました。そして、なんと神社の入口に「日本遺産 鯨とともに生きる」の看板があったのです。

日本遺産は、地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本の文化や伝統の物語を文化庁が認定する制度で2015年度に始まりました。そして認定の最終年度の2020年、登録物件は全部で104件となり、和歌山県は7件登録されています。その最初の2016年に登録されたのが「32番鯨とともに生きる 和歌山県新宮市、那智勝浦町、太地町、串本町」なのです。

そしてこの鹽竈神社のクジラ漁と関わりのある「せみ祭り」が日本遺産に含まれていたのでした。せみ祭りとはセミクジラに似せて藁で作った3体の「せみ」が取り付けられた的を神職が矢で射ると、「せみ子」と呼ばれる白装束の子どもたちが「せみ」を引き抜いて走り去るという浦神でクジラ漁が行われていたことから起こった神事とのことです。魔除けや豊漁祈願が目的で行われる祭儀で、毎年1月第2日曜日に行われます。

今回も参加者の皆さんの協力と地元の方々が設置された看板のお陰で予定通り歩けました。ありがとうございました。



第268回定例会 令和3年3月21日コース:那智山内散策後、那智の滝~浜の宮王子(約7.5km)

新型コロナウィルス感染者が増えていく最中、2月に続き令和2年度最終月の3月の定例会も開催中止しようかとどうか悩みましたが、「今年度は、熊野三山へ参拝するぞ」という気持ちに押され開催を決めたものもの数日前から降水確率100%の天気予報でした。

朝、JR和歌山駅からきのくに線に乗車した時、雨脚はそれほど強くなく、「風さえなければ、歩きやすくなるだろう」と思っていました。それから熟睡してしまい、あっという間にJR紀伊田辺駅に到着。JR新宮駅息の電車に乗り込むと既に会員さんが乗車されていました。慎ましくお喋りしながらも、時折車窓を激しく叩きつける雨やどんどん止んでくる雨に一喜一憂しながらJR紀伊勝浦駅に到着しました。路線バスの待合所でバスの出発を待っている間も雨脚は激しくなってきました。予定時刻になり那智山行のバスは出発。途中JR那智駅から3名の方が乗車され、今回は5名で歩くこととなりました。 

終着駅の那智山のバス停周辺は霧が立ち込めていて、幻想的な世界の中に降り立ちましたが、雨脚はますます激しくなってきました。

参詣道の階段に立ち並ぶお土産物店は看板を仕舞い、戸を閉ざしていました。行き交う観光客もなく、静寂の中、那智の瀧の流れ落ちる轟音だけが身体の中に響きわたっていました。こんな那智山は初めてです。やっとのことで熊野那智大社の境内に到着しました。立ち込める霧で眼下の景色を見ることが出来なくなり、雲上の世界に辿り着いたような錯覚に陥りました。

傘を差しても噴き上げてくる雨風に顔がさらされるので、先ず記念撮影をしてから参拝をしました。

更に雨脚が激しくなってきたので、予定していた休憩所での昼休憩が出来なくなり、屋根のひさしが深い熊野那智大社の社務所の軒先をお借りして昼休憩をしました。

昼食後は、青岸渡寺へ参拝し、三重の塔内部を拝観して那智の瀧へ向かいました。参道を降りるにつれ、轟音が大きくなり地響きのように鳴り伝わってきます。滝口から溢れ出た大量の水が滝壺に落ちていました。今まで見たことが無い、墨絵のような風景でした。

それから、大門坂へ向かいました。雨にさらされた石畳は滑りやすくなっていて、時間をかけておりました。南方熊楠が滞在した大坂屋の旅館跡を通り過ぎたあたりから雨は小康状態になってきました。「荷坂の五地蔵」を通り過ぎると荷坂峠にある「ふだらく霊園」が現れます。その中に尼将軍に使え尼将軍の廟所を代々守った所縁の人々の墓があり樹齢800年といわれる「柿の古木」があります。そこから霊園を少し登って細い山道を暫く歩くと奥深く「尼将軍供養塔」がお祀りされています。供養塔は建保6年(1218)に建立されたと伝わっています。その供養塔から杉林・竹林の間を歩く1km程の小道が「曼荼羅のみち」です。晴れていれば情緒あふれるハイキングコースなのですが、今回は那智山で降った雨水が縦横無尽に注ぎ込んでいました。小道と平行する小川の水が氾濫して行く手を阻みます。歩き進むにつれ坂道が下ってきますので、水嵩がどんどん増えてきました。とうとう幾つかの小川が合体して大きなうねりを持って勢いのある少し幅のある流れに遭遇してしまいました。道を戻ることも出来ません。思い切って足を流れの中に入れると足首まで浸かってしまいました。何とか滑らず渡りました。暫く濡れた重い足で歩いていると辺りが明るくなってきました。竹林の終了です。県道に戻ることが出来ました。「岩鼻温泉」と呼ばれるステンレス流し台の湯立ち寄り補陀洛山寺へ到着しました。その頃には雨も上がっていました。悪天の中、参加者の皆さんのお陰様で予定通り歩けました。ありがとうございました。次年度もよろしくお願いします。


第267回定例会 令和3年2月21日 新型コロナウィルス感染防止のため中止

第266回定例会 令和3年1月17日コース:新宮駅~熊野速玉大社~西村伊作邸散策 

令和3年初の定例会は、天気予報の寒波到来はなく、とても暖かいなか開催することが出来ました。

 新宮駅の中央改札口を出発し「徐福公園」へ向かいました。平成6年(1994)8月に墓所を中心に中国風の楼門は、きらびやかでした。約2200年前に秦の始皇帝の命により不老不死の霊薬を求めて渡来した徐福。生没年不詳、秦の方士(瞑想、気功、錬丹術、静坐などの方術によって不老長寿を成し遂げようとした修行者)で斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂リンギ市周辺)の出身だったそうです。徐福来航伝説が残っているのは、北は青森県中泊町から南は鹿児島県串木野市まで沢山ありますが、未来に和歌山県と山東省が友好姉妹都市になることを予言し紀伊半島にやって来たのでしょうか?園内には徐福の墓のほか顕彰碑、徐福の重臣たち7人を祀った七塚の碑などがあります。

公園の裏門から出て阿須賀神社へ向かいました。ここは、2016年に世界遺産に追加登録された場所です。熊野川河口付近の南岸、蓬莱山の麓に鎮座し、古事記、日本書紀に記されている熊野村、熊野神邑で、第五代孝昭天皇53年(皇紀238紀元前423)3月の創祀・創建されました。境内から弥生時代の竪穴式住居が出土しています。

神社を後にし、旧チャップマン邸へ向かおうと歩き進んで行くと路面に案内板が埋め込まれていました。

暫く歩いて行くと、青空の中にクリーム色の壁が美しく映える建物が見えてきました。「旧チャップマン邸」です。

「文化学院」の創始者である西村伊作の設計により、アメリカの宣教師チャップマンの居宅として大正15(1926)年に建築され、改修されて2020年8月に国の登録有形文化財に登録されました。そして今回立ち寄った目的の一つに今年10月30日から開催される「第36回国民文化祭 紀の国わかやま文化祭2021」で弊会が開催する「地域文化発信事業 ~和歌山の文化の今昔~熊野古道と近代建築」の15個のイベントの中の一つ11月14日㈰13:30~開催する講演会の会場に借りる申請の為でした。使用許可書を作成して頂いている間、参加者の皆さんには館内を拝観(無料)して待ってもらいました。

2階には、チャップマン氏が滞在された頃のご家族の写真が数点飾られてあり、1階の暖炉の上は2019年05月25日に次女のサラ・エリザベツ・スターンズさん(94)と三女のアーネスティン・チャップマン・ホイットさん(92)らが来日し植樹した時の写真があり、時間の流れの速さに気づかされました 

手続きが終わり外へ出ると、雲一つない青空中に「旧西村家住宅(西村記念館)」が現れました。老朽化のため長らく修復されていましたが、2019年12月に保存修理が完了し、白い壁にワインカラーの屋根と柱のコントラストが美しく、大正・昭和モダンを象徴する建築様式が認められ国の重要文化財になったとことが確認できました。

 そこから街中を歩き国道42号線をわたって熊野速玉大社の紅い鳥居が見えた辺りで、知る人ぞ知る新宮の銘菓のお店を教えてもらい向かいました。 玄関先の格子窓の中に小さく「天の川」という看板があるだけ。恐る恐る玄関の引き違い戸を開けるとモルタルのたたきがあり、その角に置かれた小机への上に値段表と商品が少しだけ陳列してありました。四半世紀近く新宮に来ていますが初めて食べる和菓子でした。

 そして、江戸時代から昭和にかけて熊野川河川敷あった「川原家」という簡易商店を復元した「川原家横丁」でお昼休憩をしました。午後から、熊野速玉大社を参拝し、「渡御前社(わたりごぜんしゃ)」へ向かいました。神武東征の折の神武天皇の頓宮(仮宮)跡と伝えられ、今は速玉大社の摂社になっています。それから川沿いを進んで、熊野比丘尼の総本山「妙心寺」へ立ち寄り、神倉神社へ到着しました。

今年は、国の重要無形民俗文化財に指定されている「御燈祭り」が、新型コロナウイルス感染拡大防止のために「上り子」の参加を全面禁止し、神社関係者のみで神事を執り行うになりました。神倉の石段はやはり急でしたが、所々セメントで修復してありました。

最後に「浮島の森」へ立ち寄ると、アメリカからの渡り鳥に遭いました。 

今回も皆さんのお陰様で予定通り歩けました。ありがとうございました。


第265回定例会 令和2年12月20日コース:発心門王子~熊野本宮大社~大斎原 約7km

令和2年最後の定例会は、とても暖かい日のなか開催出来ました。

和歌山県田辺市本宮町にある和歌山県世界遺産センターの前にある「本宮大社前」のバス停で待っていると、参加者の方が次々と現れ、路線バスに乗り込み発心門王子まで向かいました。

発心門王子のバス停は、発心門王子跡から水呑王子に向かう熊野古道の途中にあるバイオトイレの所にあります。

そこには、昔使われた水道橋の跡がありました。

それからすぐの所に日本ミツバチが巣をつくる丸胴巣箱「ゴウラ」が幾つか置いてある場所に立ち寄り水呑王子跡へ向かいました。

途中、「子安地蔵」へ立ち寄りました。ところが「歯痛のお地蔵」を見過ごしてしまい水呑王子跡に着いてしまいました。ここには「腰痛地蔵」があります。これらのように熊野古道には数多くの石仏があり、それぞれに役目や意味があります。子安地蔵はいわゆる民間信仰の子供や赤ん坊、母親を守るいわゆる産婦人科、小児科の、歯痛地蔵は歯医者の、腰痛地蔵は整形外科の役目を果たし、お地蔵の総合病院戸通りとなっています。現在も地域住民の信仰は厚く手厚く祀られていいます。

伏拝王子がある小高い丘に登る道の手前、果無山脈を望む見晴らしの良い道が続くところに「果無山脈の説明板」が設置され、ここからの眺めは「本宮町名勝八景」に選定されています。

果無山脈は和歌山県と奈良県の県境を東西に18km連なる連山です。山頂は平坦面が直線状に続いているため、高野山と熊野本宮大社を結ぶ参詣道として早くから開けていました。山頂からは熊野灘から太平洋がはるかに一望でき、ブナの原生林、シャクナゲ、ドウダンツツジなどの高山植物の宝庫です。

そこから「伏拝王子跡」までの約2kmは手入れの行き届いた杉・檜の人工林の中を歩く道が続きます。その途中に「道休禅門の地蔵」があります。「南無大悲観世音菩薩/文文政九年」と刻まれた念仏供養の石碑です。今の時期は、地元の方が作られた「藁帽子」を被せられているので見過ごしてしまう事はありません。

昼前に「伏拝王子跡」にある休憩所に到着しました。予定ではもう少し歩き進んだ所でお昼休憩にするつもりだったのですが、休憩所にはトイレも併設されているので早昼にしました。

伏拝王子には、江戸初期に建立されたものといわれる石祠と徳川頼宣が寄進した中世の歌人和泉式部の供養塔があります。和泉式部にまつわるお話は、一遍上人の聖たちが、熊野権現は「信・不信を問わず、貴賎を問わず、女人の不浄を嫌わない」ということを和泉式部を題材に物語としたものであるともいわれています。

 休憩所の隣には、2001年10月1日 - 2002年3月30日に放送されたNHK連続テレビ小説第65作目である『ほんまもん』の主人公の自宅として撮影された茶畑があります。

午後は、先ず雑木林をみながら「三軒茶屋跡」へ向かいました。江戸時代に三軒の茶屋があった場所で、中辺路と小辺路の合流点になります。

そして、今は「九鬼ヶ口関所」が同じ場所にありますが、本来は小辺路を少し下った所の九鬼が口と言う所にあり、熊野に入る参詣者あらためをし通行税を取っていたそうです。通行税は十文と言われ、江戸時代の庶民の「そば」が十六~十八文として換算すると200~250円程度となるでしょうか

また、本宮方面から見ると「右かうや十九り半/左きみい寺三十一り半/みち」と刻んである江戸時代の道標の石があります。

三軒茶屋跡から出発したら、はじめだけ険しい坂道になりますが、あとは緩やかな道が続きます。道はやがて広くなり、昔ながらの姿が残る古道を歩いて行きます。それから道を下って暫く進み左手の脇道へ入り、ちょっと寄り道して展望台へ向かいました。

大斎原の鳥居が真正面に見え、絶景のビューポイントでした。

そこからまた熊野古道へ戻って祓戸王子跡へ向かいました。熊野本宮大社まであと50mほどの所に、小さな樹叢に守られるように立つのが祓戸王子です。史料によっては「祓殿」「祓所」などの別表記があります。本宮大社の旧社地までも数百メートルしかなく、他の王子とは異なり参拝の直前に身を清める潔斎所としての性格を持っていた王子社と見られています。

熊野本宮大社へ到着しますと、境内は初詣の様々な感染対策の作業中でした。参拝者が密になるのを避けるため、本殿前にはさい銭箱のかわりに、さい銭を投げ入れるスペースが設けられました。新年になってニュースで知るとそれは奥行き3.6m、幅54mの大きいものでした。また、本殿に向かう石段は、人どうしの接触を抑えるため、上りと下りの片側通行となるようチェーンで区切られていました。さらに大斎原も初詣の様々な感染対策のテントが設置されていました。

 参加者の皆さんのご協力で予定通り駅に到着しました。お疲れ様でした。

 令和3年もよろしくお願い致します。






第264回定例会 令和2年11月15日コース:JR海南駅~藤白神社(昼食)~JR冷水浦  

小春日和のとても暖かい朝となりました。今回は、和歌山ユネスコ協会さんとの共催事業「第5回ピースウォーク」と同日開催になり、和歌山ユネスコ協会から5名の方が参加され、あわせて14名でJR海南駅を出発しました。

先ず、JR海南駅の西口にある「万葉歌碑」に立ち寄りました。この歌碑は、万葉学者で大阪大学名誉教授、高岡市万葉歴史館名誉館長であった犬養 孝(いぬかい たかし.1907年4月1日 - 1998年10月3日)先生が揮毫したものです。先生は万葉集に登場する万葉故地をすべて訪れ、万葉集研究に生涯をささげ「万葉風土学」を確立されました。昭和26年(1951)に始まった「大阪大学万葉旅行」は45年間の参加者延べ4万人をこえるなど、テレビ・ラジオ番組や公演などで多数の人に万葉集をひろめられました。

また、万葉の景観をまもるため、万葉故地が乱開発される現状に抗議し、国会議員や松下幸之助などの財界人にも万葉故地の重要性を訴えられ、その一環として、日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」131基を建立、故地をまもる活動に奔走されました。

 そこから、街並みを散策しながら進み、熊野一乃鳥居跡の所で熊野古道に入りました。続いて八十八カ所めぐりの石碑があるところで左に曲がり住宅地の中を進むと灌木林が現れます。

 林の中には沢山の八十八カ所の石仏と徳本上人名号碑があり、歩き進むと祓戸王子跡に辿り着きます。 

碑の前からは海南市の町並みが一望できました。

熊野古道へ戻って住宅地の中を暫く歩くと「鈴木屋敷」に到着します。

平安末期頃に熊野から藤白の移り住んできた熊野旧三家の一つ鈴木氏が、熊野信仰を広める拠点としていた場所です。

源義経も熊野詣の際には滞在し、義経弓立の松の古木が残されていたり、「曲水泉」といわれる貴重な庭園などの歴史的に貴重なものが残されています。現在、建物は老朽化し、2021年度の完成に向けて復元工事を行っています。

 藤白神社で参拝した後、権現堂で海南市語り部の会の方からお話を伺いました。

 そして昼食の後、和歌山ユネスコ協会さんが缶バッチを作ってくださいました。

午後から藤白峠に向かいました。

有馬皇子の墓の脇に「丁石地蔵」があります。ここから1丁(109m)ごとに頂上まで17体のお地蔵さま(丁石地蔵)が出迎えてくれます。高野山の丁石と違い大変小さなお地蔵さまで気を付けていないと見逃してしまいます。

道がだんだん狭くなり急な坂道になってきたところで数名の方が道を降りてきました。私たちは通り過ぎるのを待っていたところ「全員で80名が歩いているので、待っていると時間がかかります。歩いて行ってください」と声をかけられました。それは、和歌山市生涯スポーツ交流大会健康いきいきハイキングに参加された方々でJR加茂郷駅から藤白坂を上ってこられJR海南駅まで行かれるとのことでした。小学校低学年と思われる子どもから、初めて歩かれたような年配の方まで様々な方と行き交いました。コロナ禍になってから、熊野古道で出会う人は殆どありませんでしたが、今回は「蟻の熊野詣」を再現したような賑わいでした。

「筆捨松」と「硯石」で休憩しましたが、予定通りの時間で藤白搭下王子に到着。

地蔵峰寺の本堂の小窓から国重文の本尊の石造地蔵菩薩坐像を拝観し、「御所の芝」では、淡路島や海南市、和歌山市の眺望を楽しむことが出来ました。

そして、今回弊会としては初めてJR冷水浦に向かう道を歩きました。途中、浄土真宗の蓮如上人がこの場所を訪れた時、素晴らしい眺めに感動し手を叩き、小謡まで謡って喜ばれたという逸話が残る「鼓ケ畑」を通って急な斜面を下りていきます。倒木も数か所ありますが、地元の方々が道を整備してくださっていて数年前よりも歩きやすくなっていました。

 土の道がセメントの坂道になると民家が現れ、国道42号線が見えてきます。

 参加者の皆さんのご協力で予定通り駅に到着しました。お疲れ様でした。


第263回定例会 令和2年10月18日コース:JR紀三井寺駅~名草山(昼食)~紀三井寺散策   

定例会の前日は秋雨で急に寒くなり、「明日の定例会はどれだけ寒いんやろ?」と心配していましたが、当日は雨が止み、思った以上に温かい日になりました。

集合場所のJR紀三井寺駅には、久しぶりに参加された会員さんや初めて参加されたご夫婦など計21名の方がおられました。また、年齢も小学生4年生の会員さんのお孫さんから昭和15年生まれの方まで幅広い年代の方に参加いただきました。

JR紀三井寺駅を出発し、先ず北に向かいました。国道42号線を少し歩いてコンビニンの前で右側の川に沿って歩く道を選びます。目の前には橋のたもとに楠が植わってあるのが見えました。なかなか懐かしい風景です。そして楠の前には、平成11年3月に建立された「三葛塩船出の地」の碑が現れました。

江戸時代以前から明治の末期まで、三葛、紀三井寺を中心とする和歌川下流一帯には見渡す限りの塩田が広がっていて、住民の多くは製塩を業とされていました。このあたりの製塩は、古代から行われていたと伝えられていますが、近世末頃全盛期を迎え、塩田面積約五十町歩、塩の生産量年約千五百石もあって、和歌山城下はもちろん紀州藩外へも供給されたとのことです。実は、和歌山市西庄にある「西庄遺跡」でも古墳時代の漁業と土器製塩を生業にしていたとみられる多量の製塩土器や製塩炉等がみつかっています。また、「紀伊続風土記」にも三葛村の一節に「村民多く塩を業とす、塩味最美にして味噌醤油を作る料となすべし」と書かれています。当地の製塩の起源は為光上人(770年)によると伝説もありますが、鎌倉時代からの荘園管理人:田所氏が塩田開発に尽力。豊臣秀吉時代から橋本への塩販売独占の特権を与えられて発展。塩船は3~7日間で橋本へ、帰りは1日かかったそうですから塩の量がどれだけ多かったか想像がつきます。明治36年日露戦争の前年に塩が専売制となり、明治43年専売局紀三井寺出張所が閉鎖、廃業となります。

続いて紀三井寺の住宅内の細い道を進んで正行寺(しようぎようじ)に到着しました。このお寺は三葛村の菩提寺です。紀伊名草郡三葛村の土豪=田所氏の墓もあります。名草山北部山麓には縁の名が付いた「田所池」があります。

お寺の山門の手前から石段が名草山の山頂に向かって伸びていました。

名草山は、標高228.7m。名草の民が信仰した山であります。

紀元前660年とされる神武天皇即位の3年前、兄五瀬命の死の後、イワレヒコ(のちの神武天皇)は狭野を越え熊野神邑から再度海路を征く前、名草邑の統治者だった名草戸畔と戦いました。一説に名草戸畔とは特定の人物の名ではなく「名草の長」という地位を表す言葉であるといわれます。また、姥(トメ)を由来とする説、アイヌ語で乳を意味する「トベ」が女性の族長を示す言葉となり、そこからトベに訛ったと考える説もあったとされます。

坂道の途中に大日堂があり、その反対側に高皇神社がありました。創建時期は不明ですが『紀伊続風土記』によると「土地の東山上にあり、田所氏の祖吉原(中言神社)より勧請(妙見大明神)す」とあり、神社の記録に文化4年(1807)当時の神官濱田信濃が400年以上前の鎮座であることを申し伝えている古くからの免許地であって、明治6年(1873)4月に村社に列せられています。

展望は良くなっていきますが坂道はだんだん急になり足の運びが遅くなる中で、小学生4年生の彼だけが跳ねるように山を駆け上がっていきます。しかし、彼の進む前には最高齢の方がゆったりと歩いておられたのでした。

二人の背中を見失わないように一生懸命あるきました。雑草が生い茂った道を通り抜けると開けた頂上に出ました。

地元のボランティア活動の方々の手作りのベンチが疲れた私達を出迎えてくれました。名草山には多くのボランティア活動の方がおられ、下草を刈ったり、四方八方にのびた登山道を整備し、ベンチを作って歩かれる方のサポートをしてくださっておられるとのことです。

今回歩いた道も数ある道の中で一番歩きやすい道を紹介していただきました。

名草山の頂上からは、日本遺産3つを眺望することが出来ます(次頁参照)。

西側の和歌浦を見ていた時、ドクターヘリが和歌山県立医科大学の屋上にあるヘリポートへ着陸するのが眼下に見えました。少し時間が早かったですが昼休みにし弁当を広げ始めた時、30名の方々が次々に到着され、私達は3密を避けようと昼食を早々に済ませ山を下りました。西国三十三カ所の石仏が置かれてある「観音道」と呼ばれる道を進みました。途中、乃木大将の碑がありましたが雑草に覆われていました。それから沢山の道と交差する中、観音道を離れ、ロープを張って下さっている急な坂道へ向かいました、そのロープを頼りに降りると、紀三井寺さんの墓地に到着しました。

山の斜面に何基あるのだろうかと驚くばかりの数でした。そして、本堂脇の階段へ辿り着きました。

紀三井寺は早咲き桜の名所として有名で、開花宣言の目安となる和歌山地方気象台指定の標本木(ソメイヨシノ)が本堂前にあります。その前で一端解散し、50年に1度執行の秘仏御本尊(十一面観音立像・国重文)と千手観音立像(国重文)の御開帳へ向かう方、御朱印をいただく方などそれぞれの道に分れました。

紀三井寺の開創は宝亀元年(770年)で、唐の僧侶・為光が日本各地を周っている際に、水が湧く名草山に登って金色の千手観音を感得したのが始まりとされています。特別拝観中でありましたが、参拝者の方は多くなく、ゆっくり拝観出来ました。光背のように扇型に広げられた御手を持たれた千手観音立像は圧巻でした。

そして、今回は22名もの方に参加いただいたのに記念写真を撮り忘れる失態を起こしてしまいました。写真を撮ってないと気が付いた時は、解散してからだいぶ時間がたっていました。けれども境内に残っていらした参加者の方に声をかけ集まっていただいて14名で写真撮影しました。7名の方には本当に失礼しました。

それから「中日友好碑」、12mの木造千手十一面観世音菩薩を拝観、紀三井寺の名水2ケ所に立ち寄りJR紀三井寺駅へ向かいました。今月もお疲れさまでした。




第262回定例会 令和2年9月20日コース:小広峠~発心門王子跡 約11.3km

連休中の天気は不安定で、当日の朝は雨が降り「2か月続けて雨かぁ」と思いながら電車と路線バスを乗り継いで小広峠まできました。

集合場所では「途中から晴れてくるかな」と笑い合いながらも雨合羽に着替え傘を手にし雨に備えた10人で出発しました。

看板の先から熊野古道へ入り谷川にかかる橋を渡ると、草鞋峠まで上り坂が始まり、暫く歩くと熊瀬川王子があります。

一里塚を過ぎると峠までつづれ折りの急な坂道が続きます。草鞋峠を下る坂道は「女坂」と呼ばれ、昔は「蛭振り峠」といわれるほど鬱蒼とした雑木林の道だったそうですが、

今は明るい林道が続いています。

そして2011年の台風9号による影響のため、 仲人茶屋跡手前から蛇形地蔵までの区間に迂回路が設置されていて「仲人茶屋」「男坂」「岩神王子」「おぎん地蔵」付近は通行できませんでした。

この迂回路は約4㌖ですが、歩いても歩いても登り坂が続きます。途中2カ所「猪除け」の防護ネットが張られていていますが鍵がかかる扉ではないです。

そのうちに空も明るくなってきて、傘をたたみ、雨合合羽を脱いで歩きました。

途中で2011年の台風被害で深層崩壊した山の斜面を通りました。倒木が取り除かれ、植林された木々が育ち、公園のうような明るい広場に変わっていました。


2011年9月10日に撮影した斜面 ⇒ 2020年9月20日撮影した斜面

そして、「蛇型地蔵」へ到着。ちょうど12時になったので昼休憩を提案しましたが、ベンチは苔に覆われ、トイレもドアが傾いていたので、三越峠まで約40分頑張って歩くことにしました。

湯川王子を過ぎたころからつづれ折りの急な坂道がまた始まり、三越峠まで約800㍍続きました。

雨が止むと湿度が上がってきて汗が噴き出してくる中、やっとのことで三越峠にある東屋に到着しました。

令和元年11月2日から船玉神社周辺の崩落・流木及び赤木越分岐地点の橋流出により「船玉神社~猪鼻王子~発心門王子」は通行不可になっています。

そのため、三越峠から進んで標識56番の後、猪鼻王子へ向かう右へ下る道は通らず左の車道へ通る迂回路を歩く事になっているそうですが、

どれだけ時間がかかるか解らなかったので、昼休憩時間を15分という短い時間にするのを参加者の皆さんに同意いただきました。

その短い時間の中でご飯を食べ、雨の心配はなくなっていたので雨具をしまい、身支度を整え、三越峠の東屋を出発しました。

三越峠には53番の里程があります。

歩き始めるとすぐに道が狭くなったり、階段状の道になったりと急な下り坂が続き、そのうえ雨の後でとても滑りやすくなっていました。

54、55、56番の里程を進むにつれ川の流れの音が近くに聞こえてきます。

そして、猪鼻王子へ向かうため、本来なら右側の河原に向かって下る道の所に「迂回路」を説明するA4サイズの案内文章がパウチされ掲げてありました。

日本語以外の語学の文字が大きく書かれ、コロナ前の外国人観光客が多かった頃の賑わいを感じました。

発心門王子の60番の里程まで約2.5㌖ありますが、迂回路が何㌖あるか、パウチされたA4サイズの案内文は文字が小さくて読み取ることが出来ませんでした。

それで、バスの出発時刻14:48に間に合うよう歩いてもらうため、参加者の皆さんに発破を掛け急がせました。

そして、忘れたころに現れる迂回路の標識を見つけながら車道を歩き進みました。すると三重ナンバーの軽四自動車が発心門王子方面からやってきました。

「あれ?もう少しかな?」と思った時に、発心門王子の紅い社が見えました。

けれども、バス停が無いのです。なんと、水呑王子へ向かう熊野古道の途中にあるトイレの所へ移っていました。

今回も皆さんにご協力いただき、バスに間に合いました。ありがとうございました。



第261回定例会 令和2年8月23日コース:高野三山巡り 約10.7km

定例会の朝、南海高野線で極楽橋駅へ到着しますと多彩な色使いで極楽鳥や高野山ゆかりの動植物などが描かれた天井絵に模様替えされていていました。そして、ケーブルカーの乗降口の入口には、水底に輝くガラスアートの極楽鳥が描かれた手水舎がありました。それから、高野山は日照時間の短く稲作ができず、しめ縄の代わりに「宝来」という切り絵を飾る風習がありますが、この宝来をモチーフに赤白で描かれた極楽鳥や干支、様々な縁起物をかたどった天井絵が乗降口の天井を彩っていました。

                  

そして、真っ赤なボディのケーブルカーに乗り込み5分で高野山駅へ到着。

路線バスに乗り換えて奥之院へ向かいました。車内は異国人の観光客はなく、リュックサックを携えた方々で満席になりましたが不動口女人堂バス停でほとんどの方が下車されました。奥之院に到着しましたが、集合時間まで20分ほどありました。「出発時間の前に食事を済ませてください」と会報誌ではお伝えしていましたが、小腹が空いたら歩きながらでも食べられるだろうと集合前の食事は軽めに済ませました。

出発時間の頃には日差しも出てきて、参拝客・観光客の方々が増えてきました。今回も数日前まで雨天の予報でしたが、定例会日に近づくにつれ雨から曇り、晴天に天気予報は変化してきました。けれど山の天気は変わりやすいもの。雨傘や雨河童を用意して11名で出発しました。

「企業墓地」と呼ばれる参道を通って、戦国武将の墓石が並ぶ参道に合流します。奥之院の一番石「崇源院供養塔」や赤穂浪士の供養塔、応其上人の墓を巡り、ジャニー喜多川さんの墓は何処だろうと話ながら水向地蔵に到着。ここで最後のトイレ休憩をとり女人道へ向かいました。

女人道は、「お竹地蔵」の脇にある①番から不動坂女人堂まで57番の案内板が建てられています。その間隔は熊野古道にある里程のように500m毎とは決まっていないようです。先ず㉗番に到着しますが、ここから摩尼山へは行けません。㉘から山道へ入り摩尼山へ向かいます。幾ら標高800mから登り始めたとはいえ、1004mの山頂までは急勾配の坂道が続き、辛く長い道のりでした。何とか摩尼山の頂上へ辿り着きましたが、次の楊柳山までは山道を一端おり黒河峠を超えて1008.5mの頂上へ上ることになり、まだまだ気が休まりません。黒河峠で「黒河峠ルート」の通行禁止の看板が立てられてありました。やはり山の天気は変わりやすいもの。パラパラっと雨が落ちてきたかと思うとにわかに辺りは暗くなり大粒の雨が降ってきました。楊柳山山頂では、ほんの暫く雨が止んでいた隙に記念写真の撮影をしました。

雨は降ったり止んだりして汗か雨でぬれたのか判らなくなってきました。子継峠では子安地蔵の前で大木が根からひっくり返って倒れていました。そこから転軸山手前の車道まで下り坂が続きます。転軸山は標高915mですが、車道から急斜面の山道を登らなくてはなりません。やっとのことで頂上に辿り着きましたが、この雨に長居は無用と下り始めますが、雨が激しく降り荒び、道には雨水が溢れ、濡れた木の根が滑りやすくなってきました。時間はかかりましたが山を下り「鳥の池」まで来ると雨はすっかり上がっていました。そして、「中之橋霊園」の中を通って奥之院の参道(呼びかけ地蔵手前)に戻りました。途中、小腹はすきましたが雨のため食べられませんでした。このコースは10年ぶりに歩きましたが、キツかったです。雨の中、本当にお疲れさまでした。

さて、私は久しぶりに履いた登山靴で雨水は防げましたが、両足の親指の爪が腫れてひかなくなり皮膚科で受診したところ内出血をしていました「早く血を抜かないと綺麗に爪が生え変わらないよ」と先生に教えられました。「たかが爪」と思わないで、早く受診すればよかったと後悔しています。皆さんも痛い所があったらガマンせず早めに受診してください。

そして、後日伺ったのですが、ジャニー喜多川さんのお墓は昨年建てられ、既に納骨も済まされたとのことでした。

◆黒河道は、2ルートあります。

第261回の定例会で歩いた時、「黒河道通行止め」の標識が2ケ所(㉟~㊱の標識の間)にありました。

黒河道は、久保田和の地蔵から2つのルートに分かれます。西側は「粉撞ルート」㊱の子継峠へつながる道で世界遺産に登録されています。

東側は「黒河峠ルート(久保田和の地蔵~黒河村跡~仏谷~垣内大師石造~桜地蔵:女人道と交差)」です。この道は世界遺産ではありません。

私は一番最初に下見で歩いた時は解らずに東側の「黒河峠ルート」を歩きました。

現在は、「黒河峠ルート」で倒木、橋本駅から登り口の定福寺①~②の標識の間で土砂崩れがあり通行止めです。



第260回定例会 令和2年7月19日コース:牛馬童子口~小広峠 約8.3km

第260回の定例会は、前夜まで雨の予報が晴の日になり、日差しが照り付けるほどの暑い日になりました。初参加の方2名を含め16名で歩いてきました。

先ず牛馬童子口バス停がある道の駅の駐車場で集合し、国道311号線を渡って熊野古道へ入りました。土道を進んで農道へ出たガードレールの脇に日本語・英語・?語・中国語で説明された案内看板が立っていました。「多分フランス語かな?」と推理しながら暫くアスファルトの車道を歩いて古道へ戻ります。

一里塚を通って、箸折峠に到着。峠にある高さ1.1mの宝篋印塔(県指定文化財:史跡、正和4年(1315鎌倉時代)の造立銘が有り、室町時代初期の様式)で、花山法皇の経塚といわれます。傍らの牛馬童子像と役行者像は、明治22年(24年とも)に設置されたものといわれます。

この牛馬童子像は、今から12年前の2008年6月18日に頭部が何者かによって叩かれて壊され無くなっているのが発見されたのでした。

事件発覚後、市職員や地元住民らが捜索を続けたが発見されなかったため、頭部を復元することとなり、和歌山県立博物館で展示されているレプリカの牛馬童子像を作った際の型枠を使用し石膏で頭部を復元した後、彫刻家の岡村哲伸氏がそれを参考に胴体と同じ地元産の砂岩を使って頭部を彫るという手順で復元が行われました。そして同年10月3日に完成した頭部が胴体にステンレス製のボルトで取り付けられたのでした。ところが、約2年後の2010年8月16日に田辺市内のバス停のベンチにて切断された頭部らしきものが発見、本物と確認されたのでした。けれども本物を付け替えると、胴体に負担がかかるという理由から、付け替えることはせず本物は和歌山県世界遺産センターに展示されています。

箸折峠から近露の里へ向かう山道は石畳が続きます。雨の日だと滑るので、晴れて良かったです。坂道の途中の東屋で一休み。眼下には日置川の水面がキラキラと輝き、河原に面して建てられている「熊野古道なかへち美術館」が見え隠れします。周りの木が育ち、美術館を包んでいるのです。北野橋を渡って近露王子跡へ到着。王子内は木陰で風が爽やかに吹いていました。近露は田辺と本宮のほぼ中間に位置する中辺路の要所・宿場として早くから発達し、近世になってからも宿駅として栄えていたそうです。また、橋を渡って王子の前あたりから200mほどの区域は道中(どうちゅう)と呼ばれ多くの旅籠が軒を連ねていました。現在は、その旅籠跡を利用したカフェやレストラン、ゲストハウスが立ち並んでいます。私達が通った時は、「パンあります」と看板を出したお洒落なカフェがオープンしたばかりでした。そこから継桜王子跡まで坂道が続きます。「今日は綺麗に見れるぞ」と教えていただいたのは「乙女の寝顔」でした。紀伊半島南部の大塔山系の西端に位置する、関西百名山の1つで、東側が熊谷に向って切り落ちた3つの岩峰からなる標高 900m弱の山:半作嶺(ハンサミネ/ハンサレイ)は、北側から見ると女性の横顔に見えることから、「乙女の寝顔」と云うロマンチックな愛称が付けられています。けれども半作嶺は、乙女と云う優しいイメージとは裏腹に、登ってみると急坂や尾根筋の岩峰が険しい荒々しい山だと伺っています。

続いて比曽原王子跡に。江戸中期にすでに社殿がなかったため緑泥片岩の石碑が建てられました。また、明治末期まで160坪の常緑樹の悠然とした官山でした。

そこから20分程で「とがの木茶屋」に到着しました。

地元の方なのか語り部さんなのか一人の男性が出迎えて下さって挨拶していたら継桜王子跡を通り過ぎてしまい説明を忘れました。スミマセン。(結局、男性は何者か解らず仕舞いでした)

継桜王子は若一王子権現ともいわれ、社殿は石段の上の高所にあります。境内の斜面に一方杉の樹齢800年巨木が10本ほど現存し最大のものは幹回り8m、県指定の天然記念物になっています。県無形文化財指定の「野中の獅子舞」もこの境内で行われ、野中地区の氏神にあたります。明治44年に伐採されかかりましたが、南方熊楠によって守られました。

私達は野中の清水へは立寄らずお昼休憩にしました。

そして、暑さでボケっとしていたところ「バスの時間に間に合うかな?」と会員さんにアドバイスいただき、秀衛桜の説明もそこそこに出発しました。足早に中川王子跡と小広王子跡を巡って、最後の土道の坂道を下りました。熊瀬川王子へ向かう所にある看板前で記念写真が撮れました。今回も参加者の皆さんのお蔭様でバスの時刻に間に合いました。ありがとうございました。お疲れ様でした。

さて、足の疲れも取れた21日の火曜日の夜、4チャンネルでテレビをつけていたところ20時から「教えてもらう前と後」の番組が始まりました。

なんと、「熊野古道で起きた石造首切り事件」として牛馬童子像が現れたのです。7年前の2013年に再び牛馬童子像の頭部と胴体が分離した理由を推理するという内容でした。

私は全く2013年に起こった2度目の事は知らず、19日の定例会の現地では説明できていませんでした。

牛馬童子は約130年前に誕生しました。この間、私達の周りでは様々な事が起こりました。そして、これからも予想できない事が起こるのではないかと思います。

ダーウィンの名言に「生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである」があります。

コロナ禍の中、私達は心身共に柔軟に楽しく変化していきませんか。

☆2020年7月21日20時~MBSで放送された「教えてもらう前と後」のTV画面より



◆三重県立熊野古道センターが「ツーリズム博物館」に日本で初めて登録(伊勢新聞7/4(土)より抜粋)

三重県立熊野古道センター(尾鷲市向井)の常設展示が、スペインの旅行関係者らがインターネット上に開設した「ツーリズム博物館」にこのほど、日本で初めて登録された。

常設展示は、世界遺産・熊野古道のある県と、同じく世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」の一部が通るスペイン・バスク自治州が昨年交わした覚書や、

同巡礼路に関する説明、同巡礼路ゆかりの大聖堂の写真パネルなど。同博物館のフェイスブックで、展示の様子が写真で紹介されている。

◇展示コーナーの内容

・「世界遺産の巡礼道を生かした協力・連携に関する覚書」について

・スペイン・バスク自治州について

・「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」について

・「サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂ボタフメイロ」について

・巡礼手帳、バスク観光案内冊子など

◇ツーリズム博物館とは

ツーリズム産業の歴史的価値を再認識し、世界にその業績を称え伝え残していくことを目的に、

スペインにて設立され、バーチャル博物館として随時ツーリズムに関する資料、出版物、新聞記事を更新・公開し、SNSにて情報発信を行っています。

〇ツーリズム博物館Facebook:https://www.facebook.com/ツーリズ厶博物館-109576303810995/

★和歌山県の「熊野古道」と1998年から姉妹道提携をしているのは、スペイン・ガリシア州です

◆「世界遺産の高野山参詣道を無断掘削、町が刑事告発」という事件が起こりました。

令和2年6月26日(金)に和歌山県世界遺産センターに確認したところ、

  「道が崩れているなどを見つけた時は、無断で作業せず、先ず管轄する市町村か和歌山県世界遺産センターに連絡してください。」とのことでした。

「危険だから」や「早く何とかしたい」という気持ちは解ります。私もこの23年間で何度か経験しています。

けれども世界遺産登録物件は、文化財保護法、自然公園法、森林法 河川法等やそれぞれ制定された市町村条例と世界遺産条約に則って登録されています。

そして、何年時が過ぎても登録された時点の形状と異なってはいけないのです。

今後、ウォーキングしている時に道が崩れていたり、ゴミの不法投棄やおかしなところを発見された時、

「その場所の詳しい住所や何処へ連絡したらいいか解らない」場合は、弊会事務局までメールkumako97@jtw.zaq.ne.jpください。

場所を確認して和歌山県世界遺産センターや然るべき機関に連絡させていただきます。よろしくお願いします。

                                                                                         運営委員代表 小野田真弓(第1期和歌山県世界遺産マスター)

◆祝!日本遺産認定

日本遺産は、地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本の文化や伝統の物語を文化庁が認定する制度で、2015年度に開始。

認定の最終年度となった本年度は申請69件のうち21件を新たに認定、日本遺産は104件(和歌山県は7件)となりました。

「安珍清姫の物語」については、県が昨年度まで2回連続で申請し、本年度も安珍清姫の物語を含む絵解き文化として提出されたが認められなかったそうです。

また県関係ではこのほか2件も認定が見送られたとのことです。


▲「葛城修験」-里人とともに守り伝える修験道はじまりの地

【ストーリーの概要】

和歌山~大阪~奈良の境に聳える葛城の峰々。修験道の開祖と言われる役行者(えんのぎょうじゃ)がはじめて修行を積んだこの地は、

世界遺産の吉野・大峯と並ぶ「修験の二大聖地」と称されています。この地には、役行者が法華経を1品ずつ埋納したという28の経塚があり、

今も修験者たちは、その経塚や縁の寺社、滝や巨石を巡ります。そしてその修行にはいつの時代も、この地に暮らす人々との深いつながりがありました。

修験者や地域の人々が大切にしてきた聖地「葛城修験」――修験道の歴史は、ここから始まりました。

【和歌山市内の構成文化財】

(友ヶ島)序品窟、観念窟、深蛇池、閼伽井跡、神島剣池

(加太)加太淡島神社、加太春日神社、加太春日神社えび祭り、紀州加太浦「採燈大護摩供」、阿字ヶ峰行者堂、常行寺

西念寺、大福山譬喩品/雲山峰譬喩品、鳴滝山圓明寺(鳴滝不動尊)、大福山本惠寺(直川観音)、墓の谷行者堂、中山王子跡

【申請者】 代表:和歌山県 (和歌山市、橋本市、紀の川市、岩出市、かつらぎ町)、

大阪府(岸和田市、泉佐野市、河内長野市、和泉市、柏原市、阪南市、岬町、河南町、千早赤阪村)、

奈良県(五條市、御所市、香芝市、葛城市、王寺町)

▲女性とともに今に息づく女人高野~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~

【ストーリーの概要】

高野山は、近代まで「女人結界」が定められ、山内での女性参拝は叶いませんでした。

そんな時代にあっても、女性たちの明日の安らぎを願う声を聴いていた、「女人高野」と呼ばれるお寺があり、現代でも訪れる女性たちを癒し続けています。

【主な文化財】 女人道(高野町)、不動坂口女人動(高野町)、慈尊院の境内、建物群・彫刻群(九度山町)、丹生官省符神社(九度山町)

【申請者】 代表:大阪府河内長野市、

和歌山県九度山町、高野町、

奈良県宇陀市

(図は2020.6.13産経WESTより転載)



第259回定例会 令和2年6月21日コース:滝尻王子跡~牛馬童子口 約12km

コロナ禍で令和2年3月の第256回から3回中止させていただいて定例会を再開することが出来た当日は、

夕方から日本全国で【部分日食】が起こる梅雨の合間の晴の日でした。

JR線と路線バスの公共交通機関を使って現地へ向かう途中、リュックサックを持った山歩きに来られた人は見かけませんでしたが、

滝尻王子跡前に到着すると12名の方が待ってくださっていて「やっと、自粛解除になったんだなぁ」と、実感が湧いてきました。

さて、滝尻王子跡=滝尻王子宮十郷神社前で合流する2つの川は、明治22年の大水害の前は、岩田川の川幅はもっと狭く、石船川は鳥居の前を流れていたそうです。

また、鎌倉時代の幾つかの書物では「観音菩薩の補陀落浄土から流れてくる岩田川の水と薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる石船川の水で沐浴することで罪が滅される」

と滝尻王子での水垢離の意義が説かれていました。そして、現在は近年新たに設定されたルートで、上部にある聖域(乳岩と胎内くぐり)に直接向かう道になっていますが、

鎌倉時代までは、境内地から尾根筋上の鞍部までが一体となった磐座祭祀の聖域(南斜面)に拝礼しつつ進むものであったと考えられています。

承久の乱(承久3年〈1221〉)以降、皇族貴族による熊野詣の衰退で九十九王子社の衰退・退転がすすみ、

さらに岩田川を何度も渡渉しなければならない難路であることから滝尻王子を経由していた参詣道が潮見峠越えの道に転じて行き、

室町時代頃までには滝尻王子は近隣の住人のための叢社の地位に戻ったと考えられています。

気温は高いですが、まだ体の筋肉が温まっていないので、胎内くぐりの看板まではゆっくりと登り坂を上がりました。

そこから不寝王子、剣ノ山経塚跡までも急な上り坂が続きます。剣ノ山経塚跡からはフラットな道で、25分ほどで高原への車道と交差します。

そのあと針地蔵尊を過ぎてから階段状の登り坂道が続き、登り切ると高原の里に出ます。前は登りきった所に電波塔が建っていました。

その電波塔が建つ前は急な階段状の道はなく、今の車道の一部が熊野古道だったそうです。

そして、高原熊野神社まで続く道の両側には、洒落た旅籠やゲストハウス等宿泊施設が数件建っていました。

どの看板にも英語が書かれ、コロナ禍前の外国人観光客の方々が歩いていた頃の賑わいが彷彿として浮かんできました。

高原霧の里休憩所で昼食の休憩をしました。車で来られた1組の観光客の方が先に休憩されていました。

昼食後お二人の方が栗栖川へ向かわれ、後半は11名で牛馬童子口を目指しました。

高原の在所から旧旅籠通りを通って「庚申さんと大日如来」までは滑りやすい石畳の細い登り坂が続きます。

「庚申さんと大日如来」からは山道に変わりますが、登り坂は続きます。木陰に太陽が遮られ直射日光がなく、

また時折涼しい風が吹いてきていましたが、疲れは増してきました。

それでも参加者の皆さんの協力のお蔭で、和歌山県街道マップの推奨標準歩行時間と同じ時間で大門王子から十丈王子まで進んできました。

小判地蔵の手前にあった登り坂もしんどかったですが、悪四郎屋敷跡を過ぎ一里塚の後、

道標17番から18番までのつづら折れの急な上り坂は本当にキツカったです。

私は余りのしんどさに転がってあった長い木を杖にして倒れそうになりながら登り坂を歩きました。

そして、上多和茶屋跡の看板が見えた時は、「やれやれ、やっと着いた」と、地面に座り込んでしまいました。

そこからは、ずっと下り坂になり「三体月伝説」の看板では説明もそこそこに林道との交差点にやってきました。

「後15分で大坂本王子、王子跡から15分で牛馬童子口ですよ」と声かけながら「板尻の谷」と呼ばれる幅の狭い下り坂を歩き進みました。

昨日まで降っていた雨は渇いていましたが、「コロナ禍の3か月だけでなく、それまでも歩く人が少なかったのでは?」と思えるほど、

盛り上がった木の根に枯葉が覆い被さり、爪先が何度も木の根に引っ掛かりました。

どんどん坂道を下ると川の流れの音が大きくなってきて、車道を行き交う車のエンジン音が近くなってきました。

牛馬童子口のバス停に16:05に到着。皆さんの協力のお蔭で路線バスの発車時刻の16:13に間に合いました。

今後このコースは集合時間を1時間早い9時にして、前半2時間半、後半4時間で歩くように改善します。

本当に皆さんありがとうございました。お疲れさまでした。


第258回定例会 令和2年5月16日中止の会コース:稲葉根王子跡~清姫の墓 約10km

このコースは、JR紀伊田辺駅から路線バスに乗って稲葉根王子跡へ向かい、そこから富田川を何度か渡り進み川沿いに北郡を経て清姫の里に至る道約10kmの行程です。

この中には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の2014年に追加登録された「北郡越(資産の面積は0.19ha、 距離は1.6km『藤原定家歌碑』から梅畑の畦道から山側へ入る

少し段になって道が上がっている所から北郡集落の在所の舗装道までの間で資材置き場部と道路橋下以外)」が含まれています。

出発の「稲葉根王子」は、熊野九十九王子のうちで格別の崇敬を受けた五体王子の1つで、前を流れる川は、熊野の霊域に入る前の重要な水垢離場にもなっています。

現在は、潜水橋(畑山橋)を渡らず興禅寺に向かわず富田川沿い(県道311号線)を歩くルートが推奨されています。

途中、旧道に入りますとお地蔵さまや庚申塔に出会います。市ノ瀬橋を渡ろうとすると、快晴ならば青天の中に白いだるま様がはっきり見えます。

興禅寺にある昭和49年に建立された当時日本一を誇る白いだるま像です。そのまま暫く川沿いの舗装道を歩き新しく建設されたトイレを通り過ぎて「一ノ瀬王子」に到着します。

また舗装道に戻り加茂橋を渡り311号線を越えたらすぐに急な坂道を登ります。今回のコースで一番の難所です。

頂上近くにある「花折地蔵」から見た富田川は美しく穏やかですが、応永三十四年(1427)に参詣した僧実意(じつい)が

「女院が渡る時は、白い布を二反結び合わせて、女院が結び目を持ち、布の左右を殿上人が引いた」と日記書かれていました。

そして、311号線のバス停近くの「鮎川王子」から、富田川を渡って暫く民家の間を進みゆくと「住吉神社」が有ります。

神社から旧道に出ると「御所平のお薬師」まで道は坂道になります。そこから「藤原定家歌碑」までは遠くありません。

歌碑から梅畑の畦道を進んで山際の道へ進むと世界遺産登録エリアに入ります。「道祖神と庚申塚」の案内板が出てきます。

平成23年の紀伊半島大水害で傷んだ場所は残っていますが、歩きやすい土道が続きます。蕨尾橋の下をくぐって「大うなぎ生息地碑」を過ぎて進むと急な登り坂になります。

そして登り切った所に大きな資材置き場が現れました。それを左手に見ながら道を進むと「新旧二体庚申塔」と「徳本上人碑」と「御日待供養塔」が現れます。

そして、竹藪の中を進み、結構長い距離を歩くと北郡集落に入っていきます。311号線まで下って、道を横切って北郡橋を渡り、旧県道を歩き進むと「清姫の墓」に到着します。

さて、「清姫の墓」から北の山へ向かって車道を2.5kmほど歩き進んだ所に売店と公民館が現れる、山腹に伸びる参道の階段が目に飛び込んできます。

ちょっと急ですが上りきると福巌寺の本堂があり、左奥に「一願地蔵尊(俗称からし地蔵)」お祀りされています。

福巖寺のホームページによると『寛政年間に遠州(静岡県)龍泉院 呂庵和尚 徒弟道機和尚が当山第六世として住山。

檀信徒の帰依篤く二十有年在住されたが、自らの臨終を知り、三日前檀家に別れの挨拶をし「ながながと 如来のまねも 今日限り」と辞世を残し、

文政六年二月二十七日、八十三才で本堂前に於いて座亡された。其の時「我の死後供養として、地蔵尊を刻し、人通り多き場所に祭られたし、

然らば遠州の人も或は通りあわせて香華もたむけて呉れるならん、その代わり一度に一つの願いは必ず叶えて進ぜよう」と誓われた。

よって里人はこれを実行し、熊野参拝途上の汐見峠に安置した。其の後現在の境内に移転、和尚の好物のからしと酒を供え、今に至るまでからし地蔵として名を残している。』とのことです。

遠州と言えば静岡県。国道42号線は静岡県浜松市から始まり、 伊良湖岬から鳥羽に渡り紀伊半島を一周し和歌山市に至る道なので、

道機和尚がいち早くこの道に目をつけていたのかもしれませんね。汐見峠から一願寺に繋がっている道もありますので、その昔、一願寺がお祀りされていた場所を探すのも一興かもしれません。

けれども今は、何はともあれコロナウィルス収束にアマビエ様に願うばかりです。

◆「アマビエ」厚生労働省の「STOP!感染拡大」の啓発キャラクターとは?

疫病から人々を守るという伝説がある妖怪「アマビエ」が、厚生労働省が作成した新型コロナウルス感染症拡大阻止を呼び掛けるアイコンになっています。

では「アマビエ」とは、どんな妖怪でしょう?(私は「アマエビ」と聞き違えて探すのに苦労しました。)

アマビエ(歴史的仮名遣:アマビヱ)は、日本に伝わる半人半魚の妖怪。

光輝く姿で海中から現れ、豊作や疫病などの予言をすると伝えられています。

日本各地にさまざまな伝承があるそうですが、江戸時代後期の肥後国(現・熊本県)に現れたといわれています。

この話は、挿図付きで瓦版に取り上げられ、遠く江戸にまで伝えられました。

「京都大学附属図書館 江戸末期の瓦版」の図を参照ください。

下記内容は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』出典。

『弘化3年4月中旬(1846年5月上旬)のこと、毎夜、海中に光る物体が出没していたため、役人が赴いたところ、それが姿を現した。

姿形について言葉では書き留められていないが、挿図が添えられている。

その者は、役人に対して「私は海中に住むアマビヱと申す者なり」と名乗り、

「当年より6ヶ年の間は諸国で豊作が続くが疫病も流行する。私の姿を描いた絵を人々に早々に見せよ。」

と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行った』とのことです。

しかしながら、私が調べたところ1846年~1852年の6ケ年の間に日本国内で起きた疫病は探し出せませんでしたが、世界では飢饉が起こっていました。

1845年–1849年 - アイルランドでジャガイモ飢饉。100万人以上が死亡、150~200万人が移住。

1846年 - ポルトガル北部で農民反乱につながる飢饉。“Maria da Fonte”の名で知られる。

1850年–1873年 - 太平天国の乱の結果、干ばつと飢饉が起こり清王朝の人口は6000万人に減少。

1858年-1862年 - 日本でコレラが大流行となった。

1862年 – 麻疹流行で江戸だけで24万人以上の死者が出たという。江戸の幕末の人口は100万人程度といわれている。(出典:「かわら版で読み解く江戸の大事件(森田健司著:彩図社)」)

京都大学附属図書館江戸時代の瓦版


アマビコ 山童 ヤマハラハ

そして、先日4月26日放送されていたNHKEテレ日曜美術館「疫病をこえて 人は何を描いて来たか」にアマビエが紹介されました。

その放送の中で、『「アマビヱ」の「ヱ」が「コ」と書き違えたのではないか?』と話がありました。

「アマビコ(あま彦、尼彦、海彦、天彦、天日子)」と「尼彦入道、天彦入道」も海中からの出現、豊作や疫病の予言、

その姿を写した絵による除災、3本以上の鰭ないし足による直立という外見などが共通している妖怪です。

また、「あま彦」は木版画も刷られてあり、その絵には「猿に似たる三本足の怪獣」であったと1892年(明治15年)7月10日付の郵便報知新聞が報道しています。

そして、肥後国天草郡には、山中に「山童(やまはらは、※現代仮名遣い:やまわらわ)」という妖怪が現れたという伝承があります。

出現場所が海でないという違いはあるものの、3本足の外観や予言をするなど共通した特徴があり、

アマビエとの関連性を指摘される研究者もいらっしゃいます。「3本足」とは、なかなか興味深い点です。

時代錯誤と思われる方もおられるでしょうが、収束できるなら何でもやりたい気持ちで紹介しました。

それから、災厄を防ぐ神秘的な力があるとされる印標に聖句や宝印がありますが、

熊野信仰で欠かせないのが「熊野牛王神符(牛王宝印)」です。「オカラスさん」とも呼ばれています。

熊野牛王神符は、カラス文字で書かれた熊野三山(本宮・新宮・那智各大社)特有の御神符です。カラス文字の数は、各大社によって異なります。

そして、木版で手刷されたものを熊野宝印と認められています。

「カマドの上(現今はガスの元栓)にまつれば火難をまぬがれる」、

「門口にまつれば盗難を防ぎ」、

「懐中して飛行機、船にのれば、船酔い災難をまぬがれる」、

「病人の床にしけば、病気平癒となる」

といわれ、熊野牛王神符は、熊野信仰の人々をあらゆる災厄からお守り下さる御神符です。

また、鎌倉時代になるとご神符は「誓約書」ともなり、江戸時代には「起誓文」の代わりとしても用いられました。

これは古くから「熊野権現への誓約を破ると、熊野大神の使いである烏が一羽亡くなり、本人も血を吐き地獄に堕ちる」と信じられてきたことが背景にあります。

起請文としての牛王符を「熊野誓紙」とよばれていました。

栄養と睡眠を十分とって体調管理をし、三密と咳エチケットを守り、収束を祈りましょう!

    

🌸クマノザクラ

国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所和歌山県林業試験場(https://www.ffpri.affrc.go.jp/ffpri.html)から

クマノザクラを紹介します。開花は早いですね。来年は早めに花見に行きましょう。

    



第257回定例会 令和2年4月19日中止の会コース:紀伊田辺駅~稲葉根王子跡 約12km

このコースは、JR紀伊田辺駅から稲葉根王子跡へ向かう約12kmの行程です。

先ずJR紀伊田辺駅の線路沿いに北へ歩き線路を渡り、「高山寺」へは行かず(左折せず)、真っ直ぐ進み、

会津川の土手にある「万呂マロ道分け石」に向かいます。そして、国道42号線を渡った所にある「須佐スサ神社」へ。

神社左手坂を下り車道に戻り、左会津川の堤防を歩きすすむと途中の梅畑の中に「万呂マロ王子跡の碑」があります。

しばらく歩くと看板が出てきますが、道を北側へ上った所に白鳳時代(8世紀頃)の創建といわれる「三栖廃寺塔跡ミスハイジトウアト」があります。

農道は下三栖の在所まで続き、県道に合流してから南側(右手)の山手に入っていきます。山を登っていくと「三栖ミス王子跡」へ。

藤原定家の御幸記には「ミス山王子」と記されていますが、すぐ側を流れる谷川に王子社が映って見えることから江戸時代には主に「影見王子」と呼ばれていたそうです。

その山から下りて車道にでて、また山を登っておりてと繰り返してから“新岡坂トンネル”の山道を越えて「八上王子跡」に到着します。

しかし、前回歩いたH29年1月15日の第216回定例会は山越えが出来ず迂回路の約1.8kmを歩きました。

王子跡から車道に沿って歩くと「大賀ハズ」の池が見え、隣にある杜が田中神社です。大正4年(1915)に八上神社に合祀されましたが、

南方熊楠の「合祀されても神林だけは残しておけ」との助言に従い、神社林を残していたため、後に復社を果たすことができたそうです。

熊楠命名の「オカフジ」も有名です。また、手水鉢が木に飲み込まれています。

そこから向かう「稲葉根王子」にはルートが3つあります。旧 311号線ルート、稲葉根トンネルルート、王子谷越えルートです。

王子谷越えルートは、「和歌山県街道マップ(和歌山県観光連盟)」の『紀伊田辺駅~稲葉根王子』の解説では、

「道が荒れている所で十分注意する」と注意書きがありますので、個人で歩く時は十分注意して歩いて下さい。

山を越えると五躰王子の一つ「稲葉根王子」があります。王子跡の前にある富田川は「水垢離場所」とされました。

さて、このコースの見所の一つは八上王子と西行法師(1118~1190)のお話ではないでしょうか。

ご存知の方もおありでしょうが、少し紹介させていただきます。

西行の生涯を描いた『西行物語絵巻』には、「熊野へまいりけるに、八上の王子の花面白かりければ、社に書きつけける」と、西行が八上王子の社殿の瑞垣に歌を書き付ける場面が描かれています。

この地で詠み瑞垣に書き付けた歌は、『山家集 上 春 98』にある「待ち来つる八上の桜咲きにけり あらくおろすな みすの山風(八上王子の辺りの桜の花に出会えるのを期待して来たが、ちょうど咲いていてくれていた。三栖山の風よ、強く吹いて花を散らさないでおくれ)」です。

西行は、俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、紀伊国田仲荘(旧那賀郡打田町竹房)の在地領主の子として生まれました。

北面の武士として鳥羽上皇に仕え、弓馬の技ばかりか和歌にも蹴鞠にも秀でていました。

しかし、保延6年(1140年)23歳のとき出家し西行と名乗りましたが、円位と署名した書状も残っています。

出家後は心の赴くまま諸所に草庵を営み、32歳で高野山に入山後30年ほど高野山を拠点としながら、中国、四国、九州、伊勢、熊野、奥州など諸国を巡る漂泊の旅をしています。

また、高野山に課せられた日前宮造営の木材調達の免除を平清盛に申しいれた書状(「宝簡集」)があり、

鎌倉では源頼朝に面会した際に和歌や流鏑馬などの話をしたと『吾妻鏡』に残され、大仏再建の勧進に奥州平泉へ赴くなど、

必ずしも高野山での厳しい修行に明け暮れたわけではなく、天台(出家した寺:勝持寺といわれる)、真言、修験道、賀茂、伊勢、熊野など雑多な宗教を遍歴していたようです。

そして、歌人としては当時の超一流歌人の藤原俊成・定家をうならせるほどだったといわれていますが、

宮廷・貴族の歌合(平安時代に始まり、宮中にて歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊びのこと)には加わったことがないようで、

2300首あるといわれる歌は、諸国を巡る漂泊の旅の中で詠まれています。嵯峨では待賢門院ゆかりの女院に歌をおくり、

天王寺参詣の折には江口へ宿を借りに行って遊女と歌を交わし、讃岐や筑紫の漁師の生業に興味を持っては歌を残し、那智の滝に参篭し花山法王を偲び歌を詠んでいます。

その他、『山家集』で15首、『新古今和歌集』で1首、熊野参詣時に詠んだ歌があります。

また、窪田 章一郎氏(歌人・国文学者としては西行研究の第一人者といわれる)の「西行研究」によると、

西行の詠んだ歌の中で「桜」の歌が230首にのぼるそうです。この歌の中で注目すべきは、詠んだのが晩年とも亡くなる10数年ほど前ともいわれる

「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」の歌です。「できれば桜の花の下で春に死にたい。

釈迦が入滅した陰暦の2月15日の満月の頃に」という意味ですが、1日違いであれ西行は願い通り1190年2月16日73歳で河内国の弘川寺で亡くなりました。

次の桜の季節には、西行を思って各地の桜の名所を散策したいですね🌸



第255回定例会 令和2年2月16日切目駅~南部駅 約12km

2月13日に我県で新型コロナウィルス感染症の感染者が判明し、天候も雨で不安なまま電車に乗りました。車内は乗客が少ない感じを受けながらJR切目駅に到着。4名の方が先に到着されていて感激。5名で出発しました。

線路のガード下をくぐったらすぐに光明寺の門前に着きます。印南町指定文化財の蘇鉄は根回り約3.6m、地上1mで幹周約3.3m、町内の数ある蘇鉄の中では最大ですが、冬なので何となくさっぱりした佇まいをしていました。

そこから細目の道を進むと急な坂道になってきます。その坂の途中に若宮社遺跡があります。 年代は定かではありませんが、これから向かう切目中山王子が現在地へ遷宮する前からここに祀られていたそうです。

道はどんどん急勾配になっていき、いったん広い車道にでて前の山にある坂道へ向かいます。ここは切り通しになっていているので昔は山の中に古道が通っていたと思われます。

そして切目中山王子前の宝篋印塔に立ち寄りました。砂岩で作られた大(180cm)と小(130cm)は、紀年銘はありませんが様式から考えて室町初期の造立と考えられます。

またこの宝篋印塔は、この付近に合った榎城の城主の墓と伝えられています。

そして、榎峠を越えて降りてきた海の見える場所に徳本上人の六字名号碑が有ります。

そこから左へ曲がって農道を進みます。沢山のビニールハウスには印南町特産のスターチスが植えられていました。花の色が沢山あり驚きました。

それから国道から少し山側入ると、犬養孝先生(1907年‐1998年)が揮毫した「万葉歌碑」があります。

犬養先生は、万葉集に登場する万葉故地をすべて訪れ、万葉集研究に生涯をささげ「万葉風土学」を確立された方です。

1951年(昭和26年)に始まった「大阪大学万葉旅行」は45年間の参加者が延べ4万人をこえたり、テレビ・ラジオ番組や公演などで多数の人に万葉集をひろめられました。

犬養先生揮毫の万葉歌碑は、昭和41年11月12日に犬養先生の還暦記念にと、阪大の教え子らが甘樫丘に建てたのが始まりです。

しかし、これは単なる記念碑ではなく、甘樫丘にホテル建設計画が持ち上がり、この開発の防波堤として立てられたのが本来の目的でありましたる。

その後ホテル建設の話は中止となり、犬養孝揮毫の万葉歌碑が万葉故地を乱開発の手から守る防波堤となったことが証明されました。

そして、全国の万葉故地に歌碑が建立され、犬養先生が亡くなられた後も増え続け、現在141基となっています。和歌山県内には19カ所あります。

万葉集が作られた時代は、松の枝を結んで幸運を祈るという風習があったそうです。このことから、

中皇女(なかつすめらみこと斉明天皇説あり)が「君が代も わが代も知るや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな」

有間皇子が「岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸あらば また帰り見む」と詠んだのです。

それから国道へ戻って「有間皇子結びの松の記念碑」に立ち寄り岩代王子跡へ向かいました。

それまでは、あまり雨風が強くなかったのですが、やはり海辺にある岩代王子跡では風雨が強くなってきました。岩代駅へ到着。

雨が本降りになっては困るので、早かったですが風雨を凌げる駅舎内で昼食をとりました。

そして、午後は千里王子~南部駅まで約7kmを歩きました。もう散り始めた梅の花を見ながら道を進み、T字路で新しい道標を頼りに民家に間を真っ直ぐ進みました。

道はどんどん急な坂道になって登っていきます。「あれ?こんな坂道、通ったかな?」と不安がっていたところ、登り始めの民家で会員さんが道を尋ねていただくと「熊野古道で間違いない」とのこと。

やっとのことで辿り着いた頂上は車道と交差していました。今迄その車道を登り歩いて来たのでした。「きっと歩く人が危ないからでは?」と納得しました。

それから、別荘の間を直進しガード下をくぐって砂浜に出ました。少しの間ですが砂浜を歩きます。紀伊路で砂浜を歩くのはここだけですが、強い横風が吹くなか湿った砂に足が沈み込み思うように進みません。

やっとのことで千里王子跡へ到着しました。そして、千里観音へ行くと境内の社務所が建て替えられトイレも新しくなっていました。

前回歩いた第225回は平成29年8月で、雑草が生い茂り、小川沿いの道を歩けず、迂回路となる車道(戻って千里観音本堂脇の階段を上った駐車場から進む道)を歩いたのですが、今回は雑草が綺麗に刈取られ迂回せず歩けました。

雨降る中、南部峠にある石造地蔵菩薩像へ到着。ここは古代から明治初期に至るまで多くの人が往来し、「中右記」(1109)にも登場する場所です。

こちらの地蔵菩薩像はみなべ町指定文化財で室町時代の造像と推定され骨折に霊験あらたかで「骨つぎ地蔵」と称されています。

そこから進んで国道のガード下をくぐって行くと「紀州梅干館」が有ります。夏場はこの館内で休ませてもらい熱中症を避けることが出来ました。

南部川を渡り、新しい道標に沿って行くと丹河地蔵の銀杏の手前にある交差点に辿り着きました。けれども何か雰囲気が違うのです。

それは、銀杏の葉がすっかり落ちていて枯木のようになっていたからでした。そして、三鍋王子跡へ到着。やっと雨は止んできました。

今回は、朝早く出発し雨のなか12km歩きましたが、参加者の皆さんのご協力のお蔭で、午後2時過ぎには切目駅に到着できました。

ありがとうございました。お疲れさまでした。



第254回定例会 令和2年1月19日西御坊駅~切目駅 約15km

令和2年初めての定例会は、案外暖かい一日でありました。

先ず距離がわずか2.7kmしかない日本一短いローカル線として有名な紀州鉄道に乗車。

なんと電車の中では「8分間のノスタルジー体験」として駄菓子が売られてました(駄菓子列車の運行は1/11~1/26)

西御坊駅では、日高町在住の会員さんが本日歩くエリアの観光パンフレットを持参して頂きました。ありがとうございました。

そこから日高川を渡って塩屋王子跡へ到着。塩屋の歴史は古く、天田古墳群、中村遺跡、東大人遺跡、尾ノ崎遺跡など旧石器時代から中世にかけての遺跡があります。

また、古くから製塩が行われていたようで多くの製塩土器が出土しており、平城京跡から出土した木簡に、日高地方から潮を送ったという記録も発見されています。

海岸沿いにある「日高港新エネルギーパーク」、「Sioトープ(日高港塩屋緑地)」、「爪書大師堂」、「尾ノ崎遺跡」へは立寄らず、次に訪れたのは光専寺。

樹齢は600年以上と推定されるビャクシンを見学。県下でも最大級のもので、幹周り約7m、樹高約15mにおよぶそうです。

そこから進んで八十八体の石仏と祓井戸観音(西向寺跡)と徳本名号碑には寄らず、古道から国道へ進み道を渡って十三塚へ。

そしてまた古道へ戻って清姫の草履塚へ。中辺路町真砂の清姫の里からどうやってここを通ったのか不思議ですが、安珍が松に袈裟をかけて逃げたという一説も残されております。

「袈裟掛けの松」は、現在松はありません。

そして「万葉歌碑(中皇命の歌碑)」へ立ち寄るのを忘れてしまいました。すみません。

海が見渡せる絶景の地に「吾が欲りし 野島は見せつ 底深き阿古根の浦の 玉ぞひろはぬ」

(わたしが見たいと思っていた野島は見せてくれましたが、底の深いアゴネの浦の珠はまだ拾っていません)という万葉歌碑です。

作者の中皇命(ナカツスメラギノミコト)は斉明天皇説があります。斉明天皇は先月訪れた岩内古墳群1号墳の葬られていると言われる有間皇子と深い関係が有る方です。

そこから古道を進んで、「広畑一号墳」のある丸い山を古道から見ました。

6世紀後半の築造と推定され、紀南地方に残存する古墳の中では代表的な古墳と考えられますが、被葬者は確定されず当時の有力者(土豪)でなかったかと考えられます。

そこから歩き進み、古道から国道42号線へ向かい道を渡った所に仏井戸があります。この井戸は上野王子旧社地といわれ、

『中右記』(天仁2年(1109)10月19日)には「・・於上野坂上祓次昼養ス・・」とあります。王子社の名は書かれていませんが、お祓いをして昼食をしています。

今日のコースはずっとアスファルトの車道が続き、朝早くから歩いて、ちょうど半分の距離を歩いたところでしたので11時でしたが仏井戸でお昼休憩にしました。

後半は、古道へ戻って現在の上野王子跡へ向かいました。平成11年開催された「南紀熊野体験博」の際、設置された緑泥片岩に説明板が付いた道標がなく、通り過ぎてしまうほど地味な道標しかありません。

暫くアスファルト道を進むと「清姫の腰掛け石」が有ります。この石には「くぼみ」が残されてあり、清姫のお尻の形であると伝えられていますが、今回は水が溜まっていて座ることが出来ませんでした。

またアスファルト道を歩いて、やっとのことで「津井王子跡」に到着しました。

近世には叶(かのう)王子と呼ばれ、印南港を北から一望する丘の上に叶王子社の碑が建っています。

前回までは夏に来ていたので蚊が沢山いて早々と立ち去りましたが、今回は蚊がなく助かりました。

既に長距離を歩いてきたので、ここから印南駅へ行き終了し、切目駅までの3kmを次月へ伸ばすコースを提案しましたが、

もしも来月悪天候だったら困るので、暖かく未だ時間が早い今日の間に切目駅まで歩くことにしました。

また、今までは東光寺を経由する漁村の中の道で迷っていたのですが、今回は田辺市の会員さんに教えていただき、印南港をまっすぐ進んで斑鳩王子跡まで歩いたので、迷子にならず早く到着できました。

そしてガードレールに沿って進むと直ぐ切目王子跡に到着しました。新しくトイレが出来ていて景色がすっかり変わっていました。

今回は、朝早く出発し15km歩きましたが、参加者の皆さんのご協力のお蔭で午後2時過ぎには切目駅に到着できました。ありがとうございました。お疲れさまでした。


◆宮城県石巻市鮎川地区の「熊野神社」

2011年3月11日の東日本大震災以来、和歌山県BBS連盟と有志達が毎年末に宮城県石巻市に和歌山県有田地方のみかんを届け、

被災地の子どもたち・地域の方々と交流する「みかん狩り運動会」に昨年末も行ってきました。

そして、今回は交流先を増やし、捕鯨の町鮎川地区にある大原センターでも開催しました。

出発時ナビで会場を探していたところ、会場から徒歩2分の所に「熊野神社」がありました。

それで行ってみると山の中腹に「三熊野神社」があったのです。「三熊野」とは、『熊野三社の異称』や『熊野三山に同じ』といわれます。

熊野三山協議会の平成27年6月〜30年6月まで実施された全国熊野神社分布調査で熊野神社が全国に4776社、

宮城県には186社あると調査されていましたが、「三熊野神社」はその中に入っているんでしょうか?



第253回定例会 令和元年12月17日御坊駅~熊野神社~岩内王子跡~御坊市内散策 約12km

令和元年最後の定例会は、どんよりとした曇り空で始まりました。

今回の参加者は18名。初参加の方がお二人居られました。上富田町の方と大阪北部の方です。大阪の方は、和歌山県立図書館に置いてあった資料を見て参加されました。

今回は串本町の会員さんも参加されていたので、紀伊半島を縦断する広域の方々と歩くことが出来ました。

JR御坊駅から出発して熊野古道へ向かい、先ず小松原館跡・湯川神社へ到着しました。湯川神社は、子安さんと呼ばれる安産守護の神社。

そして境内には樹齢1000年ともいわれる御坊市指定天然記念物の樟の木がたっています。

ところが、本殿には沢山の方が正座されておられたのでお詣りだけして社を離れました。

次は、11月15日に、国の登録有形文化財(建造物)に登録するよう文科相に答申された「橋本太次兵衛家住宅の3件(明治~大正に建築された新座敷、旧米穀集荷事務所、土塀)」に向かいました。

湯川郵便局の隣にある建物で迷子にならず、直ぐに見つけることが出来ました。

すると橋本家住宅の前に和歌山県内で二基しか確認されていない「石敢當(いしがんどう)」が有りびっくりしました。

そして、九品寺に到着すると、突然、日高町在住の会員さん現れました。御坊市の観光パンフレットを数種類持ってきてくださったのでした。

それから、車道を暫く歩き進み、日高川を渡りましたが、風が強くて頬が痛くなりました。前回までは川に沿って歩いて岩内古墳群へ向かったのですが、今回は寄道をして「熊野イヤ神社」へ向かいました。

「ゆや」と言う言葉が「いや」に変化したと田辺市在住の会員さんに教わりました。

そして、田辺市の芳養王子跡から暫く進んだ所にある「牛ノ鼻」にある石碑には「室町時代永禄年間(1560年頃)まで、熊野神社から渡御が続いた」と刻まれていますが、

その神社が何処にあるのかが解りませんでした。それが今回訪れた「熊野イヤ神社」なのです。海岸沿いを歩いたとして約30kmあり、凄い距離を渡御したことになります。

道中鉾につけた鼻高の面が海の方に向くと漁事に障があるということで漁民が大変恐れ、また馬が嘶くときは凶事のある兆しとして、

沿道の人々が恐みて炊煙を上げず、道を掃き潮を打って清め、ひたすら、無事に通過するのを祈ったということだそうです。

けれども境内には渡御の説明はなく、南龍院公の三男頼純公(後、松山藩藩主)と有徳院公(吉宗公)の疱瘡にまつわる話を刻んだ石碑

がありました。11時でしたが、集合時間が早かった事と良いお天気になり暖かくなってきたので昼食にしました。

午後は、神社から道に迷いながら岩内古墳群1号墳へ到着しました。埋葬されていた装飾品から、位の高い方の墓=有間皇子の墓ではないかとの説があります。

海南市の語り部さんのお話では、有間皇子の護衛が岩内出身の豪族で、藤白坂で殺された後、ここへ移されたそうです。

そして今回唯一訪れる岩内王子跡へ向かいました。すると王子跡がある公民館の周りには喪服の方が沢山いらっしゃいました。それで遠くから説明しました。

それから橋を渡り寺内町へ進みました。

寺内町とは、本願寺日高別院を中心に形成された町のことで、江戸時代に商業が発展し、大変賑わいのある地域であったと言われています。

現在は江戸時代から明治、大正、昭和へと時代の移り変わりが色濃く残る町並みが残っています。

東町へ入り、懐かしい看板や手動ポンプを見ながら日高別院へ。県下第2の大銀杏の説明板には「日高別院の公孫樹」と書かれていました。

そこから中町を通って新町へ行くはずが迷って小竹八幡神社へ。境内でお宮参りのご家族と遭遇しました。

第236回定例会 平成30年7月15 日(日)に訪問した平松王子跡と信太山駐屯地の間にある伯方神社と関係があります。

「日本書紀」の神功皇后の章では「阿豆那比の罪(アズナイノツミ=二人の神官を合葬する)」で昼を戻すために別々に葬られた

小竹祝(御坊市・小竹八幡神社の神官)・天野祝(丹生都比賣神社の神官)が、伯方神社では一緒に祀られてありました。

そして、神社から北へ少し行った所にベンガラ格子のお醤油屋さんがあり、その前には建設中の15mの避難タワーがありました。

ペンキを塗っていた職人さんが次から次へと質問する私達に手を止めて親切に説明してくださいました。

そして、紀州鉄道の西御坊駅へ到着。次の発車時刻まで1時間近くあり歩くことにしましたが、大阪から来られた方は「記念に」と乗っていくことになりました。

街歩きはついつい寄り道してしまって、予定の距離数をはるかに上回っていたようです。みなさま、お疲れさまでした。


第252回定例会 令和元年11月17日(日)紀伊内原駅~御坊駅 約7.5km

今回は、最近朝夕寒くなってきたのを忘れるくらいの小春日和になりました。

また、歩行予定距離が9.5kmだったので集合時間を遅く設定していたところ、特急電車の運行遅延で普通電車の到着時間も5分ほど遅れてしまいました。

今回のコースは熊野古道沿線に名所旧跡が多く道成寺もあり、説明する内容が沢山あるのですが、

出発前に10月30日に新たに登録された「歴史の道100選」と11月15日に登録された「御坊水軍城館と御坊市の登録有形文化財」の説明もしてしまい時間を取ってしまいました。

このため、予定時間から20分遅れて19名で出発しました。

JR紀伊内原駅をして少し北上して右へ曲がり線路を渡ると道は緩やかに上がってゆき、熊野古道に突き当たります。

そこから一里塚まで車道の坂道が続きます。和歌山県史跡の「弁財天山古墳」をすぎた辺りから道は下り、

「きみいでら」と刻まれたお地蔵様がある三差路に到着します。そこから古道をはずれ、「御坊市指定天然記念物・古田春三家の屋敷林」へ向かい、万福寺に到着しました。

その昔、弘法大師が讃岐で彫った仏像が大師の熊野参詣を追ってきて、帰れと言ってもきかないため爪先を切ってこの地に祀ったと言われています。

また、こちらの仏像は「足切り地蔵」と呼ばれ、足の病に霊験あらたかということで足の不自由な人の参拝が絶えないそうです。

転じて、通行安全、足切りの名から大学入試の守り地蔵として合格祈願に全国から参拝者が訪れるそうです。地蔵堂の周りには大小の草鞋が奉納されていました

まだ40分程しか歩いていなかったのですが、12時15分になっていたので境内をお借りしてお昼休憩をとりました。

そこから善童寺王子に向かいました。続いて、徳本上人名号碑と「左道成寺」と刻まれた石の小さな道標を見て「愛徳山王子へ。

久しぶりに歩いたので草刈りをされた歩きやすい道を選んでしまい、道に迷って王子跡の前にある竹藪を見つけられなくなってしまいました。

なんと愛徳山王子跡の碑の背後の木々が伐採されていて明るい広場に変わっています。間違ったと思った道とつながっていたのでした。

そして、同じ道を使わず民家の間の道を進み古道(車道)へ戻ったところ、「きみいでら」と刻まれた道標を発見しました。

次に訪れたのは、「北吉田 蓮の郷公園」です。前回訪れた時の満開の蓮の花の様子を説明しました。(前回の満開の様子)

それから、古道(車道)へ戻りますと目の前の山の上に「八幡神社」が祀られています。

この八幡神社は、神功皇后が帰国後行宮を営み、九海士と言われた地元の海人が行宮の聖地に八幡大神をお祀りしたといわれていますが、

九海士が縁の宮子姫により道成寺が建立されたことから、逆にこの神社は衰亡したといわれています。

また古道(車道)を離れ、道成寺へ向かいました。道成寺では、「秋の無料拝観」が行われていて本堂の内部まで拝観することができました。

国宝3点(本尊千手観音、脇侍日光、月光菩薩)は宝物殿に収められているのですが、本堂には、胎内仏を修復した千手観音像(奈良時代・重文)が祀られています。

一般的な千手観音像は十一面四十二臂ですが、こちらの国宝の本尊は、ヒノキ一木造りで珍しく四十四臂あります。

それから次の王子・九海士王子跡へ向かいましたが、到着した時は既に午後2時半になっていました。

このまま先へ進むとまだ2時間はかかり、日暮れになってしまいます。それで、ここで終了し御坊駅へ向かいました。

時間配分が上手く調整できず、どんどん歩行時間が遅れてしまい、予定通り進めず申し訳ありませんでした。

来月は、今月歩けなかったコースを歩きたいと思います。

新たに登録有形文化財に登録された御坊市湯川小松原の「橋本太次兵衛家住宅」が湯川神社近くにあり、そこにも立ち寄ろうと思います。

日暮れも早く寒くなって参りますので、時間配分に気を付けて歩きたいと思います。どうか来月もよろしくお願いします。


第251回定例会 令和元年10月20日(日)湯浅駅~紀伊内原駅 約17km

今回の定例会は台風の合間の晴れた1日になりました。

10月にやってきた台風での県内の災害は多くありませんでしたが、いつ又やって来るか解りません。

一番遅い上陸は平成2年(1990)11月30日に和歌山県白浜町付近に上陸した台風28号といわれますが、

昭和25年以前の古い資料には、明治27年(1894)12月10日に九州南部に台風が上陸したことになっています。

それで、今回歩く町のハザードマップを調べてみますと、熊野古道は災害の無い場所を通っている事が解りました。

人工衛星もコンピューターもない時代に、「経験」だけで災害の無い所に道を作ったのでしょうか。

そして、久しぶりに来られた会員さんに見送られて出発しました。

このコースには九十九王子が湯浅町に1社、広川町には3社、日高町には5社あり名勝旧跡も沢山あります。

まず最初に駅の前の道を左へ進み高架を通った左手に満願寺へ立ち寄りました。

ここは、後白河法皇の勅願を受け建立されましたが、1585年に豊臣秀吉の紀州征伐により焼失の危機に遭いました。

その時、応其上人が交渉し、本堂を山城国の醍醐寺に移築(金堂として国宝指定・世界遺産)本尊は高野山、

二王は那智山にそれぞれ移され、境内は耕田、僧房は解体されて野に伏し奥の院は分離させられ勝楽寺とする憂き目に遭った寺です。

勝楽寺の中を通って「紀伊國屋文左衛門の碑」を見てから国道42号線を渡って久米崎王子に到着。広川に沿って歩くと新しく建った津波避難タワーが現れました

みかん畑の中を歩き進み、また国道に出ますと広川のインターチェンジ入口が見えてきました。

インターチェンジの中にある津兼(井関)王子社跡の説明をし、立寄らずに井関の在所に入っていきました。

賑やかな丹賀蔵王大権現の前を通っていくと旅籠跡の看板が出てきます。

また広川を渡ると道の端に「徳本上人名号石」があります。この碑は、天保年間の飢饉餓死者の供養塔をかねた珍しい道標です。

その右手奥に河瀬王子社跡があります。そして汗かき地蔵(平安末~鎌倉初期と推定される木造の地蔵菩薩を祀る)に、

挫折せず歩けるようにとお願いしました。また、そこにはトイレがあり、朝早かったので“もぐもぐタイム”を取る方もいらっしゃいました。

そして馬留王子社跡過ぎて南にしばらく行くと山道となり、熊野参詣道の難所「鹿ケ瀬峠」へ向かう坂道になり、

猪除けの柵を開けて進んでいきます。二つ目の柵からは坂がどんどん急峻になっていきます。

けれども、時折吹く風が頬に涼しく、坂道を歩く重い体を後押してくれるようでした。

坂道の途中で前を歩く方が「アケビ゙」を見つけられ、熟れた実を皆で分け合って食べました。

小豆のように甘い味がしましたが、初めて食べたので黒い種の出し方が解らず、教えてもらいながら食べました。

狸か猿が横切るのを見ましたが、鹿ヶ瀬峠に到着した時には何もいませんでした。

石畳が変わったところから日高町です。

「痔の神地蔵(縛られ地蔵)」に到着、「法華の壇」に立ち寄りました。

最近は歩く方が少なくなったのか、倒木が多く、石畳の上には枯葉や石が覆いかぶさり荒れていました。

やっとのことで12時半に金魚茶屋の手前にあるトイレに到着。昼休憩をしました。

すると地元の会員さんが来てくださって地元の祭りがある事を教えて下さいました。

午後は、王子跡や黒竹の林の合間に名所旧跡は多いのですが単調な車道を歩きました。

内ノ畑王子跡を過ぎた頃から目の前に背の高い幟が見えました。秋祭です。

大人と子どもが一緒に担いでいる神輿や子どもだけが担ぐ神輿など4基確認できましたが、

どんどん人が集まって来て、まだまだ神輿が集まってきそうでした。

とうとう道に人が溢れて私たちは前に進むことができなくなりました。

法被を着た方に迂回路を教えていただき、高家王子跡へ参拝後写真を撮り、駅へ向かいました。

お天気も崩れず、予定通り6時間で無事歩けました。

17km歩き疲れましたが、参加者の皆さん、お疲れさまでした。


第250回定例会 令和元年9月15日(日)南部駅~灰坂峠~紀伊田辺駅

「暑い季節に長距離は危険」と総会で話し合い、今迄は12月に歩いていた南部駅-紀伊田辺駅コースを歩くことにしましたが、2コースがあります。

1つは和歌山県も推奨している南部駅から42線に沿って大神社(芳養王子跡)まで歩くポピュラーな道です。もう一つは、内陸部にある「灰坂峠」を歩く道ですが、

前述の道より3kmほど長くなってしまいます。参加された方の希望で決めようと考えていたところ、半数以上の方が未経験だった「灰坂峠」を歩くことにしました。

前回は第136回10年前に歩いたので芳養王子跡まで数か所で道に迷ってしまいました。また、このコースの地図は出回っていないので、Google mapで検索し加工した地図を掲載しました。次回歩くときの参考にしてください。

南部駅の北側の踏切をわたり、みなべ自動車学校を右手にして県道200号線を進みます。道祖神が祀られてある猪野山観音には登らず、和歌山県最古の板碑と考えられる文永10年(1273)の坂碑や室町時代の宝筺印塔などがある安養寺には立寄らず、道の左側に法伝寺をみながら県道35号線(上富田南部線)と合流する「東吉田」の交差点へ向かいます。交差点では右に曲がります。そこから、だんだんと緩やかに道は標高100m程の灰坂峠を目指し上がっていきます。頂上の手前で瓦屋根の白い壁が見えてきます。その塀の中には「灰坂地蔵」がお祀りされています。頂上を越して暫く歩きますと道は下坂になります。展望が開けた先に赤い屋根の工場が見えます。するとガードレールが途中で途切れ、急勾配の階段が作られていて斜面を降りられるようになっています。車道を歩くより近道です。その道は、県道199号線に並行して山側にある道(農道?旧道?)につながっていました。中芳養の在所です。平安時代以降、この一帯(芳養谷)は京都の石清水八幡宮の荘園でありました。そこに石清水八幡宮から勧請され芳養八幡宮(神社)が中芳養、上芳養の旧8ヶ村の氏神として祀られました。今回も神社には寄りませんでした。両脇に梅の木が植わっていて南高梅独特の香りに導かれ道を進みますとビニールハウスがあり、大粒の梅が干しあるのが見えました。それから暫く歩いて、左手に柿の木を植えている家で道が分かれています。真っ直ぐ上へ行く道を行かず、柿の木に沿って左手の道を選んでください。それから道は細くなりますが歩き進んでいきますと小さな池が現れます。そのまま歩くと県道199号線に出ます。道には「学校橋」という橋が架けられていて、渡った所には田辺市立中芳養中学校があります。199号線の車道の脇を歩き進んで国道42号線の高架もくぐっていきますと梅畑が両脇に増えてきます。芳養川を渡って「芳養ランプ」を通り過ぎるとJRきのくに線の高架をくぐったら目の前に緑の大木が見えてきます。大神社=芳養王子跡です。

南部駅から2時間かかって辿り着きました。王子跡で高速道路の交通渋滞に巻き込まれた会員さんと合流出来ました。

すると神社の傍の家から関係者の方が出てきて下さってトイレを使わせて頂きました。

それから善徳寺の柏槇ビャクシンの木を覗き見して、芳養の一里塚跡と牛の鼻聖徳地蔵に立ち寄り、田辺市立武道館の脇の木陰で昼食休憩をしました。

午後からは潮垢離記念碑と出立王子と廻って「田辺の町に過ぎたるものは江川の三ヶ寺」と言われる龍泉寺、西方寺、浄恩寺を拝観しました。

江戸時代の道標と蟻通神社、味光路通り(通称親不幸通り)を田辺市の会員さんに案内していただき、JR紀伊田辺駅へ到着しました。新しくなった駅舎は明るく広くて待合室でのんびり電車を待つことが出来ました。暑い中お疲れさまでした。


第249回定例会 令和元年8月11日(日)高野七口女人道 中の橋駐車場~不動坂口女人堂 約7km

『8月11日が「山の日」の祝日になったことを記念し、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」との趣旨から、「信仰の山」であるユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を歩きながら、平和のことを一緒に考えてみませんか」と和歌山ユネスコ協会呼びかけ始まった「ピースウォーク」は今年で4年目となりましたが、生憎の台風10号接近のため「ピースウォーク」は中止になりました。ところが、前日から台風はゆっくり北上していたため雨は降らず、弊会の定例会は開催しました。

中の橋駐車場の高野・龍神スカイライン道路側にあるトイレの建物の前に25番の立札があります。この立札は、不動坂口女人堂の前にある「お竹地蔵」と女人堂バス停の間に1番があり、そこから高野七口女人堂跡・高野三山めぐり約16㎞をぐるっと歩いて到着した不動坂口女人堂に57番があります。約20~30メートル置きに設置されています。

今回は、25番から1番へ向かって高野七口女人堂跡歩くことにしました。

25番立札から建物の脇の細い道を進むと広場になり24番の立札が現れます。その先は、細い急な坂道となり、体がまだ「歩くモード」になっていないので息をきらしながら「大峰口」と「東口」の立札を通って「大峰口女人堂跡」に到着しました。そこからお地蔵様を通り過ぎて22番の立札で車道に出ます。その辺りから「円通律寺修行道場につき山門から中に入れません」と書かれた看板が増えてきますが、本当は山門ではなく、参道の入口に背の高いお地蔵様がおられ、その脇の白い立札の少し先にある石碑からなのです。その石碑には『不許葷酒入山門』と刻まれてあり、それが境目で結界となり、そこからが入ってはならない場所になります。

女人道へ戻り21番立札から進むと「大滝口女人堂跡」に到着しました。それから暫く坂道を登り、やっと轆轤峠(ろくろとうげ)に。ちょうど正午になり、峠の上は日差しが強く降り注いでいました。「わぁ、2℃上がった」と叫び声。参加者の方が持っていた熱中症時計が、30℃になっていました。

慌てて峠を下り、木陰に入ると涼しい風が吹いてきました。鉄塔跡を過ぎると「相ノ浦口女人堂跡」に到着。そして、暫く続く下り坂の途中に根本大塔の屋根が見えてきました。橋を渡って車道を左へ行き14番立札へ向かうと土道になります。12番立札でまた車道へ出ます。そして11番立札で左の細目の道へ入りますが、そのまま真っ直ぐ車道を歩いて行ってしまうと高野山町内へ入ってしまいます。 そこから「お助け地蔵」までは少し坂道を上りますが、「お助け地蔵」から大門へ向かう道の6番立札の反対側に「龍神口女人堂跡」があります。やっとのことで車道を渡り大門へ到着しました。

既に12時50分になっていて昼食にしました。30分ほど休憩し、弁天岳へ向かいました。奉納された鳥居をくぐり坂道を進んでいくと「大門口女人堂跡」看板が現れます。それからしばらく坂道を登って行って弁天岳の頂上へ辿り着きました。頂上から不動坂口女人堂へ行く道は、昨年の台風の被害でなぎ倒された大木が多く残ってあり、大木をまたいだり、くぐったり、迂回しながら歩きました。暑さで疲れていましたが1時間で「不動坂口女人堂」へ到着しました。

女人堂で、「不動坂口女人堂」の記念スタンプを使って缶バッチを作りました。暑い中、皆様お疲れさまでした。



第248回定例会 令和元年7月21日(日)第43回世界遺産委員会登録物件「百舌鳥・古市古墳群」の「古市古墳群」散策

今回のコースは、令和元年7月6日に日本の世界遺産では23番目(文化遺産では19番目)に登録されたばかりの「百舌鳥・古市古墳群」の「古市古墳群」を選びました。

「百舌鳥・古市古墳群」の評価とは、「4世紀後半~5世紀後半にかけ広域の豪族による連合政権が初期国家を形成してゆく過程を示している」、「四種の墳形と規模に差異がある古墳群からは被葬者の身分差が読み取れる」、「古墳時代は中国の律令制を採り入れる前の日本固有の文化である」、「古墳の形状は後の時代の皇族の墓形に受け継がれており埋葬の伝統を証明している」、「土製建造物の極めて優れた技術があったことを示している」とされ、懸念されていた古墳の名称と被葬者不特定に関し、推薦書では「仁徳天皇陵として祀られている古墳(大山古墳)」などとしたが特に指摘されることはなく、「古墳群の真実性の程度には多様性がある」との見解も示され登録されました。

しかしながら、両古墳群には大小さまざまな形の古墳が含まれていますが、今回の登録物件は「4世紀後半~5世紀後半」以外の古墳は含まれず、百舌鳥エリア(堺市)は44基のうち23基、古市エリア(羽曳野市、藤井寺市)は45基のうち26基だけの登録となってしまいました。

「元々の名称は『古市・百舌鳥古墳群』ではなかったのか?」との疑問や百舌鳥古墳群と違って古市古墳群は歴史が深く登録物件になっていない古墳群の方が興味深いこともあり、地元の市民団体「史遊会」で活動する至田様と今村様にご案内していただくことになりました。史遊会とは、『南河内地域の歴史遺産を次世代に継承していくことが活動の原点』に郷土の歴史を学びながら、イベントの企画・ガイド活動等にたくさんの遊び心と少しのアカデミックさをもった市民活動団体で日々研究に勤しんでおられるとのことでした。ところが当日の朝、きのくに線の電車が小動物に接触し、予定していた電車が50分近く遅れてしまい、集合時間を11時に急遽変更させていただきました。

11時前に近鉄大阪線古市駅に到着した参加者17名は、至田さん今村さんと合流。

東口に出て白鳥神社の参道に隣接してある古市駅東広場の地図の前で「古墳は横から見るもの」、「陵と墓(ボ)の違い」や本日の行程の説明を受けた後、駅前に登録後オープンした「特産品」売り場へ向かいました。特産品のブドウやワインが所狭しと置かれ食指が伸びましたが「歩くのに重いから」と諦め、東高野街道と竹之内街道の合流点へ向かいました。そこから住宅街を進んで不動坂を上り安閑天皇陵古墳へ向かいました。出土する埴輪や須恵器(すえき)、正倉院と同種のペルシャ製ガラス椀の特徴などの年代観から古墳は6世紀前半頃に築かれたと考えられています。しかしながら今回の世界遺産登録の「4世紀後半~5世紀後半」という年代ではないので登録物件とはなりませんでした。そして、白鳥陵古墳~清寧天皇陵古墳と巡り、峯ケ塚古墳へ到着。ここは、平成3年(1991)の発掘調査で、後円部墳頂付近で新たに確認された石室からは盗掘を受けていたものの多くの副葬品(総数は3,500 点以上)が発見されましたが、その特徴から5世紀末頃に築かれたと考えられたため登録物件ではありません。そして隣接する峰塚公園で昼食と休憩を取りました。雨の心配はなくなっていましたが暑くて暑くて持参した水分はほぼなくなっていました。後半は自動販売機で水分補給しようと声をかけながら出発しました。そして、「石器人のアトリエ」と言われる翠鳥園遺跡公園へ立ち寄り、石器の作り方を見学しました。それから墓山古墳~誉田御廟山古墳(応神天皇陵)~大鳥塚古墳と進み、高速道路の下にある赤面山古墳を経て史跡古室山古墳へ上りました。あべのハルカスが真南に見えました。そこから仲津山古墳(仲津姫命陵)へ行き、記念撮影をしました。予定では三ツ塚古墳~道明寺~道明寺天満宮と巡って道明寺駅が終了地点だったのですが、一時間出発が遅れたのと暑さでまいってしまい、八幡神社~鍋塚古墳~土師ノ里駅へと変更していただきました。

至田様からは、古墳以外にも時代背景、古墳を作る「土師氏」について、戦国時代盗掘にした理由、登録の際の宮内庁と考古学者と世界遺産サイドのお話に至るまで幅広く深く解りやすくご説明いただきました。そして、今村様からは出土品の写真を見せていただいたり、最後列で遅れた参加者のサポートをしていただきました。今度は違うコースを寒くなって木が枯れて古墳の地面が見られる季節に歩きに行きたいと思いました。暑い時期の古墳巡りは、今後やらないようにします。暑い中、お疲れさまでした。


第247回定例会 令和元年6月16日(日)JR紀伊宮原駅~JR湯浅駅 約7km

令和元年6月16日、小野田さんが参加できないとのことで、高垣(監事)・大上(運営委員)コンビで、久しぶりに熊野古道を楽しむことになりました。思えば、平成9年(1997)11月30日にプロジェクトのメンバーで岩代駅に降り立ったあの感覚がよみがえってきました。(笑)

JR紀伊宮原駅から、熊野古道を歩くのですが、お互い突き出たおなかをけなしながら歩くことになったのです。橋の手前、左側に札場地蔵、宮原の渡し場に着きました。有田川が増水すると、「川止め」の札が掲げられ、渡し船の休航を示したとされ、この辺りにあったという「お茶の芝」というところが、上皇たちの熊野御幸の際の頓宮(かりみや)跡です。本当にそうなのか?いつも疑問に思っているのは、千年も前のことを、まるで見てきたかのように語る私は、つくづく嘘つきだなぁ♪と感じているのです。現代社会を生きる私たちは、橋梁を利用して、あっという間に有田川を渡りました。こんな簡単に有田川を渡れるはずもない、藤原定家も怒っているに違いないだろうと、熊野御幸記「山口王子に参ず。次昼養所入る」を思い出すのです。中将姫(ちゅうじょうひめ)のゆかりの寺、得生寺に着きました。ここでも、いけしゃあしゃあと、8世紀中頃、暗殺されそうになった中将姫。熱心に写経する姿に心打たれ、暗殺者は姫の小袖に血をつけて持ち帰ったなどと、これまたタイムトラベラーのような口調で語るのでした。さて、ひさしぶりに立ち寄った有田市立くまの古道歴史民俗資料館で、新しい展示物に驚きました。それは、あの白河院を乗せた伝説の輿が復元展示されていたからです。紀伊国名所図会には、白河院と平忠盛(平清盛の父)が糸我峠の途中で輿を止め、話をする二人が描かれているのです。源平盛衰記によると、忠盛は白河院から法皇の子を身ごもっていた祇園女御を妻に迎え、「女児なら我が子、男児なら汝の子とせよ」と法皇から言われていたが、男児が誕生したため、ここで時を得たりと考えた忠盛は男児誕生を法皇に申し上げたのです。その子が、あの平清盛だったというのです。そんな伝説の輿が、再現されてここ資料館に展示しているとは驚きでもありました。当然のように、私はそのくだりを見てきたかのように自慢げに語るのでした。(^^♪)。汗をかきかき糸我峠を越えました。夜泣き松があった場所は、今では語り部さんにも語られないのか看板すらなくなっていました。のちの時代に、平清盛一行がこの峠を越えた時、女御が赤ん坊を連れていたため、夜になると夜泣きをしてみなに迷惑をかけるので、何とか良い手立てがないかと土地の者に尋ねると、この松をくすべてその煙を吸わせたところ、見事夜泣きがなくなったという伝説の松なのです。ここには、白河院、そして平清盛と歴史のスーパースターがその足跡を残した場所なのです。峠を降り、熊野詣での行者さんが水行をしたという行者石。川がさかさまに流れた逆さま川。その川を越えるとき、みなが欄干に取りついていたから、巡礼橋。そうです。熊野古道には、常にその由来と名称が残っているのです。圧巻は後白河法皇が熊野参詣の際、いつも腰掛けられたと伝わる畳一畳ほどもある平らな大岩があったという腰掛岩の伝説地です。近年、開拓するため腰掛岩は粉々に砕かれ、今は破片らしき石が数個置かれているだけなのです。すぐのところに、弘法井戸があります。弘法大師が杖でつついてこしらえたという井戸です。方津戸峠を越えます。宝暦5年(1755)銘の石地蔵。妙法蓮華経・一字一石塔を見ながら、湯浅町に入ります。宝林寺東側に後鳥羽上皇が、熊野詣での際、歌会の前にここで月見を楽しんだ伝説の月見石を得意げに語りました。お昼前には、無事に立石の道標(町指定文化財)にたどり着きました。ここで、なにやら行列のできる店を発見しました。しらす丼が有名な店のようです。インスタか、ユーチューブで紹介されているのでしょうか。小さな店に何台もの車と行列ができていました。私たちは、JR湯浅駅に入り込んで、持ってきた弁当を食べました。乗降客には悪いとは思いましたが、なにせ暑いくらいでみな疲れ果てていたのです。ここで、本日の予定は終了となり、解散したのですが、希望者だけで稲むらの火の館に行きました。館にたどり着いたとき、小野田さんから電話が入り、「そこの醤油味のソフトクリームはおいしいですよ」と言われたので、それを紹介すると、みな醤油味のソフトクリームなるものを食べることになったのです。「小野田さんのおごりだと皆言ってますよ」と伝えると、焦ったように「ひ、ひとり一個で、お、お願いします」と言ってきました。小野田さんには冗談が通じない。(^^♪)汗汗。楽しい熊野古道歩きでした。(運営委員大上敬史氏より)


第246回定例会 令和元年5月19日(日)コース:JR海南駅~紀伊宮原駅 約15km

令和元年最初の定例会となった今回は、紀伊路の中では難所の一つと言われる「拝の峠」を越さなければなりません。それで集合した海南駅で「今日は、峠を二つ越えるので、しんどいですよ」と脅しながら出発しました。先ず有田出身の鎌倉時代前期の僧・明恵上人が開基されたという蓮花寺を訪れました。そこから菩提房王子跡、八十八カ所巡りがある祓度王子跡へ立ち寄り、改修中の鈴木屋敷跡と相撲場があった場所を見て藤白神社に到着しました。藤白王子権現本堂で祭神の本地仏3体をガラス越しに拝見し、有馬皇子の墓へ向かいました。

そこからは、丁石地蔵を数えながら藤白峠を登りました。藤白搭下王子跡でお昼休憩をしました。

午後は、みかんの花の匂いに包まれながら坂道を降り橘本王子へ到着。所坂王子跡、一壷(山路)王子跡までは平らな道だったのですが、ドンドン坂道は急になっていきます。やっとのことで拝の峠まで登り切りましたが、天気もよかったので暑さでヘトヘトになりました。そして、越えを下った所にある蕪坂(搭下)王子跡で疲れた顔で記念写真を撮りました。そこから道は急な坂道になっていきます。宮原神社の直ぐ近くにあると思っていた爪書地蔵は、暫く坂道を下った所にありました。伏原の墓を見て山口王子跡へ到着。休憩するためのベンチがあったのですが、電車に時間が迫ってきていたので駅へ向かいました。秋にこのコースを歩くと、古道沿いの無人販売で沢山みかんが売られています。早く買うと歩く時の負担になるので、いつもJR紀伊宮原駅前にある無人販売所で購入します。今回は花の香を堪能しましたが、みかんの味を楽しむ事は出来ませんでした。駅に着いた時の万歩計は、29889歩になっていました。皆様お疲れさまでした。


第245回定例会 平成31年4月21日(日)コース:伊太祁曽神社~JR海南駅 約10km

平成31年最初で最後の定例会は、いいお天気のなか、和歌山電鐵貴志川線伊太祈曽駅からJR海南駅まで歩きました。 駅から参道へ進み、伊太祁曽神社さんの前の古い県道を車が往来するなか歩きます。須佐神社の手前で初めて見る石碑を民家のお庭で見つけました。お声をかけると若いご夫婦に庭先にお出ましいただき、2年ほど前に引っ越されてきた時に庭に横たわっていた石碑を見つけ、道沿いに移動させたとお話を伺いましたが、彫られてある文字は解読できませんでした。そして、何人か地元の古老が通りすぎましたが、どなたも初めて見る石碑で文字は解りませんでした。それから、奈久地王子跡へ立ち寄り、武内神社へ到着。すると神社の南側で民家に接した面の石垣の所に小さなお地蔵様を見つけました。古道へ戻り高速道路沿いの道を進み、徳本上人名号碑の所まで行くと風景が違っています。前は小さな山が突き当りにあり、お地蔵様が祀られてありました。そこからその山の裾を回るように歩いていたのですが、山が削られ車道になり、お地蔵様は左手のフェンスの中にお祀りされていました。前回第204回定例会(H28年1月17日)で来た時は、この道を作っていた時だったのでした。周りの田んぼだった土地には、沢山の新築の家が立ち並んでいました。

そして、海南市へ入ると道幅が細くなっていきます。昔「小栗判官腰かけ岩」があった場所を通り、四つ石地蔵から、且来八幡神社へ向かいました。今回は時間があったので、弊会で初めて且来八幡神社を訪れました。長い階段をやっと上がると平成の大改修により檜皮葺屋根で色鮮やかな彩色な本殿がありました。主祭神は誉田別命(応神天皇)、配祀神は足仲津彦命、気長足姫命です。その昔、神功皇后が皇子(応神天皇)を抱き、遠征より凱旋されたとき、里人たちは仮殿を建てて皇后をお迎えし、当地への御永住を嘆願した。皇后は痛く感動され、「またあした(旦)来よう」と約束なされたという。これが「旦来」という地名の起こりであり、ときの仮殿跡が御社となったと伝わっていわれています。現在は「且来」と表記されています。中世にはすでに当旦来荘の鎮守であり、当時は広大な神領と40もの末社を擁し、代々の武将や領主の深い信仰を集めていたそうですが、正平8(1353)年、根来寺の暴徒が乱入し、剣、弓、矢、御筆の法華経等の宝物、細川・石堂ら諸大名からの土地寄進状、その他神主の私物に至るまで一切が奪われてしまい、鎮座年代については記録がなくなってしまったそうです。このため、社殿の建立年次を明示する史料がなく、様式・技法より見て桃山時代、16世紀終わりの建立と思われ、桃山期の様式を示す貴重な遺構で、和歌山県の指定文化財になっています。 そして、熊野古道へ戻り松阪王子へ。小野坂を上りながらくも池に到着。ここにある徳本上人名号碑は大きいものです。汐見峠で安政(1854~60)の頃大津波に大活躍した「呼び上げ地蔵」にお詣りした後に春日神社へ向かいました。

現在、松代王子跡は春日神社の参道の脇に移されています。そして、境内に入ってびっくりしました。本殿の南側にあった建物が無くなっているのです。広くなった境内で昼食をとった後、野上電鉄の廃線跡を利用して作られた遊歩道を歩いてJR海南駅へ向かい解散しました。後日、春日神社に宮司に確認すると境内の建物は昨年の台風で倒れた大木で壊されたそうです。自然には逆らえませんね。

クラウドファンディング(crowdfunding)とは、群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語で、インターネットを通して自分の活動や夢を発信することで、想いに共感した人や活動を応援したいと思ってくれる人から資金を募るしくみです。途上国支援や商品開発、自伝本の制作など幅広いプロジェクトが実施されています。https://readyfor.jp/へアクセスしてプロジェクトを探すと寄付することが出来ます。 世界遺産・熊野川舟下り、木舟製作にクラウドファンディング

募集期間:平成31年1月31日

一般財団法人熊野川町ふれあい公社は、「川の参詣道」として世界遺産に登録されている熊野川を楽しむ「熊野川舟下り」の新たな木舟を製作するため、インターネットで広く寄付金を募るクラウドファンディングを実施している。目標金額を200万円に設定し協力を呼びかけている。

川舟下りは平安時代に貴族たちが熊野本宮大社(田辺市本宮町)から河口近くにある熊野速玉大社(新宮市)を巡礼した際に利用したとされる。観光事業として再現し、平成17年9月に運航が始まった。

新宮市熊野川町の道の駅「瀞峡街道熊野川」近くの河原から熊野速玉大社近くの河原まで約16キロを語り部の案内とともに約1時間半かけて下るコース。平成23年の紀伊半島豪雨で、乗船の受け付けをする熊野川川舟センター事務所が流失するなどの被害を受けた。センターから約3キロ離れた新宮市熊野川行政局に隣接する建物の一室を借りる形で24年に再開。新たな熊野川川舟センターも完成し、今年3月からは川舟センターで受け付けている。

最近では外国人観光客の利用も多く、今後も増加が見込まれているが、木舟が老朽化し、新たに製作する予算がないためクラウドファンディングを実施することにした。新造する木舟は1隻(定員14人、船頭と語り部も含む)で、取り付ける船外機1台も必要。寄付額によって乗船券や地元温泉の入浴券、オリジナルグッズなどを返礼する。

問い合わせは事務局の新宮市商工観光課(0735・23・3333)。

クラウドファンディングhttps://readyfor.jp/サイトより転載


2011年、熊野川を襲った紀伊半島大水害

2005年の事業開始以降、多くのお客様にご乗船いただいておりましたが、2011年9月、台風12号による紀伊半島大水害が発生しました。

熊野川は氾濫し、私たちの事務所である川舟センターが全壊・流失し、私たちの仲間の船頭も犠牲となりました。そして、熊野川の景観や川の形状も大きく変わってしまいました。

ですが、平安時代の貴族から続く熊野川を船で下る体験をどうにか守っていきたいと、船頭、語り部、職員一同ですぐに動き出しました。様々な関係者の協力を得て、舟の清掃・修理、航路確保のための川作、川舟センターの移転などを行い、翌年3月に川下り事業を再開しました。

現在は、徐々に乗船客数も回復してきてはいるものの、未だ復興に予算がかかっています。そのため、老朽化が目立つ木船を新たに製作する費用が捻出できない状況です。

新たな木船を製作し、熊野川の川舟下り体験をこれからも皆様に

今回、皆様のご支援をいただいて木船1隻と船外機1台を購入します。

木船はお客様12人と、船頭1人、語り部1人と乗船できるものになります。

現在は、定員14人の木船3隻、定員11人の木船1隻を使用していますが、老朽化のため運航上の安全を期して乗船定員を2名程度減らして運用しています。渇水で川の水深が浅い場合は、さらに制限することもあります。

そのため、せっかくご予約いただいてもご乗船をお断りすることもあります。新しい木船があれば、より多くのお客様に舟下りをお楽しみいただけるようになります

創建1300年。宮城県名取市の熊野那智神社の歴史を後世へ

募集期間:平成31年3月04日

創建1300年を迎える宮城県名取市の熊野那智神社は、『神人和楽』神社にかかわるすべての人が昨日より今日、今日より明日笑顔でいられますように、そして少しでも心の支えになれますようにとの願いを込めて、『濱降神事の復活』、『御神宝「懸仏」を熊野那智神社に帰還させるための収蔵庫を新設』を実施している。

目標金額を150万円に設定し、協力を呼びかけている。

寄付額によって、限定朱印帳、【体験型】高館山ウォーキングツアー、オリジナルグッズなどを返礼する。

『濱降神事の復活』

閖上浜から高館山にやってきた神様の里帰り、そして、神様の御神徳

が地域の隅々にいきわたっていることを見ていただき、神威を高めていただくという宗教儀式として、山から浜へ下る神輿渡御が行われていました。この行事は、地域の人たちにとってはそれぞれの地区の人たちとの交流の場ともなっており、神輿が練り歩く場所には人があふれ、そこかしこに露店が並び、神輿を担ぐ人も見守る人も楽しめるお祭りでした。しかし、平成10年を最後に担ぎ手の減少や道路事情の問題などにより、大規模な神輿渡御を行うことができていません。そこで今回、自治体と協力し、山から町、町から海へと神輿を引き継ぎながら市内全域の団結を確認できる行事にしたい。震災からの復興に協力していただいた人たちに、元気な姿を見せることで今までの感謝の気持ちを伝えたいと考えています。2019年5月26日名取市高館吉田の熊野那智神社を出発し、市街地を通り閖上地区まで(直線距離でおよそ10キロ)を神輿渡御します。(なお、濱降神事が荒天などの事情で中止になった場合でも、神輿の修繕、装束の購入は行います。そのため、返金等は出来兼ねますことご了承ください。)

『御神宝「懸仏」を熊野那智神社に帰還させるための収蔵庫を新設』

 震災以前当社では国指定重要文化財41点、県指定有形文化財114点の「懸仏」といわれる銅鏡が保管されていまし

た。 国内で1カ所で100点を超えて所蔵されているのは当社と滋賀県椋川のみで、さらに製造年代は平安後期から鎌倉時代までにわたり懸仏の歴史を知る上でも貴重な資料です。 しかし、今は震災の影響で多賀城市にある東北歴史博物館と仙台市にある仙台市博物館にて修復保管されている状態です。そこで今回、災害や戦乱を潜り抜け、さらに明治の廃仏毀釈の荒波をたえて人々に大切に守られていたこの御神宝「懸仏」を熊野那智神社に帰還させるために収蔵庫を新設します。その土地の信仰文化を大切にすることは、自分たちの住む場所を知り、生きてきた人々の思いに思いを馳せることにつながると信じています。



第241回定例会 平成30年12月16日(日)コース:佐野高校前~JR和泉鳥取駅 約11km

平成30年最後の定例会は、午後から雨模様の天気予報でした。JR阪和線、南海本線から佐野高校まで移動して、出発しました。

先ず旧跡蟻通神社跡へ向かいました。久しぶりに歩く道なので探しながら進みましたが迷ってしまい、地元の方に場所を教えていただきました。

そこは私にとって初めての場所でした。今まで行ったと覚えていたのはJR長滝駅から熊野古道の間にある蟻通神社でした。

元々熊野街道に沿って広大な神域を有していたそうですが、昭和19年(1944年)に佐野陸軍飛行場(明野陸軍飛行学校佐野分教所)建設のため、

JR長滝駅近くの現在地へ遷座、規模も縮小されたそうです。今回初めて訪れた移転前の旧神域の一画には、「蟻通神社跡」の石碑が建てられていました。

そこから熊野街道=府道64号線へ戻って日根神社御旅所に到着しました。八丁畷地蔵にお参りした後は、

道幅が狭くなっていきますが両脇には大きな旧家が立ち並ぶ街道になっていきます。大河ドラマ「真田丸」でも登場した塙団右衛門の墓、

いづみモータースさんの奥のお宅の庭にある籾井(樫井)王子跡、国重要文化財の奥家住宅に立ち寄って樫井古戦場まで来ました。

遠くに見えるゴルフ場の向こうに厩戸王子(うまやどおうじ)跡がありますが今は行くことが出来ません。一岡神社で早い昼食をとりました。

神社の奥にある海会寺跡は、7世紀後半の創建と推定される古代寺院の跡です。

その前にある大きなため池「海営宮池(かいごいけ)」は、奈良時代の僧行基によって開かれたとの伝承があります。

池の堤を眺めながら厩戸王子跡へ向かいました。そこから、信達宿本陣跡までは直ぐです。

今回は時間があったので長慶寺へ伺うことにしました。

長慶寺は大阪府泉南市にある真言宗泉涌寺派の仏教寺院。山号は金泉山、院号は慈昌院、本尊は如意輪観音であります。聖武天皇の勅願寺として行基によって海会寺の一院として創建されたそうですが、天正年間の織田信長・羽柴秀吉による紀州攻めで全山焼失。奥之院の観音堂だけが類焼を免れたとのことでした。仁王門前の100段の石段脇に植えられたアジサイの株が沢山植えられてあり、梅雨時期にはきっと見事であろうと階段を上りました。境内に上がって私たちは驚きました。なんと本堂・開山堂以外にも、三重塔・多宝塔・唐様裳階付三重塔と3つの塔の間に、西国三十三箇所などの写霊場の観音石仏がひしめき合って置かれてあるのです。その広さは下を通る熊野街道からは想像することが出来ませんでした。圧倒されながら石段を下りて街道にも戻ろうとしたら「徳川吉宗由縁寺院」の幟の紫色が曇り空に鮮やかに見えました。そこは真如寺という名で約600余年前の明徳元年に天羡誉公禅師によって禅宗寺院として建立されましたが、やはり根来寺末寺征伐時に焼失し浄土宗に改宗された後、謙道好愚上人を初代として再建されていて、紀州藩を筆頭に各諸藩の参勤交代の御用達旅宿として使用されており、八代将軍徳川吉宗公も真如寺にご宿泊されたことが解りました。そして街道へ戻り、信達宿常夜灯をみて、野田藤の凄さに感動し、往生院に到着。ここも行基さん建立。この辺り一帯は、行基さんや根来寺と関りの深い名勝旧跡だらけです。歩き進んで信達一ノ瀬王子に到着。敷地内の整備と入口の標識に驚きました。雨粒が零れて来そうだったので、躑躅山へ上らず岡中鎮守社へ行くはずが、行き過ぎてしまい、引き返して参拝しました。だんだん曇り空が広がってきて暗くなってきたので急いで波太神社遥拝の鳥居へ向かいました。波太神社はその鳥居から西に約3kmの所にあります。平安時代の法典『延喜式』に記載され、末社三神社本殿は、寛永15(1638)年の建立で、近世初頭の建造物として当時の優美な建築様式を残しており、ともに国の重要文化財に指定されています。そして雨が降ってきたのでJR和泉鳥取の駅舎に走りこんで終了しました。今回もお疲れ様でした。平成30年も有難うございました。平成31年も寄り道しながら歩きたいと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。(小野田真弓)



第240回定例会 平成30年11月18日(日)コース:JR東岸和田駅~佐野王子 約8km

朝、JR東岸和田駅へ到着すると「今回も見送りに来ました」と岸和田市在住の会員さんが出迎えて下さいました。前回平成27年10月18日に開催した第201回の定例会の朝もきていただいたので3年ぶりでした。弊会が活動をはじめた平成9年からの会員さんですのでもう21年!滅多のお逢いできませんが嬉しいです。そして府道30号まで歩いて、移設されていた道標の前で記念写真を写したのですが、携帯電話で11月15日~25日頃に写した写真が全部残っていないのです。ずっと探していて調べるのですがありません。先週メールが使えなくなり、ドコモメールのバージョンアップをした時に一部うまくダウンロードできなかったようです。せっかく撮っていただいたのにショックです。今後は撮影後、当日自宅パソコンに転送し保存します。

今回のコースは殆ど土の道がないのですが、JR東岸和田駅から山側へでて、府道30号を渡ってはじめの道を右に曲がって徒歩5分位のところにある「道の池」には残っています。大きな池で道しるべ地蔵もあります。ところが久しぶりに歩くので曲がる道を見逃してしまい、見つかった時は池の端まで来てしまっていました。

戻ろうか思案していたところ、参加者の方がこの池の開発入札が行われ、業者が決まり、堤の上を通る熊野古道を歩けるのも後わずかになったことを知らせる事をネットで見つけて下さったのです。これは行くしかない!と戻りました。ネットに掲載されていた道より雑草が増え、また堤を全部歩くことが出来ませんでしたが、少しでも歩けて良かったです。大阪府内はどんどん開発されていきますね。道しるべ自動の移転先が解れば、お知らせします。そして「浅宇川(麻生河)王子跡」と言われる工場に到着。9~10月の台風の被害によるものなのかお社が壊れていました。今回のコースの周りでは、ブルーシートで屋根を覆ってあったり、お寺の瓦が崩れ落ちたままになっていたりと復旧工事が進んでいない現実を知りました。また、点在する池は水が抜かれていました。来年の水田づくりのためなのか、池の底に溜まったゴミをとっているようでした。また、参加者の方が、前日に根来寺周辺のウォーキング会に参加されたお話を伺っていたところ、根来寺と縁のある「積善寺城跡」に到着しました。天正5年(1577年)雑賀侵攻の時には積善寺城は出てこないようですが、、天正9年(1581年)高野攻めには「城郭取立也」とあるそうです。また天正11年(1583年)秀吉の紀州攻めでは、中村一氏を岸和田城に入城させ、雑賀衆、根来衆に備えた重要な場所だったそうです。「天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに豊臣秀吉が出撃した隙を狙って、雑賀衆、根来衆連合軍は、中村城、沢城、田中城、積善寺城、千石堀城を5城を付城として岸和田城の5町ばかりを隔てて、翌天正13年(1585年)正月始めまで幾度か小競り合いが続いたが、同年1月16日雑賀衆、根来衆連合軍は7つ付城から岸和田城を攻城、中村一氏隊も反撃している。同年3月18日に雑賀衆、根来衆連合軍は紀伊国より出撃、同年3月21日岸和田城から豊臣秀吉軍が出軍、戦いとなり鳥羽城、中村城、積善寺城は放火や落城した。この時豊臣秀吉軍は、地蔵堂丸山古墳に陣を置き積善寺城と対峙していた。豊臣秀吉は卜半斎了珍を仲介とし畠中城、沢城は開城した。」と『ウィキペディア(Wikipedia)』で説明されています。

そこからJR阪和線を渡り『地蔵堂丸山古墳』へ行き古墳の上まで上りました。南近義神社昼食休憩をしました。その後「吉祥園寺」を探し出せず貝田王子へ向かいました。3年前はだんじりの山車を地元の方に説明してもらったことを思いだしました。今年の夏は暑くて歩く距離を短くしたので、前回までと違い2回遅くなっています。年々、体力と天候が変わってくるので気を付けなければなりません。今回もお疲れさまでした。

目標金額 1,500,000円

支援総額 595,000円

支援者数 42人

1月4日残り日数 53日



◆ 徳島・阿南・加茂谷 四国遍路道フォーラム2018

国史跡に指定された「阿波遍路道」のうちの「かも道」の保全をしている「加茂谷へんろ道の会」は、会員の多くが70代に入り、倒木の撤去などの力仕事が厳しくなってきている等の高齢化による担い手不足に頭を悩ませている現状を知ってもらい、今後の担い手を確保しようと12月2日午後1時半から、阿南市富岡町の市文化会館で「四国遍路道フォーラム2018」を開催されました。

「かも道」は、四国八十八カ所霊場の二十一番札所の太龍寺(阿南市)と二十番札所の鶴林寺(勝浦町)の間にあり、寺までの距離を示す「町(丁)石」には南北朝時代の年号が記され、道の一部は史跡指定されています。

四国の遍路道は約1400km、うち残っている土の道が約100km、そのうち史跡登録は23km、このエリアは8.6kmが史跡登録されています。

会は13年に発足し、遍路道の保全整備活動や、ウオーキングイベントの開催、遍路道マップの作成といった取り組みを進めてられたます。台風や豪雨になると、次の日には数人の会員が現場へ向かい点検。被害があれば、倒木を撤去するなど応急措置を講じ、お遍路さんが通れるようにされています。

会長の横井知昭さん(73)は「高齢化で腰が痛くなるなど、体が厳しくなってきた会員も多い。フォーラムで少しでも興味を持ってもらい、10年先も遍路道の維持管理ができるようにしたい」と話されています。

フォーラムは3部構成で進められ、1部は私が『「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産登録にいたる民間活動の経過について』21年間の活動のお話をさせていただきました。2部では横井会長による活動報告が行われました。

3部では、徳島大学教養教育院 准教授で四国遍路研究家のモートン 常慈先生と四国霊場22番札所平等寺の谷口真梁副住職が「世界が注目Sikoku88」をテーマにディスカッションが行われました。外国人の方がお遍路さんを巡った歴史から現状までお話されました。私は前日開催された「四国最古のへんろ道、特別ガイド・ウォーク」に参加させていただき「かも道~太龍寺~いわや道」を歩かせてもらいました。柔らかい歩きやすい道で、横井会長から様々なお話を伺いながら楽しく歩かせてもらいました。

21年ぶりにお会いできた方が来られていて感動した二日間でした。(小野田)



第239回定例会 平成30年10月21日(日)コース:伊勢路 大泊駅 ~浜街道(北)~ 阿田和駅

前月歩いた続きのコースです。以前の定例会は、大泊駅から松本峠(世界遺産登録地域は約0.7km)を越し、獅子岩から花の窟へ向かい有井駅まで歩い終了していましたが、今回は紀宝町まで約20kmの日本一の砂礫海岸「七里御浜」の北半分「浜街道(世界遺産登録地域は熊野市井戸町~鵜殿村の18km)」の砂浜を歩くことに挑戦しました。

久しぶりに歩くので、松本峠の入口までは少し悩みながら辿り着きました。

入口から急な坂道になりますが、美しい江戸時代の石畳が残っています。竹林に囲まれた峠では、建ったその日に妖怪と間違えられて鉄砲傷をつけられてしまったという、大きなお地蔵様が出迎えてくれます。

鬼ヶ城から木本神社まで道が繋がっていると勘違いして頂上から鬼ヶ城まで行きましたが、行けなくて松本峠へ戻ることになってしまいました。

松本峠の南側は、明治元年に木本と古泊の漁師が鮪の水揚げに関する騒動を起こし代官所が罰として漁師達に築かせた石畳でした。暫く木本の古い街並を歩き木本神社へ到着。そこで作家の故中上健次さんの出身高校は木本高校と説明しましたが、和歌山県立新宮高等学校でした。すみませんでした。

そして国道42号線を渡って七里御浜の砂浜へおりました。最初は機嫌よく歩いていたのですが、獅子岩が近くになるにつれ砂に足が埋まって歩みを乱し始めました。やっとのことで獅子岩に辿り着きましたが足が疲れてしんどくなっていました。このままでは到着地点の阿田和駅まで歩けなくなります。この先の砂浜を歩くのを止めました。花の窟で暫く休憩し出発しました。

「有馬立石の道標」は、追分として、左は浜街道を経て新宮、右は本宮道を経て本宮に至りますが、本宮への道は神木までは大変難儀な道だそうです。

また国道42号線に出ましたが浜に向かわず、手前の松林を歩こうとしました。道を探しましたが倒木があり落葉が散乱していて歩けそうにありません。それで浜との間にあるセメント造りの堤防を歩くことにしました。天気が良いけれど日差しはキツクなく、風も心地よく吹き、左手には熊野灘の雄大な海が広がり、歩くにはもってこいの条件なのですが、歩けど歩けど景色が変わりません。1時間近く歩いて、やっと河口らしき物が見えてきました。

阿田和駅までは志原川と市来川があります。かつては橋もなく、波の引き間を利用して河口の浅瀬を走り渡りましたが、波にのまれる人もあり、巡礼供養碑があります。今は橋が架かり安心して歩けます。市来の一里塚を越えたら、もう少しで阿田和駅です。すると道沿いにリンゴのような真っ赤なみかんが売っていました。(帰宅しネットで探しましたが見つかりませんでした)

日も暮れてきてJR阿田和駅前にある「道の駅 パーク七里御浜」に予定時間より10分遅れて到着しました。伊勢路を歩く機会が滅多にない事なのですが、鬼ヶ城の所で時間をとってしまい、砂浜を歩き疲れさせてしまいスミマセンでした。次回の伊勢路は、研究と下見を怠らず開催したいと思います。


第238回定例会 平成30年9月16日(日)コース:伊勢路 新鹿駅~鎌倉期の石畳~波田須駅〜大吹峠~大泊駅

前回このコースを歩いたのは、平成22年2月21日第139回でした。9年ぶりに訪れた道は、石畳にたっぷり苔が生えておて、歩く方が殆どおられないような雰囲気でした。

8月末に発送した会報誌には、台風の被害で道が崩落し歩けなくなったり、鉄道が運休し現地に行けない事を考慮し、大阪市内のコースも記載しておりましたが、三重県の世界遺産センターさんに尋ねたところ、伊勢路は台風被害がなく、当日も鉄道で移動できました。

また、久しぶりに歩くコースだったのですが、下見に行けなかったので、不安と共に出発しました。参加者のみなさんと台風被害状況をお話しながら、記憶を辿りながら世界遺産登録資産の「鎌倉期の石畳」へ向かいました。

その石畳の石のサイズはまばらでしたが大きかったです。また、ネットで見た石畳の写真では、江戸期の石畳との境目がはっきりくっきり確認できるはずでしたが、雑草が生い茂っていたためか今回は、見つけられませんでした。

そして、「徐福の宮」の鮮やかな朱色の鳥居を見ながら波田須駅へ向かう道を降りていきました。暫く進むと分岐点があり、駅へ向かわず、山手に上り「文字岩」を見に行ってから、道に迷いました。ガードレールが曲がって張られていた「熊野古道」の矢印が解り辛くなっていたり、波田須の峠の入口にはあった「熊野古道」と書かれた幟(のぼり)がなかったこともあり、30分近く彷徨っていました。やっと道沿いの民家から94歳のおばあちゃまが出てきてくださって道を教えていただき、大吹峠入口へ辿り着くことが出来ました。大吹峠へ向かう坂道は急で疲れましたが、峠から大泊駅へ向かう道の両側に広がる竹藪は明るく広がっていました。

途中倒木もあり、台風が通った跡が見受けられました。本当に遠い遠い伊勢路でした。参加者のみなさん、お疲れ様でした。


第237回定例会 平成30年8月19日(日)コース:JR和泉府中駅~JR東岸和田駅 約7.5km

8月も過去に経験したことのない気象環境に驚く毎日で、定例会当日は、「どれほど暑くなるのだろう」と心配しておりましたが、思ったより涼しく歩くことが出来ました。

JR和泉府中駅から泉井上神社へ向かいましたが、前月の定例会で暑い中に歩いた時と違い早く到着しました。そこから静かな住宅街を歩き井ノ口王子跡へ向かいました。

梶尾川を渡り、橋のたもとにある石の道標を見ました。けれどもこの道標が説明している寺の方向が違います。それは元々違う場所に置かれてあったものが道の整備により移動されたのでした。

そして、街道マップ通りに歩くと松尾川に架かる「小栗橋」へ到着するのですが、マンションが数棟建設され、

川の流れが変わっていたり暗渠になっていたりして過去の定例会では毎回迷子になっていたので、今回は安全策で府道30号を歩くことにしましたが、

途中にある毎日乳業工場の前で地元の会員さんが「小栗橋」へ行く道を案内して下さって、念願の「小栗橋」を渡ることが出来ました。

そして府道30号へ戻り、久米田駅前の踏切を渡り、「池田王子跡」へ向かいました。この王子跡は、今迄「推定地」だったので訪れたことがなかったのですが、

数年前に地元の教育委員会が説明板も設置されたので辿り着くことが出来ました。

既に予定の半分まで歩いていたので、「歩きやすい日和だから、日根野まで行こうか?」と参加者の方に提案していただいたのですが、

安全策をとって予定通りに東岸和田駅で終了する事にしました。それで、時間があるので、熊野古道から20分ほど東方にある「久米田寺」へ向かいました。

「久米田寺」は、久米田池を維持管理するために、行基が天平10年(738)に久米田寺を創建されたと言われています。

高野山古義真言宗の寺院で境内は広くて多宝塔や金堂などが建立されていました。また、諸説ありますが「久米田」の名称には「八木」から「粂」に転じたといわれています。

そして、この寺の南東にある「久米田池」は、大阪府最大の水面積を有する池です。

当時「八木郷」と呼ばれたこの付近一帯は水に乏しかったため、聖武天皇がこの池の開削を行基に命じ、

神亀2年(725年)から天平10年(738年)まで14年におよぶ工事を経て完成しました。

そこから目と鼻の先の所の「貝吹山城」にある貝吹山古墳へ向かいました。

全長約130m、最長部は標高44m、比高8mで前方が北西に向けている前方後円墳です。久米田寺との縁が深い橘諸兄の墓ではないかという古くからの伝承があり諸兄塚とも呼ばれています。

また、近くには聖武天皇皇后にして橘諸兄の異父妹にあたる光明皇后に関連する「光明皇后塚(光明塚古墳)」もあります。

光明皇后は仏教の庇護者で、重症の癩病患者の膿をみずから吸ったところ、その病人が阿閦如来であったという話はよく知られています。

そして、この一帯は永禄5年(1562)三好実休(南宗寺を建立)と畠山高政(紀伊・河内国の守護大名)が戦った「久米田古戦場」でもあります。

そして熊野古道へ戻り、積川神社遥拝所へ到着しました。暫く車道を歩き、和泉式部縁の下松町へ入りました。

けれども和泉式部の「筆塚石碑」と「硯塚」は見つけられず「轟橋~恋の淵~恋ざめの淵石碑」を訪れました。

そして府道30号の際にあるフェンスに「和泉式部歌碑」と手書の看板を見つけました。「どんび淵」でした。

そして車道を避け、JR東岸和田駅へ向かうために脇道を入ったところ、「夜泣き石」を見つけました。

お寺は慈光寺でした。この石は、近世中期、堤(現貝塚市堤)の釈迦堂前に置かれた飾り石を沢の百姓たちが無理やり持ち帰って、

溝の渡し石にしたところ、石はその夜から、「往(い)にたやな、堤-堤-」と、ひとしきりむせび泣いたといわれています。

そして線路に平行して歩き進み、JR東岸和田駅へ到着しました。今回も新しい名勝旧跡を訪れることが出来ました。暑い中、お疲れ様でした。

←元の様子「どんび淵」8月16日の様子⇒


第236回定例会 平成30年7月15日(日)コース:鳳駅~和泉府中駅 約7.5km

猛烈な暑さが続く中、総会で決めたコースの半分の距離にして第236回の定例会を開催しました。

先ずJR鳳駅から大鳥神社まで移動。本殿に参拝した後、本日訪れる一つ目の王子跡「大鳥居新王子」が合祀されている摂社の大鳥美波比神社へ参拝しました。

大鳥美波比神社はもともと大鳥郡北王子村にあったといわれており、明治12年(1879)に大鳥神社境内へ遷座されています。

そしてJR鳳駅へ向かって道を戻り商店街の中を暫く進み、大鳥美波比神社があったとされる北王子村=堺市西区鳳東町7丁のNTT鳳営業所付近へ到着しました。

暑いので日陰に入って説明した後、府道30号へ出て、古事記にも掲載された巨木伝説のある「等乃伎トノキ神社」で一休みしました。

そこから信太山駐屯地手前の八坂神社までは木陰や公園がなく、車道をひたすら歩きます。

途中で安倍晴明ゆかりの信太森葛葉稲荷神社へ立ち寄ってはと提案いただいたのですが、熊野古道から離れJR阪和線を越えて行ったり来たりすると体力が落ちてしまうので、

信太森葛葉稲荷神社へは行かずに予定通り聖神社一之鳥居~篠田(信太)王子~小栗地蔵尊~八坂神社まで来ました。約1時間ごとに神社で小休憩をしました。

そして後鳥羽院歌碑のある公園へ立ち寄って平松王子跡の碑がある交差点に到着しました。すでに12時近くになっていました。

そして、熊野古道から3分ほど離れた場所にある伯方神社に今回初めて訪れました。

この神社の西側には新宮山龍雲寺というお寺がありますが、寛治年間(1087)白川法皇が熊野行幸の時に御脳を患い、

この地よりはるかに熊野山に向かい全快を祈念したところ、飛龍降臨のめでたい前兆を感じられ、使いをもってこの地に飛龍権現の分霊を請い迎え当山の鎮守とされたそうです。

石碑も残されてあり、先に参拝し、昼休憩をとることにしました。

ここの伯太神社は、飛鳥時代の白鳳2年(674)の創建といわれ式内社で、御祭神は、応神天皇・比売神・伯太比古命・伯太比売命

・天照皇大神・小竹祝丸・天野祝丸・熊野大神・菅原道真・天児屋根命の10柱もの神様を祭祀しています。

さて「小竹祝丸・天野祝丸」は、「日本書紀」の神功皇后の章に登場し和歌山に縁のある「小竹祝と天野祝」の方々です。

「日本書紀」の神功皇后の章には、『神功皇后が忍熊王を攻めるため、小竹の宮に入ると夜のような暗さが何日も続いている。

紀直の先祖・豊耳に尋ねたところ、「阿豆那比の罪(二人の神官を合葬する)」であると言う。

小竹祝(御坊市・小竹八幡神社の神官)・天野祝(丹生都比賣神社の神官)という仲の良い二人の神官がいたのだが、小竹祝が病死。これを悲しんだ天野祝が、

小竹祝のなきがらのそばで亡くなり、一緒に葬ったことがあったのだという。墓を開けて棺に納めなおし、別々に葬ると、昼が戻った』とあります。

一方で、2人の神職の同性愛に伴う罪とも指摘される場合があります。

ただ何日も暗闇が続くという天変地異を起こした罪であるにもかかわらず、この「阿豆那比の罪」は以降の他の文献では確認できないというサイトもあるのです。

そしてこの神社は、罪に問われた二人を「神」として祀られているのです。

そして泉井上神社へ向かいました。午後の日差しは余りにも強くて、途中コンビニに立ち寄りアイスクリームを食べて体の中を冷やしました。

やっとのことで神社の到着。参拝の後、JR和泉府中駅へ向かいました。暑い中、お疲れ様でした。



第235回定例会 平成30年6月17日(日)コース:住吉東駅~「百舌鳥・古市古墳群」~百舌鳥駅約 14km

今回のコースの中には、平成31(2019)年度の世界文化遺産登録をめざしている「百舌鳥・古市古墳群」の登録申請物件があり、

せっかくなので「百舌鳥古墳群」を訪れたいと思いまして、前半は前回終了した住吉東駅から方違神社まで熊野古道を歩き、後半は約7km「百舌鳥・古市古墳群」を巡りました。

住吉東駅を17名で出発し、宝泉寺、住吉大社と進み、今回初めて訪れる一休禅師牀菜庵跡、南朝後村上天皇崩御の住吉行宮跡、後鳥羽天皇行宮跡、止止呂支比売命神社(津守王子跡)を歩きました。

大和川の雲上地蔵尊へ立ち寄って、堺市境王子へ向かい、予定通り方違神社に到着。昼食の休憩を取りました。

方違神社に隣接し、堺市のやや北部に位置する「百舌鳥古墳群」は、日本を代表する古墳群で、かつては100基以上あったといわれますが、現在は44基が残っています。

その中の21基が申請物件になっています。「古市古墳群」は、羽曳野市と藤井寺市にある計123基で、その中の24基が申請物件です。

「百舌鳥古墳群」北端にある反正天皇陵古墳、永山古墳を経て世界3大墳墓のひとつで日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵古墳周遊道路を約半周した後、

正面に向かい仁徳天皇陵古墳拝所を参拝しようとしたら観光ボランティアガイドの方が「説明しましょう」と声をかけてくださったので、20分ほどお話を伺いました。

そこから大仙公園内の遊歩道を通り日本で3番目に大きい百舌鳥耳原南陵・履中天皇陵古墳周りの散策と拝所の参拝後、いたすけ古墳へ。

御廟山古墳を経て樹齢700~800年とされる大くすで有名な百舌鳥八幡宮を参拝しました。ここの「ふとん太鼓」は有名で、

和歌山県の南部駅近くにある鹿島神社でこちらの神社のふとん太鼓の話を伺ったことを思い出しました。

最後に前方部が大きく広がった姿が古墳群で最も精美といわれるニサンザイ古墳を訪れ、終了しました。

そこから、南海高野線中百舌鳥駅とJR百舌鳥駅へ分かれて向かいました。今回も歩きすぎてしまいまいした。皆様お疲れさまでした。


第234回定例会 平成30年5月20日(日)コース: 天満橋駅・八軒屋船着き場跡~住吉東駅  約11km

平成30年5月20日の定例会は爽やかな天候の下、開催しました。

先ず、八軒家船着場跡の永田屋昆布本店前へ集合。日曜日でお店は営業していませんが、日曜日の朝にもかかわらず自転車やランニングをしている人など往来者は少なくなかったです。

続いて、幕末に徳川慶喜さんが大阪城に来た時、新選組が止まったと言われる宿「京屋忠兵衛」の店の跡にあるはずの看板をみつけようとキョロキョロ探しましたが私の目線では見つかりません。

すると屈んでいた会員さんに見つけてもらいました。

そこから熊野古道九十九王子の第1番目の王子跡と言われる「窪津王子」のある坐摩神社行宮へ参拝しました。その宮の真向かいのビルは「豊臣氏大坂城内武家屋敷跡」になっています。

今年度の目的である「今まで割愛してきた名勝旧跡や熊野古道に関連はないが、ちょっと足を延ばせば見れる地元の名勝旧跡も訪れよう」の試みのはじまりです。

そこから暫く進み、交差点の左手を見上げると大きな鐘がぶら下がっているのが見えます。「釣鐘屋敷跡」です。

寛永11年(一六三四)、三代将軍徳川家光さんが大阪城へ来た時、大阪の町中の地子銀(ジシギン=固定資産税)を永久に免除することを約束したことに感謝して造られた鐘です。

今も時を知らせる鐘をついています。続いて「太閤下水(背割り下水)」を訪れました。秀吉が大坂城築城に伴い城下町を造成し道路などと建設した下水溝は今も水が流れています。

今回はずっと車道を歩くのですが、所々に公園があって土と緑に触れることが出来ます。次に訪れた公園には水呑地蔵尊と第2番目の王子跡の「坂口王子」があります。

そこから遠くない所に「榎木大明神の神祠」があります。高速道路の下を通って空堀商店街を抜けると次の王子跡「郡戸王子」の場所と推定されている「高津宮」へ到着します。

今までの6回は、この宮の中を通って上野王子跡まで歩いたのですが、定例会の準備をしていた時にGoogleマップ上で、

宮が隣接する北側の道を東へ進んだ所に「熊野古道・地蔵坂 交差点」と「平野町筋 道標」を見つけ、今回はそちらへ向かいました。

地蔵坂交差点には何もなく、どの道との交差点かわかりません。でも平野町には道標が遺されています。

石碑の上部は東西南北が刻まれていて、東西南北のどの方向から来ても行先が解ります。ところが、その道標には建立した年月日が刻まれていないのです。

大阪市の熊野古道のマップやあちこちサイトを探してみたのですが探し出せませんでした。

そこから南下してマンションの玄関に置かれた「上野王子」跡推定地へ到着。ここは「四天王寺七宮」と言われ、

聖徳太子が四天王寺を創建した際に四天王寺の外護(げご、保護して守ること)として建立した神社群の一つです。

しかしながら『古事記』『日本書紀』および『聖徳太子伝暦』などの文献には一切記されておらず、

その存在は四天王寺七宮とされる神社の存在と各社に伝わる伝承によってのみで確認することができるとのこと。

聖徳太子は仏教一筋のイメージが強いですが、実は神道を蔑にしたわけではなく、神道における日本の神も篤く尊崇していたということが窺い知れます。

そして四天王寺へ入り、四天王寺「四石」の一つ「熊野遥拝石」を見て昼食にしました。

午後は先ず「四天王寺七宮」の一つである堀越神社へ参拝し「竹本義太夫墓」跡の碑を見て線路の上にある橋を渡りました。

続いて表通りから東側の旧家が残っている道へ進みました。「どこへ連れていかれるんだろう?」と参加者の皆さんは不安になってきた頃に突然ビルの谷間に真っ赤な鳥居が現れました。

「阿部寺跡推定地」です。阿部氏の氏寺と考えられ、現在の地名=阿倍野の由来にも関わっているという説もあります。

参拝後、ビルが立ち並んでいるため行止りの道にはいり迷子になり時間がかかって、やっと路面電車の線路と並行している熊野古道へ戻りました。

松虫塚によって安倍晴明神社へ。すっかり綺麗になった神社に参拝客が多くいらっしゃいました。

熊野古道へ戻り、次にあるのが今回最後に訪れる王子跡「阿倍野王子」の阿倍野王子神社です。そして隣接する印山寺があります。

ここは、823頃淳和天皇が悪疫が流行したので空海に命じて一千部の薬師経を写させ、熊野権現に祈ったところ好転したので、痾免寺の号と勅額を下賜し、

阿倍王子社の宮寺として造営したといわれるお寺ですが、何と門の脇に「第五代 桂文枝之墓所」という碑があるのです。

五代目は2004年に新作落語「熊野詣」をネタ下ろしされ、大阪・国立文楽劇場や東京・国立演芸場でも口演されましたが翌年の2005年に亡くなられました。

きっと天国から熊野街道を行き交う方々に「熊野詣」の落語を話してるんかなぁと懐かしい声を思い出していました。

最後に経塚によって路面電車の敷石の上を住吉東駅まで歩きました。

今回も寄り道が過ぎてしまい11kmの予定が万歩計では15.5kmになっていました。スミマセンでした。みなさま、お疲れ様でした。


第233回定例会 平成30年4月15日(日)コース:城南宮界隈散策~鳥羽街道~石清水八幡宮~京街道~橋本駅

平成30年度の第1回目で活動21年目初の定例会は、小雨降る肌寒いなか開催しました。

1201年の熊野御幸を訪ねるコースも7巡目となりまして、今年度は過去6回で訪れなかった名勝旧跡や街道に立ち寄りながら歩いていこうと計画しています。

先ず、新義真言宗智山派の安楽寿院へ到着しました。この一帯は中世・院政時代に栄えた鳥羽離宮の北殿があった所です。

ここには近衛天皇安楽寿院南陵、鳥羽天皇安楽寿院陵があり親子で葬られていますが、元々は鳥羽天皇が生前、寵妃で近衛天皇の生母の藤原得子(美福門院)と一緒に葬るように遺言していたのです。

けれども得子は拒んで高野山への納骨を懇望し、そのことを知った天台僧から「弘法大師(空海)を尊び、伝教法師(最澄)を賤しめる行為」との抗議があったにも関わらず、実現させました。

続いて、大治5年(1130)、覚鑁が鳥羽天皇の病気平癒を祈願した際に不動明王が出現して治癒したことから、勅願寺として開山されました北向山不動院へ向かいました。

そこから国道を渡って、白河天皇成菩提院陵に到着。応徳3年(1086)に堀河天皇に皇位を譲り院政を始められ、

当時の貴族の日記に「その威権は四海に満ち、天下これに帰服した」と評される程に政治の実権を掌握される方が、1090年熊野詣でをされます。

この後9回もの熊野御幸を行い、熊野信仰が熱狂的な高まりを見せるきっかけとなったと言われています。

熊野詣でをした理由の一つに天皇には皇室祖先神として伊勢神宮がありましたが、伊勢神宮は創建の由来からいって藤原氏と強く結びついていて、

反藤原の意図を持つ白河上皇は、伊勢神宮以外の神を求めたともいわれています。

1281年亀山上皇が熊野御幸の最後といわれますが、熊野詣でが盛んだった頃は、鳥羽離宮の御殿が精進屋にあてられることもあり、

7日ほどの精進を勤め、祓の儀式を納めて往復1ヶ月の旅に出立したとのことです。

そこから北へ少し歩いたところに西行寺跡があります。西行(1118-1190年)が北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた

頃の屋敷跡を寺に改めたと伝えられています。江戸時代の『都名所図会』の挿絵に、草庵や月見の池、剃髪塔も描かれていますが、今は地蔵堂だけが残っています。

そこから南に歩いた所にある城南宮では、4月13日から始まった方除大祭の最終日でした。この間に日に2回約1時間の奉納神楽がありましたが、時間がないので見るのを諦めランチをして出発しました。

また、甘酒(アルコール無)のお振舞いがあり、少し寒かったので暖かくなりました。

それから、昔話で親しまれる一寸法師は、舟に乗って都を目指し、城南宮の南にあった鳥羽の津に着いたそうです。

おせきもち本店の横道を通りながら、今年の大河ドラマは時間が早く進む、篤姫の婚礼準備の1年は5分もなかった、

鳥羽伏見の合戦もあっという間に放送されるだろうと話しているうちに、鳥羽伏見戦跡碑へ到着しました。

今回はここから鳥羽街道を進んで淀までいき、そこから京街道へはいり石清水八幡宮へ向かうことになります。

現在は「千本通」という名になっている交通量の多い車を歩きますと、恋塚寺に到着します。

1182年、北面の武士であった渡辺左衛門尉源渡の妻袈裟御前は、夫の従兄弟で同僚であった遠藤盛遠(文覚上人)に横恋慕され、自ら夫の身代わりとなって殺されました。

この寺は袈裟御前の住まいがあった場所ともいわれています。昔から袈裟御前は「貞女の鑑」と言われています。

そこから鳥羽の大石、戊辰東軍戦死碑(法伝寺)、鳥羽伏見の戦跡碑、円光大師(法然)御旧跡、横大路村道路元標、藤田権十郎邸・藤田四郎右ェ門邸跡、

魚妙教寺(淀古城跡・戊辰役東軍戦死者碑)と立ち寄りながら南へ進み、「愛宕茶屋跡の東軍戦死者を祀る石碑」に到着したとたん、いきなり右側のサイクリングロードから3名の男性が駆け下りてきました。

尋ねると「幕末の歴史を研究している者です」とのこと。この地は、『伏見街道「淀・千両松」の激戦地』と並び、激戦場だったようです。

この石碑は、地元の方が35名の旧幕軍戦死者を埋葬された後、日清戦争の頃になってようやく旧幕府軍戦死者の碑が建てられるようになったと話されていました。

天気も良くなり、唐人雁木旧趾碑、淀川瀬水車旧趾碑、與杼(よど)神社、淀城跡と見ながら進んで、二つ川を渡り、やっとのことで石清水八幡宮の下に到着しました。

参拝しない予定でしたが、参加者12人中7人の方が初めて来た方だったので男山を登りました。境内では「居合道の奉納(公開演武)」がされていました。

テレビで見たことがありましたが、真剣を間近で見たのは初めてでした。

男山を登って疲労困憊の参加者の皆さんに鞭打って、現在は京阪電車の線路が並行して通っている京街道を進みました。

道しるべをやっと見つけ、渡し場跡へ到着。

このあたりは「橋本」とよばれ、対岸の山崎とを結ぶ渡し場があり交通の要所で江戸時代から賑わっていたそうです。

明治になり京阪鉄道が開通したこともあり、遊廓ができたそうです。一時は芸妓が四百人もいたといわれる橋本遊郭跡の木造建築の外観が個性的で綺麗でした。

最後に駅前で道を間違ってしまい、そして、あちこち立ち寄り山も登って32128歩も歩いていました。参加の皆さま、すみませんでした。本当にお疲れさまでした。


第232回定例会 平成30年3月18日(日)コース:世界遺産追加登録エリア小狗子峠 約4.5km

今回の定例会は、予定していた「富田坂」が公共交通機関の路線バス廃止のため中止せざるを得ず、

平成28年6月19日第209回のリベンジ「追加登録・小狗子峠」を歩くことにしました。

JR宇久井駅から国道42号線沿いに暫く歩き、ガードレールに架けられた看板を右に入り旧道へ入っていきます。

踏切の手前で車を先に通ってもらうために待っていると、その車の運転手さんに「モクレンの花をみにいくの?」と尋ねられました。

話を伺うと近くに大変大きなモクレンの花があるそうです。でもどれだけ近いか、開花しているか否か解らず残念しました。

帰って調べてみると、「那智勝浦町宇久井地区から長野川上流に向かって遡り、高津気地区に入ったところに高さは20m以上のハクモクレンの大樹が2本並んで立っている。

大きな白い花を咲き揃わせたその姿は圧巻。毎年3月初旬から中旬ごろに花を開かせる。」とのこと。当日運転手さんとお話した場所から5kmほど先にありました。

暫く住宅地の車道を歩くと道に「熊野古道KODO」とペンキで書かれた標識が現れます。その矢印に従って進むと「小狗子峠」の入口に到着します。

峠の登り口には説明板とスタンプ台があり、可愛らしい「猿」がデザインされていました。「なんで猿なの?」と皆さん不思議に思いながら、追加登録エリアを歩きました。

住宅地、車道からものの3分ほど入った所ですが、歩いてる方が未だ多くないのか、石畳はコケに覆われ、趣きのある古道が残されていました。

暫く進むと「鍛冶屋口茶屋跡跡」に到着。ここは鍛冶屋もやっていた茶屋が猿を飼うようになり「猿茶屋」と呼ばれていたと説明すると、サルの絵のスタンプの謎が解けました。

そして峠を越えて下ると42号線に戻り、「鎧かけの松」の伝説が残っている「白菊の浜」に到着しました。

平成28年5月に下見した時から説明板が新しくなっていて平一門の系図も簡単に書かれていました。

そのまま海岸線の車道を進み、大狗子隧道とJR線の間に残された山道を登ると大狗子峠に入ります。

大小狗子隧道は、大正元年新宮鉄道のトンネルとして開通したものです。また、地元狗子ノ川にある大徳神社によると、

大狗子峠、小狗峠という地名は、古くは大鯨峠、小鯨峠と書かれたといわれ、この一帯は鯨と深いかかわりがあったことが偲ばれます。

そして、狗子ノ川のバス停で路線バスに乗らず、電車の時間を気にしながら42号線を歩き進みました。

補陀落山寺の少し手前へから旧道へ入り補陀落山寺へ向かいました。「ここの道は大辺路ですか?」と尋ねられ、「振分石」の前で大・中辺路と伊勢路の分岐点を説明しました。

当日は、とても暖かく、桜はじめ様々な花が咲いていました。

電車に乗車している時間の方が歩いている時間より長かったのですが、何とか追加登録エリアを踏破できました。ありがとうございました。


第231回定例会 平成30年2月18日(日) コース:高野坂~浜王子~阿須賀神社

とても暖かい1日でした。JR和歌山駅から三輪崎駅までは4時間20分電車に乗っていたのですが、車中から見えた沿線の畑や街中には、梅と緋寒桜が満開に咲いていました。

今回はのコースは、世界遺産と日本遺産「鯨と生きる」と南紀熊野ジオパークが登録されている見どころ満載のエリアです。

高野坂は旧国道で地道から石畳のある道を歩き進みます。そして道から海側に伸びる細い道を100mほど海側に進んで行った所にあるのは、

日本遺産に登録された『鯨とともに生きる』の新宮市の捕鯨文化を伝える鯨山見跡です。

そこから近道をして今光稲荷到着。お社の隣には羽指中建立の石祠があります。また道に戻って少し進むと江戸時代初期に建てられた孫八地蔵があります。

その斜め右方向に五輪塔へ向かう道の看板があり、また海岸に伸びる細い道を進んだところに建っている、石組みの壇を築いた五輪塔がありました。

ところが、新宮市のホームページの観光情報http://www.city.shingu.lg.jp/では、『寛文5年(1665)に建てられたもの』とありますが、

現地の看板には『寛永五戊辰(1628年)』と説明されていました。(調べてみます)

また道に戻ると展望が開け、美しい御手洗海岸が現れました。その前に江戸時代の中頃に三重や大阪、滋賀出身の人が建てられた御手洗の念仏碑があり、

碑の前には白い海岸の丸石が幾つか手向けられていました。浜までは遠いのに、どうやって持ってきたのだろうか?と不思議に思いながら坂をおりました。

予定よりだいぶ時間が過ぎ12時を過ぎていたので、坂を下りた所にトイレもあり、昼食にしました。

そこから浜へ向かう道を地元の会員さんに教えていただき、浜へ降りました。

いつもはさらっと歩く高野坂でしたが、今回は名勝旧跡をたずね歩きました。

国道42号線を進み、途中新宮鉄道の痕跡をみながら浜王子へ到着しました。

3月20日まで新宮市内のスタンプラリーが行われていたので、駅でスタンプ帳をもらい阿須賀神社(王子)へ向かいました。

参拝を終えると既に午後2時になっています。此処から当初の予定通り歩こうとすると2時間はかかってしまいます。止むおえず中止し新宮駅へ向かいました。

徐福公園の交差点で記念写真を撮っていないことを教えられましたが携帯電話が動かなくなっています。

出発点の三輪崎駅に車を置いている方が多く、三輪崎へ向かう電車の発車時刻が迫っていて写真を撮らず交差点で解散しました。

落ち着いてみると携帯電話の電池切れで撮れなかったのです。ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。

一日も1年も20年もあっという間に終わってしまいました。お疲れ様でした。

廻れなかったのは、重要文化財「旧西村家住宅(西村記念館)」の保存修理(平成30年度末まで公開を休止)、

西村伊作氏設計のチャップマン邸、新宮城、熊野速玉神社、佐藤春夫記念館、

渡御前社(渡御前社は「神武さん」とも呼ばれ、神武東征の折の神武天皇の頓宮(仮宮)跡と伝えられる)、

妙心寺(熊野比丘尼の総本山)、神倉神社、浮島の森でした。新宮市内だけでも散策できますね。

第230回平成30年1月21日 コース:赤木越え~大日越え~熊野本宮大社

平成30年初回の定例会は、たいへん温かい日和になりました。3年ぶりで参加いただいた方と初参加お二人と合計13名で歩きました。

そして、路線バスを乗り継ぎ、発心門王子跡へ向かいました。

私達以外に日本人男性3名の方が発心門王子で降りられて本宮大社へ向かって歩いて行かれました。今回は、珍しく外国人の方に遭わなかったです。

発心門王子跡から坂を下りましたが案外早く降りることが出来ました。けれども、発心門王子から猪鼻王子へ向かう道を通り過ごしてしまい、里程一つ確認できませんでした。すみません。

そこから船玉神社へ向かい参拝した後、赤木越えへの分岐点にあるトイレに到着しましたが使えませんでした。

和歌山県世界遺産センターで確認すると、今年度の使用は難しいとのこと。

そして、スマホで熊野本宮観光協会のホームページhttp://www.hongu.jp/を探すと

「船玉神社(59番道標)前広場のトイレ年内使用中止のお知らせ。トイレ改修工事の為 年内使用中止とさせていただきます。」

と掲載されていました。これから暫く、歩くときは、気を付けてください。

そして予定より分岐点からの出発時間が遅れてしまったので、地図を見ながら歩行時間を計算しながら歩いてしまったので、

赤木越えへ曲がる道を間違って通り越してしまい、会員さんに教えてもらって道を戻りました。

そこから山中へ入ってしまいまして、なべわり地蔵さんまでは割と急な登り道が続きます。当日は暖かいところに暑くなってしまって時間がかかりました。そして、柿原茶屋跡へ到着。

茶屋跡に建っている民家は年々朽ちています。そして茶屋跡の裏手に回り込む道を進むと「ここは熊野古道ではありません」の看板。

「え?」と困っていると、「その手前、曲がってよぉ」と、またまた会員さんに助けてもらいました。それからは急な下り道となっていきます。

13:15にやっと湯の峰温泉に到着しました。温泉の匂いが立ち込めて、「大日越えをやめて温泉にはいりたい!」気持ちが増えてきますが、滅多に大日越えコースを企画できないので頑張って歩く事にしました。

昼食の後、脇腹が痛くなりながら急な坂道を上りました。ところが今回は、思ったよりも早く鼻欠地蔵さんに到着しました。

お地蔵様のお顔は、長い年月風雨にさらされ表面の風化磨耗が相当進んでしまっていました。

午後になっても暖かさは変わらず、木漏れ日のなか歩き進むと、幾つかの大木が真っ赤に光っているのです。

「何の木やろ?」と路肩に近い大木に近づくと檜と解りましたが、表面の皮が剥がされていました。「檜皮葺に使ったんやろか?」と皆さんと話をしました。

そして、今度は青い色が見えてきました。熊野川です。大斎原も現れました。短い距離ながら、大日越えは疲れました。

国道168号の旧道を進み大斎原へ。入口にある梅の木の蕾はだいぶ大きくなっていました。

寒波は厳しいですが着実に春は近づいています。本宮大社では、今年一年も無事に歩けるようお願いしてきました。今年もよろしくお願いいたします。

◆日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」シンポジウム

平成30年1月27日に和歌浦の不老橋の南側にあるアートキューブで日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」シンポジウムが開催され、立ち見が出るほどの沢山の方が参加されました。

このシンポジウムは、和歌山市と海南市の31の文化財から構成される日本遺産「絶景の宝庫・和歌の浦」の歴史的な魅力を広く発信するとともに観光資源としての可能性を探ろうと「和歌の浦日本遺産活用推進協議会」が主催したものです。

はじめに、日本遺産認定審査委員会の委員長で筑波大学教授の稲葉信子(いなば・のぶこ)さんが「日本遺産を活用した観光振興のモデル」と題して基調講演しました。

稲葉先生は、「世界が求めていても、世界遺産で出来なかったことをできるのが日本遺産」と話され、「日本の正しい歴史として紹介できるのが日本遺産。

しかし、地域の思い込みと旅行者の勝手な期待がある」と様々な例を紹介されました。

また、「海外の文化財や街の景観を守る取り組みを紹介しながら、点在する文化財に繋がりを持たせてプロデュースすることが重要だ」とも話されました。

続いて行われたパネルディスカッションでは、和歌山市の尾花正啓市長と海南市の神出政巳市長、「紀伊万葉ネットワーク」会長で近畿大学の村瀬憲夫名誉教授、和歌の浦観光協会の坂口宗徳会長、和歌の浦日本遺産活用推進協議会会長で和歌山県商工観光労働部長の山西毅治氏が登壇されました。

この中で、尾花市長と神出市長が散在する文化財を「和歌」というテーマでまとめて申請した経緯や、それぞれの文化財の歴史や特徴を紹介しました。

村瀬教授は、「予備知識のない景観と予備知識のある景観」について「味のあるコクがある、違いが分かる絶景の和歌の浦」と話され、昭和世代の参加者の共感を得ました。

坂口会長は、「この地に来なければならない理由を作ること、仕掛けを作ることが必要」と話されました。

そして山西部長からは「昔、和歌が風景を表現する方法しかなかった。申請にあたりストーリーとキャッチコピーの大切さを考えた」と話されました。

稲葉先生は、「日本遺産には、既存にない新しい手法が必要になってくる」と、私達に今後の期待を述べられました。

◆安珍清姫伝説を日本遺産に 和歌山県が文化庁に申請

(02月03日 17:00 AGARA 紀伊民報より転載)

和歌山県は、文化庁が認定する「日本遺産」に、日高川町の道成寺や紀南地方で語り継がれている安珍清姫の伝説を基にした物語を申請した。結果は4月下旬に発表される予定。

県が申請したのは、安珍清姫の伝説を基にした「今も息づく『語り』〜安珍と清姫がたどった道」。

928年、いまの田辺市中辺路町に住む清姫が、いまの福島県から熊野詣でに来ていた僧の安珍に思いを寄せるが、裏切られたことを知り、大蛇になって追い掛け、安珍が隠れた道成寺の鐘に巻き付いて焼き殺す伝説がある。この伝説は、熊野詣でとともに全国に広がって多くの古典芸能に影響を与えたといい、道成寺だけでなく縁の各場所も名所になり、地元で語り継がれている。

関連の文化財として、道成寺のほか、清姫の生誕地にある田辺市中辺路町の「一願寺」、大蛇になった清姫がよじ登って安珍を見付け、悔しさから枝をねじ曲げたという田辺市上野の「捻木の杉」、清姫が安珍を追い掛ける途中に喉を潤したという田辺市古尾の龍泉寺にある「清姫の井戸」、清姫が追う時に袖をすったというみなべ町の「袖摺岩」などを申請した。

和歌山県は、文化庁が認定する「日本遺産」に、日高川町の道成寺や紀南地方で語り継がれている安珍清姫の伝説を基にした物語を申請した。

◆12月24日20周年記念フォーラム終了!

今回のフォーラムは事前申込不要にしていた上に、数日前から天気予報は雨だったので、何人の方に来ていただけるか不安でした。

そして、会場設営、配布物の仕分け、受付に至るまで沢山の方々にお手伝いいただき開場したところ、和歌山市内はもちろん、

岩出市、海南市、紀の川市、田辺市、橋本市、上富田町、串本町、広川町、美浜町、東京都世田谷区から85名の方に参加していただき、沢山の懐かしい方とお会いする事できました。

先ず、和歌山県世界遺産センターの辻林浩センター長が「『紀伊山地の霊場と参詣道』の登録の経緯と追加登録について」をテーマに講演していただきました。

「パワーポイントを使うと話が途切れるから」と映像なしで約1時間立ちっぱなしでお話していただきました。

世界遺産登録に向け、県の担当職員だった当時、文化庁や奈良県、三重県と調整し、電線の地中化など文化的景観の復元に取り組んだことを振り返えりながら、

「1999年の南紀熊野体験博から本格的に部署ができ、県職員もまず歩くことから始めた。準備会は1997年から歩く会などの活動を展開しており、登録に向けた動きは民間が先行していました」

と伺うと私も懐かしく当時を思い出していました。

20年間無謀な挑戦をし、登録後は熊野古道を歩いていて問題が有ると世界遺産登録エリアの有無に関係なく何でも和歌山県世界遺産センターに苦情や相談をする弊会のフォーラムでセンター長に講演をしていただけた事は本当に嬉しい事でした。有難うございました。

続いて開催した座談会「歩みたどった20年 創りあゆむ20年」では、海南市の写真家・大上敬史さん、和歌山県国際担当参事の津井宏之さん、わかやまNPOセンター副理事長の志場久起さん、ニュース和歌山記者の林祐司さん、辻林センター長(アドバイザー)に登壇していただき、和歌山ユネスコ協会事務局長の高垣晴夫さんに進行役をお願いしました。

熊野古道を歩いて35年になる大上さんは、県民にもほとんど認知されず、整備もされていなかった熊野古道の当時の状況などを紹介されました。

志場さんは「世界遺産登録への準備会の取り組みは、若者が和歌山を変えた先駆的な事例」とたたえていただきました。

津井さんは、昨年の追加指定の際に「海南や有田、日高地域を含めることができず残念」と話され、京都から始まる熊野参詣道全ての登録が実現する未来に期待を寄せられました。

林さんは「「高齢化が進み、古道沿いの文化が失われつつある。道の補修や観光施設の整備は大切だが、人の手で継いできた文化を守ることも必要」と強調されました。

司会者で登壇させていただいていた私は、「異なる宗教が共存する熊野古道を、世界の平和活動に生かそうと続けてきた。『熊野古道』ではなく、『熊野信仰』もとらえ、登録地を拡大し、世界への発信力を強めてゆきたい」と今後の活動についてお話しました。

20年の間、天候の良し悪しに関わらず、毎月開催するウォーキング定例会に参加していただきありがとうございました。

最後になりましたが、今フォーラムを開催するにあたり、ご理解とご協力、アドバイスをいただきました皆様に深く感謝申し上げます。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

第229回 平成29年12月17日 コース:コース:南部駅~紀伊田辺駅 約9.4km

今回弊会の20周年記念フォーラムを開催するにあたり、過去の資料を整理しておりました所、平成24年にさかのぼって定例会回数のカウントを間違っていたことが判明しました。

申し訳ありません。2回少なくカウントしていました。ここにお詫びし、訂正させていただきます。よろしくお願いします。

さて、今月の定例会は、企画した時に路線バスが11月~4月迄運行していないことが解からず計画してしまいました。申し訳ありませんでした。

このため10月の台風で中止した「南部駅~紀伊田辺駅」のコースを歩く事にしました。

早朝の集合でしたが、数年ぶりに岩出市から参加いただいた方と田辺市内の新しい方を含め13名の方に参加していただきました。

南部駅を出発して鹿島神社に到着して神社の説明をさせて頂いた時、質問をいただき困っていたところ、正月準備をするために来られていた平服の宮司様が居られて教えていただきました。

またなんと11月30日に、毎日放送の午後の番組「ちちんぷいぷい」の「昔の人は偉かった」で「近畿の湯治場巡り15章」が放映され、

和歌山県日高郡印南町「かえる橋」から次の温泉「みなべ温泉」を目指すあの2人が鹿島神社がを訪れていたのでした。

江戸時代に使われていた手筒花火の大筒を2人が何十年ぶりに外へ運び出したりして、たいへん賑やかだったそうです。

するとその大筒が保管されている倉庫の天井に設置されていた物について某会員さんが質問をされました。

宮司様も最初は詳細は決まっていないと話されましたが神社には昔船もあったそうで、色々と話をしているうちに「これは船の上で使っていた羅針盤ではないだろうか?」とロマン溢れる話となりました。

そして、当日はとても強い風がでしたが国道42号線沿いに歩いて「平家塚」向かいました。

今回は地元田辺市の会員さんが多く参加していただいてまして、この塚まで道案内してくださいました。

「平家塚」のあるみなべ町堺の在所では、今なお年に一度地元の常福寺が平家祭りを行っているだけでなく、五月の節句の時に鯉のぼりを上げないそうなのです。

これは、壇の浦で敗れた平家の落武者が小船に乗ってこの浦に流れついて住み着き、ある年の五月の節句に平家の赤い吹流を立てていたのが、残党狩りにきた源氏方の武士に見つかり、一族が皆殺しにされてしまった事を堺の人々は深く哀れに思い、彼等の霊をなぐさめるために、その後は吹流(後に鯉のぼり)を出さぬことにしたといわれています。また、落武者狩りに遭わないように前もって鯉のぼりを出さぬことにしたお話や羽柴氏の南征のおり、湯川氏一族の一部が堺浦に住みつく者もあったため湯川氏一族であることを隠すために、家紋のあるのぼりを立てぬことにしたとの話もあるそうです。

次に11月18日にマスコミで報道された芳養王子へ到着しました。このたび国の文化審議会は、和歌山県御坊市薗の元造り酒屋「伊勢屋」の北蔵、南蔵の2件を新たに国登録有形文化財(建造物)に、

国史跡「熊野参詣道」紀伊路に王子跡など3カ所(「愛徳山王子跡北東参詣道」、「塩屋王子跡」、「芳養王子跡」)、「広村堤防」(広川町広)に一部敷地を追加するよう文部科学大臣に答申されたのです。

紀伊路の世界遺産追加登録への一歩ですね!そして、牛の鼻へ立ち寄り、天神崎を周って田辺市内へ入りました。

潮垢離浜跡、出立王子跡と進み、闘鶏神社へお昼に到着することができました。地元田辺の会員さんに沢山道や地元のお話を教えていただきながら歩けました。

そして1本早い電車で帰ることが出来た会員さんも居らっしゃいました。有難うございました。

平成29年も事故なく怪我無く無事に歩くことが出来ました。参加者の皆様のご協力に感謝いたします。(小野田真弓)

◆第226回定例会 平成29年11月19日(日)牛馬童子口~小広峠

2か月続いて天候が悪かったですが、今月は晴れました。また、8時2分紀伊田辺駅発の路線バスは今月も外国人の方が多かったです。

バスのカーテンを閉めたいほど日射しが強くなってきたのですが、福定の大銀杏の紅葉を見逃さないよう田辺市中辺路町福定に近づくとカーテンを開けました。

銀杏は黄色く色づき、朝日に照らされキラキラして綺麗に紅葉していました。外国人の方も「Beautiful!」と叫んでおられました。

そして牛馬童子口のバス停で降りると駐車場が地元の方がテントを建てたりと作業をしています。尋ねると今日この駐車場の中でイベントがあり中辺路町の物産を販売されるとか。

私たちは開催される前に出発しなくてはならず買い物ができなくて残念がっていると会員さんに紹介されて、道の駅の売店で地元の方が作った「コンニャクいなり」という寿司を買いました。