新着情報

第240回定例会 平成30年11月18日()

コース:JR東岸和田駅~佐野王子 約8km

朝、JR東岸和田駅へ到着すると「今回も見送りに来ました」と岸和田市在住の会員さんが出迎えて下さいました。前回平成27年10月18日に開催した第201回の定例会の朝もきていただいたので3年ぶりでした。弊会が活動をはじめた平成9年からの会員さんですのでもう21年!滅多のお逢いできませんが嬉しいです。そして府道30号まで歩いて、移設されていた道標の前で記念写真を写したのですが、携帯電話で1115日~25日頃に写した写真が全部残っていないのです。ずっと探していて調べるのですがありません。先週メールが使えなくなり、ドコモメールのバージョンアップをした時に一部うまくダウンロードできなかったようです。せっかく撮っていただいたのにショックです。今後は撮影後、当日自宅パソコンに転送し保存します。

今回のコースは殆ど土の道がないのですが、JR東岸和田駅から山側へでて、府道30号を渡ってはじめの道を右に曲がって徒歩5分位のところにある「道の池」には残っています。大きな池で道しるべ地蔵もあります。ところが久しぶりに歩くので曲がる道を見逃してしまい、見つかった時は池の端まで来てしまっていました。

戻ろうか思案していたところ、参加者の方がこの池の開発入札が行われ、業者が決まり、堤の上を通る熊野古道を歩けるのも後わずかになったことを知らせる事をネットで見つけて下さったのです。これは行くしかない!と戻りました。ネットに掲載されていた道より雑草が増え、また堤を全部歩くことが出来ませんでしたが、少しでも歩けて良かったです。大阪府内はどんどん開発されていきますね。道しるべ自動の移転先が解れば、お知らせします。そして「浅宇川(麻生河)王子跡」と言われる工場に到着。910月の台風の被害によるものなのかお社が壊れていました。今回のコースの周りでは、ブルーシートで屋根を覆ってあったり、お寺の瓦が崩れ落ちたままになっていたりと復旧工事が進んでいない現実を知りました。また、点在する池は水が抜かれていました。来年の水田づくりのためなのか、池の底に溜まったゴミをとっているようでした。また、参加者の方が、前日に根来寺周辺のウォーキング会に参加されたお話を伺っていたところ、根来寺と縁のある「積善寺城跡」に到着しました。天正5年(1577年)雑賀侵攻の時には積善寺城は出てこないようですが、、天正9年(1581年)高野攻めには「城郭取立也」とあるそうです。また天正11年(1583年)秀吉の紀州攻めでは、中村一氏を岸和田城に入城させ、雑賀衆、根来衆に備えた重要な場所だったそうです。「天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに豊臣秀吉が出撃した隙を狙って、雑賀衆、根来衆連合軍は、中村城、沢城、田中城、積善寺城、千石堀城を5城を付城として岸和田城の5町ばかりを隔てて、翌天正13年(1585年)正月始めまで幾度か小競り合いが続いたが、同年116日雑賀衆、根来衆連合軍は7つ付城から岸和田城を攻城、中村一氏隊も反撃している。同年318日に雑賀衆、根来衆連合軍は紀伊国より出撃、同年321日岸和田城から豊臣秀吉軍が出軍、戦いとなり鳥羽城、中村城、積善寺城は放火や落城した。この時豊臣秀吉軍は、地蔵堂丸山古墳に陣を置き積善寺城と対峙していた。豊臣秀吉は卜半斎了珍を仲介とし畠中城、沢城は開城した。」と『ウィキペディア(Wikipedia)』で説明されています。

そこからJR阪和線を渡り『地蔵堂丸山古墳』へ行き古墳の上まで上りました。南近義神社昼食休憩をしました。その後「吉祥園寺」を探し出せず貝田王子へ向かいました。3年前はだんじりの山車を地元の方に説明してもらったことを思いだしました。今年の夏は暑くて歩く距離を短くしたので、前回までと違い2回遅くなっています。年々、体力と天候が変わってくるので気を付けなければなりません。今回もお疲れさまでした。


徳島・阿南・加茂谷 四国遍路道フォーラム2018

 国史跡に指定された「阿波遍路道」のうちの「かも道」の保全をしている「加茂谷へんろ道の会」は、会員の多くが70代に入り、倒木の撤去などの力仕事が厳しくなってきている等の高齢化による担い手不足に頭を悩ませている現状を知ってもらい、今後の担い手を確保しようと12月2日午後1時半から、阿南市富岡町の市文化会館で「四国遍路道フォーラム2018」を開催されました。

「かも道」は、四国八十八カ所霊場の二十一番札所の太龍寺(阿南市)と二十番札所の鶴林寺(勝浦町)の間にあり、寺までの距離を示す「町(丁)石」には南北朝時代の年号が記され、道の一部は史跡指定されています。

四国の遍路道は約1400km、うち残っている土の道が約100km、そのうち史跡登録は23km、このエリアは8.6kmが史跡登録されています。

 会は13年に発足し、遍路道の保全整備活動や、ウオーキングイベントの開催、遍路道マップの作成といった取り組みを進めてられたます。台風や豪雨になると、次の日には数人の会員が現場へ向かい点検。被害があれば、倒木を撤去するなど応急措置を講じ、お遍路さんが通れるようにされています。

会長の横井知昭さん(73)は「高齢化で腰が痛くなるなど、体が厳しくなってきた会員も多い。フォーラムで少しでも興味を持ってもらい、10年先も遍路道の維持管理ができるようにしたい」と話されています。

 フォーラムは3部構成で進められ、1部は私が『「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産登録にいたる民間活動の経過について』21年間の活動のお話をさせていただきました。2部では横井会長による活動報告が行われました。

3部では、徳島大学教養教育院 准教授で四国遍路研究家のモートン 常慈先生と四国霊場22番札所平等寺の谷口真梁副住職が「世界が注目Sikoku88」をテーマにディスカッションが行われました。外国人の方がお遍路さんを巡った歴史から現状までお話されました。私は前日開催された「四国最古のへんろ道、特別ガイド・ウォーク」に参加させていただき「かも道~太龍寺~いわや道」を歩かせてもらいました。柔らかい歩きやすい道で、横井会長から様々なお話を伺いながら楽しく歩かせてもらいました。

21年ぶりにお会いできた方が来られていて感動した二日間でした。(小野田)

第239回定例会 平成30年10月21日()

コース:伊勢路 大泊駅 ~浜街道(北)~ 阿田和駅

 

前月歩いた続きのコースです。以前の定例会は、大泊駅から松本峠(世界遺産登録地域は約0.7km)を越し、獅子岩から花の窟へ向かい有井駅まで歩い終了していましたが、今回は紀宝町まで約20kmの日本一の砂礫海岸「七里御浜」の北半分「浜街道(世界遺産登録地域は熊野市井戸町~鵜殿村の18km)」の砂浜を歩くことに挑戦しました。

 久しぶりに歩くので、松本峠の入口までは少し悩みながら辿り着きました。

入口から急な坂道になりますが、美しい江戸時代の石畳が残っています。竹林に囲まれた峠では、建ったその日に妖怪と間違えられて鉄砲傷をつけられてしまったという、大きなお地蔵様が出迎えてくれます。

鬼ヶ城から木本神社まで道が繋がっていると勘違いして頂上から鬼ヶ城まで行きましたが、行けなくて松本峠へ戻ることになってしまいました。 

松本峠の南側は、明治元年に木本と古泊の漁師が鮪の水揚げに関する騒動を起こし代官所が罰として漁師達に築かせた石畳でした。暫く木本の古い街並を歩き木本神社へ到着。そこで作家の故中上健次さんの出身高校は木本高校と説明しましたが、和歌山県立新宮高等学校でした。すみませんでした。 

そして国道42号線を渡って七里御浜の砂浜へおりました。最初は機嫌よく歩いていたのですが、獅子岩が近くになるにつれ砂に足が埋まって歩みを乱し始めました。やっとのことで獅子岩に辿り着きましたが足が疲れてしんどくなっていました。このままでは到着地点の阿田和駅まで歩けなくなります。この先の砂浜を歩くのを止めました。花の窟で暫く休憩し出発しました。

「有馬立石の道標」は、追分として、左は浜街道を経て新宮、右は本宮道を経て本宮に至りますが、本宮への道は神木までは大変難儀な道だそうです。

また国道42号線に出ましたが浜に向かわず、手前の松林を歩こうとしました。道を探しましたが倒木があり落葉が散乱していて歩けそうにありません。それで浜との間にあるセメント造りの堤防を歩くことにしました。天気が良いけれど日差しはキツクなく、風も心地よく吹き、左手には熊野灘の雄大な海が広がり、歩くにはもってこいの条件なのですが、歩けど歩けど景色が変わりません。1時間近く歩いて、やっと河口らしき物が見えてきました。

阿田和駅までは志原川と市来川があります。かつては橋もなく、波の引き間を利用して河口の浅瀬を走り渡りましたが、波にのまれる人もあり、巡礼供養碑があります。今は橋が架かり安心して歩けます。市来の一里塚を越えたら、もう少しで阿田和駅です。すると道沿いにリンゴのような真っ赤なみかんが売っていました。(帰宅しネットで探しましたが見つかりませんでした)

日も暮れてきてJR阿田和駅前にある「道の駅 パーク七里御浜」に予定時間より10分遅れて到着しました。伊勢路を歩く機会が滅多にない事なのですが、鬼ヶ城の所で時間をとってしまい、砂浜を歩き疲れさせてしまいスミマセンでした。次回の伊勢路は、研究と下見を怠らず開催したいと思います。

第238回定例会 平成30年9月16日()

コース:伊勢路 新鹿駅~鎌倉期の石畳~波田須駅〜大吹峠~大泊駅 

前回このコースを歩いたのは、平成22221日第139回でした。9年ぶりに訪れた道は、石畳にたっぷり苔が生えておて、歩く方が殆どおられないような雰囲気でした。

8月末に発送した会報誌には、台風の被害で道が崩落し歩けなくなったり、鉄道が運休し現地に行けない事を考慮し、大阪市内のコースも記載しておりましたが、三重県の世界遺産センターさんに尋ねたところ、伊勢路は台風被害がなく、当日も鉄道で移動できました。

また、久しぶりに歩くコースだったのですが、下見に行けなかったので、不安と共に出発しました。参加者のみなさんと台風被害状況をお話しながら、記憶を辿りながら世界遺産登録資産の「鎌倉期の石畳」へ向かいました。 

その石畳の石のサイズはまばらでしたが大きかったです。また、ネットで見た石畳の写真では、江戸期の石畳との境目がはっきりくっきり確認できるはずでしたが、雑草が生い茂っていたためか今回は、見つけられませんでした。

そして、「徐福の宮」の鮮やかな朱色の鳥居を見ながら波田須駅へ向かう道を降りていきました。暫く進むと分岐点があり、駅へ向かわず、山手に上り「文字岩」を見に行ってから、道に迷いました。ガードレールが曲がって張られていた「熊野古道」の矢印が解り辛くなっていたり、波田須の峠の入口にはあった「熊野古道」と書かれた幟(のぼり)がなかったこともあり、30分近く彷徨っていました。やっと道沿いの民家から94歳のおばあちゃまが出てきてくださって道を教えていただき、大吹峠入口へ辿り着くことが出来ました。大吹峠へ向かう坂道は急で疲れましたが、峠から大泊駅へ向かう道の両側に広がる竹藪は明るく広がっていました。

途中倒木もあり、台風が通った跡が見受けられました。本当に遠い遠い伊勢路でした。参加者のみなさん、お疲れ様でした。

第237回定例会 平成30年8月19日()

コース:JR和泉府中駅~JR東岸和田駅 約7.5km

8月も過去に経験したことのない気象環境に驚く毎日で、定例会当日は、「どれほど暑くなるのだろう」と心配しておりましたが、思ったより涼しく歩くことが出来ました。

JR和泉府中駅から泉井上神社へ向かいましたが、前月の定例会で暑い中に歩いた時と違い早く到着しました。そこから静かな住宅街を歩き井ノ口王子跡へ向かいました。

梶尾川を渡り、橋のたもとにある石の道標を見ました。けれどもこの道標が説明している寺の方向が違います。それは元々違う場所に置かれてあったものが道の整備により移動されたのでした。

そして、街道マップ通りに歩くと松尾川に架かる「小栗橋」へ到着するのですが、マンションが数棟建設され、

川の流れが変わっていたり暗渠になっていたりして過去の定例会では毎回迷子になっていたので、今回は安全策で府道30号を歩くことにしましたが、

途中にある毎日乳業工場の前で地元の会員さんが「小栗橋」へ行く道を案内して下さって、念願の「小栗橋」を渡ることが出来ました。

そして府道30号へ戻り、久米田駅前の踏切を渡り、「池田王子跡」へ向かいました。この王子跡は、今迄「推定地」だったので訪れたことがなかったのですが、

数年前に地元の教育委員会が説明板も設置されたので辿り着くことが出来ました。

既に予定の半分まで歩いていたので、「歩きやすい日和だから、日根野まで行こうか?」と参加者の方に提案していただいたのですが、

安全策をとって予定通りに東岸和田駅で終了する事にしました。それで、時間があるので、熊野古道から20分ほど東方にある「久米田寺」へ向かいました。

「久米田寺」は、久米田池を維持管理するために、行基が天平10年(738)に久米田寺を創建されたと言われています。

高野山古義真言宗の寺院で境内は広くて多宝塔や金堂などが建立されていました。また、諸説ありますが「久米田」の名称には「八木」から「粂」に転じたといわれています。

そして、この寺の南東にある「久米田池」は、大阪府最大の水面積を有する池です。

当時「八木郷」と呼ばれたこの付近一帯は水に乏しかったため、聖武天皇がこの池の開削を行基に命じ、

神亀2年(725年)から天平10年(738年)まで14年におよぶ工事を経て完成しました。

そこから目と鼻の先の所の「貝吹山城」にある貝吹山古墳へ向かいました。

全長約130m、最長部は標高44m、比高8mで前方が北西に向けている前方後円墳です。久米田寺との縁が深い橘諸兄の墓ではないかという古くからの伝承があり諸兄塚とも呼ばれています。

また、近くには聖武天皇皇后にして橘諸兄の異父妹にあたる光明皇后に関連する「光明皇后塚(光明塚古墳)」もあります。

光明皇后は仏教の庇護者で、重症の癩病患者の膿をみずから吸ったところ、その病人が阿閦如来であったという話はよく知られています。

そして、この一帯は永禄5年(1562)三好実休(南宗寺を建立)と畠山高政(紀伊・河内国の守護大名)が戦った「久米田古戦場」でもあります。

そして熊野古道へ戻り、積川神社遥拝所へ到着しました。暫く車道を歩き、和泉式部縁の下松町へ入りました。

けれども和泉式部の「筆塚石碑」と「硯塚」は見つけられず「轟橋~恋の淵~恋ざめの淵石碑」を訪れました。

そして府道30号の際にあるフェンスに「和泉式部歌碑」と手書の看板を見つけました。「どんび淵」でした。

そして車道を避け、JR東岸和田駅へ向かうために脇道を入ったところ、「夜泣き石」を見つけました。

お寺は慈光寺でした。この石は、近世中期、堤(現貝塚市堤)の釈迦堂前に置かれた飾り石を沢の百姓たちが無理やり持ち帰って、

溝の渡し石にしたところ、石はその夜から、「往(い)にたやな、堤-堤-」と、ひとしきりむせび泣いたといわれています。

そして線路に平行して歩き進み、JR東岸和田駅へ到着しました。今回も新しい名勝旧跡を訪れることが出来ました。暑い中、お疲れ様でした。

 

←元の様子「どんび淵」8月16日の様子⇒

第236回定例会 平成30年7月15日()

コース:鳳駅~和泉府中駅 約7.5km

猛烈な暑さが続く中、総会で決めたコースの半分の距離にして第236回の定例会を開催しました。

先ずJR鳳駅から大鳥神社まで移動。本殿に参拝した後、本日訪れる一つ目の王子跡「大鳥居新王子」が合祀されている摂社の大鳥美波比神社へ参拝しました。

大鳥美波比神社はもともと大鳥郡北王子村にあったといわれており、明治12年(1879)に大鳥神社境内へ遷座されています。

そしてJR鳳駅へ向かって道を戻り商店街の中を暫く進み、大鳥美波比神社があったとされる北王子村=堺市西区鳳東町7丁のNTT鳳営業所付近へ到着しました。

暑いので日陰に入って説明した後、府道30号へ出て、古事記にも掲載された巨木伝説のある「等乃伎トノキ神社」で一休みしました。

そこから信太山駐屯地手前の八坂神社までは木陰や公園がなく、車道をひたすら歩きます。

途中で安倍晴明ゆかりの信太森葛葉稲荷神社へ立ち寄ってはと提案いただいたのですが、熊野古道から離れJR阪和線を越えて行ったり来たりすると体力が落ちてしまうので、

信太森葛葉稲荷神社へは行かずに予定通り聖神社一之鳥居~篠田(信太)王子~小栗地蔵尊~八坂神社まで来ました。約1時間ごとに神社で小休憩をしました。

そして後鳥羽院歌碑のある公園へ立ち寄って平松王子跡の碑がある交差点に到着しました。すでに12時近くになっていました。

そして、熊野古道から3分ほど離れた場所にある伯方神社に今回初めて訪れました。

この神社の西側には新宮山龍雲寺というお寺がありますが、寛治年間(1087)白川法皇が熊野行幸の時に御脳を患い、

この地よりはるかに熊野山に向かい全快を祈念したところ、飛龍降臨のめでたい前兆を感じられ、使いをもってこの地に飛龍権現の分霊を請い迎え当山の鎮守とされたそうです。

石碑も残されてあり、先に参拝し、昼休憩をとることにしました。

 ここの伯太神社は、飛鳥時代の白鳳2年(674)の創建といわれ式内社で、御祭神は、応神天皇・比売神・伯太比古命・伯太比売命

・天照皇大神・小竹祝丸・天野祝丸・熊野大神・菅原道真・天児屋根命の10柱もの神様を祭祀しています。

さて「小竹祝丸・天野祝丸」は、「日本書紀」の神功皇后の章に登場し和歌山に縁のある「小竹祝と天野祝」の方々です。

「日本書紀」の神功皇后の章には、『神功皇后が忍熊王を攻めるため、小竹の宮に入ると夜のような暗さが何日も続いている。

紀直の先祖・豊耳に尋ねたところ、「阿豆那比の罪(二人の神官を合葬する)」であると言う。

小竹祝(御坊市・小竹八幡神社の神官)・天野祝(丹生都比賣神社の神官)という仲の良い二人の神官がいたのだが、小竹祝が病死。これを悲しんだ天野祝が、

小竹祝のなきがらのそばで亡くなり、一緒に葬ったことがあったのだという。墓を開けて棺に納めなおし、別々に葬ると、昼が戻った』とあります。

一方で、2人の神職の同性愛に伴う罪とも指摘される場合があります。

ただ何日も暗闇が続くという天変地異を起こした罪であるにもかかわらず、この「阿豆那比の罪」は以降の他の文献では確認できないというサイトもあるのです。

そしてこの神社は、罪に問われた二人を「神」として祀られているのです。

そして泉井上神社へ向かいました。午後の日差しは余りにも強くて、途中コンビニに立ち寄りアイスクリームを食べて体の中を冷やしました。

やっとのことで神社の到着。参拝の後、JR和泉府中駅へ向かいました。暑い中、お疲れ様でした。


第235回定例会 平成30年6月17日()

コース:住吉東駅~「百舌鳥・古市古墳群」~百舌鳥駅約 14km

今回のコースの中には、平成312019)年度の世界文化遺産登録をめざしている「百舌鳥・古市古墳群」の登録申請物件があり、

せっかくなので「百舌鳥古墳群」を訪れたいと思いまして、前半は前回終了した住吉東駅から方違神社まで熊野古道を歩き、後半は約7km「百舌鳥・古市古墳群」を巡りました。

住吉東駅を17名で出発し、宝泉寺、住吉大社と進み、今回初めて訪れる一休禅師牀菜庵跡、南朝後村上天皇崩御の住吉行宮跡、後鳥羽天皇行宮跡、止止呂支比売命神社(津守王子跡)を歩きました。

大和川の雲上地蔵尊へ立ち寄って、堺市境王子へ向かい、予定通り方違神社に到着。昼食の休憩を取りました。

方違神社に隣接し、堺市のやや北部に位置する「百舌鳥古墳群」は、日本を代表する古墳群で、かつては100基以上あったといわれますが、現在は44基が残っています。

その中の21基が申請物件になっています。「古市古墳群」は、羽曳野市と藤井寺市にある計123基で、その中の24基が申請物件です。

「百舌鳥古墳群」北端にある反正天皇陵古墳、永山古墳を経て世界3大墳墓のひとつで日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵古墳周遊道路を約半周した後、

正面に向かい仁徳天皇陵古墳拝所を参拝しようとしたら観光ボランティアガイドの方が「説明しましょう」と声をかけてくださったので、20分ほどお話を伺いました。

そこから大仙公園内の遊歩道を通り日本で3番目に大きい百舌鳥耳原南陵・履中天皇陵古墳周りの散策と拝所の参拝後、いたすけ古墳へ。

御廟山古墳を経て樹齢700800年とされる大くすで有名な百舌鳥八幡宮を参拝しました。ここの「ふとん太鼓」は有名で、

和歌山県の南部駅近くにある鹿島神社でこちらの神社のふとん太鼓の話を伺ったことを思い出しました。

最後に前方部が大きく広がった姿が古墳群で最も精美といわれるニサンザイ古墳を訪れ、終了しました。

そこから、南海高野線中百舌鳥駅とJR百舌鳥駅へ分かれて向かいました。今回も歩きすぎてしまいまいした。皆様お疲れさまでした。



第234回定例会 平成30年5月20日()

コース: 天満橋駅・八軒屋船着き場跡~住吉東駅  約11km

平成30520日の定例会は爽やかな天候の下、開催しました。

先ず、八軒家船着場跡の永田屋昆布本店前へ集合。日曜日でお店は営業していませんが、日曜日の朝にもかかわらず自転車やランニングをしている人など往来者は少なくなかったです。 

続いて、幕末に徳川慶喜さんが大阪城に来た時、新選組が止まったと言われる宿「京屋忠兵衛」の店の跡にあるはずの看板をみつけようとキョロキョロ探しましたが私の目線では見つかりません。

すると屈んでいた会員さんに見つけてもらいました。

そこから熊野古道九十九王子の第1番目の王子跡と言われる「窪津王子」のある坐摩神社行宮へ参拝しました。その宮の真向かいのビルは「豊臣氏大坂城内武家屋敷跡」になっています。

今年度の目的である「今まで割愛してきた名勝旧跡や熊野古道に関連はないが、ちょっと足を延ばせば見れる地元の名勝旧跡も訪れよう」の試みのはじまりです。

そこから暫く進み、交差点の左手を見上げると大きな鐘がぶら下がっているのが見えます。「釣鐘屋敷跡」です。

寛永11年(一六三四)、三代将軍徳川家光さんが大阪城へ来た時、大阪の町中の地子銀(ジシギン=固定資産税)を永久に免除することを約束したことに感謝して造られた鐘です。

今も時を知らせる鐘をついています。続いて「太閤下水(背割り下水)」を訪れました。秀吉が大坂城築城に伴い城下町を造成し道路などと建設した下水溝は今も水が流れています。

今回はずっと車道を歩くのですが、所々に公園があって土と緑に触れることが出来ます。次に訪れた公園には水呑地蔵尊と第2番目の王子跡の「坂口王子」があります。

そこから遠くない所に「榎木大明神の神祠」があります。高速道路の下を通って空堀商店街を抜けると次の王子跡「郡戸王子」の場所と推定されている「高津宮」へ到着します。

今までの6回は、この宮の中を通って上野王子跡まで歩いたのですが、定例会の準備をしていた時にGoogleマップ上で、

宮が隣接する北側の道を東へ進んだ所に「熊野古道・地蔵坂 交差点」と「平野町筋 道標」を見つけ、今回はそちらへ向かいました。

地蔵坂交差点には何もなく、どの道との交差点かわかりません。でも平野町には道標が遺されています。

石碑の上部は東西南北が刻まれていて、東西南北のどの方向から来ても行先が解ります。ところが、その道標には建立した年月日が刻まれていないのです。

大阪市の熊野古道のマップやあちこちサイトを探してみたのですが探し出せませんでした。

そこから南下してマンションの玄関に置かれた「上野王子」跡推定地へ到着。ここは「四天王寺七宮」と言われ、

聖徳太子が四天王寺を創建した際に四天王寺の外護(げご、保護して守ること)として建立した神社群の一つです。

しかしながら『古事記』『日本書紀』および『聖徳太子伝暦』などの文献には一切記されておらず、

その存在は四天王寺七宮とされる神社の存在と各社に伝わる伝承によってのみで確認することができるとのこと。

徳太子は仏教一筋のイメージが強いですが、実は神道を蔑にしたわけではなく、神道における日本の神も篤く尊崇していたということが窺い知れます。

そして四天王寺へ入り、四天王寺「四石」の一つ「熊野遥拝石」を見て昼食にしました。

午後は先ず「四天王寺七宮」の一つである堀越神社へ参拝し「竹本義太夫墓」跡の碑を見て線路の上にある橋を渡りました。

続いて表通りから東側の旧家が残っている道へ進みました。「どこへ連れていかれるんだろう?」と参加者の皆さんは不安になってきた頃に突然ビルの谷間に真っ赤な鳥居が現れました。

「阿部寺跡推定地」です。阿部氏の氏寺と考えられ、現在の地名=阿倍野の由来にも関わっているという説もあります。

参拝後、ビルが立ち並んでいるため行止りの道にはいり迷子になり時間がかかって、やっと路面電車の線路と並行している熊野古道へ戻りました。

松虫塚によって安倍晴明神社へ。すっかり綺麗になった神社に参拝客が多くいらっしゃいました。

熊野古道へ戻り、次にあるのが今回最後に訪れる王子跡「阿倍野王子」の阿倍野王子神社です。そして隣接する印山寺があります。

ここは、823頃淳和天皇が悪疫が流行したので空海に命じて一千部の薬師経を写させ、熊野権現に祈ったところ好転したので、痾免寺の号と勅額を下賜し、

阿倍王子社の宮寺として造営したといわれるお寺ですが、何と門の脇に「第五代 桂文枝之墓所」という碑があるのです。

五代目は2004年に新作落語「熊野詣」をネタ下ろしされ、大阪・国立文楽劇場や東京・国立演芸場でも口演されましたが翌年の2005年に亡くなられました。

きっと天国から熊野街道を行き交う方々に「熊野詣」の落語を話してるんかなぁと懐かしい声を思い出していました。

最後に経塚によって路面電車の敷石の上を住吉東駅まで歩きました。

今回も寄り道が過ぎてしまい11kmの予定が万歩計では15.5kmになっていました。スミマセンでした。みなさま、お疲れ様でした。


233回定例会 平成30年4月15日()

コース:城南宮界隈散策~鳥羽街道~石清水八幡宮~京街道~橋本駅

平成30年度の第1回目で活動21年目初の定例会は、小雨降る肌寒いなか開催しました。

1201年の熊野御幸を訪ねるコースも7巡目となりまして、今年度は過去6回で訪れなかった名勝旧跡や街道に立ち寄りながら歩いていこうと計画しています。

先ず、新義真言宗智山派の安楽寿院へ到着しました。この一帯は中世・院政時代に栄えた鳥羽離宮の北殿があった所です。

ここには近衛天皇安楽寿院南陵、鳥羽天皇安楽寿院陵があり親子で葬られていますが、元々は鳥羽天皇が生前、寵妃で近衛天皇の生母の藤原得子(美福門院)と一緒に葬るように遺言していたのです。

けれども得子は拒んで高野山への納骨を懇望し、そのことを知った天台僧から「弘法大師(空海)を尊び、伝教法師(最澄)を賤しめる行為」との抗議があったにも関わらず、実現させました。

続いて、大治5年(1130)、覚鑁が鳥羽天皇の病気平癒を祈願した際に不動明王が出現して治癒したことから、勅願寺として開山されました北向山不動院へ向かいました。

そこから国道を渡って、白河天皇成菩提院陵に到着。応徳3年(1086)に堀河天皇に皇位を譲り院政を始められ、

当時の貴族の日記に「その威権は四海に満ち、天下これに帰服した」と評される程に政治の実権を掌握される方が、1090年熊野詣でをされます。

この後9回もの熊野御幸を行い、熊野信仰が熱狂的な高まりを見せるきっかけとなったと言われています。

熊野詣でをした理由の一つに天皇には皇室祖先神として伊勢神宮がありましたが、伊勢神宮は創建の由来からいって藤原氏と強く結びついていて、

反藤原の意図を持つ白河上皇は、伊勢神宮以外の神を求めたともいわれています。

1281年亀山上皇が熊野御幸の最後といわれますが、熊野詣でが盛んだった頃は、鳥羽離宮の御殿が精進屋にあてられることもあり、

7日ほどの精進を勤め、祓の儀式を納めて往復1ヶ月の旅に出立したとのことです。

そこから北へ少し歩いたところに西行寺跡があります。西行(1118-1190年)が北面の武士として鳥羽上皇に仕えていた

頃の屋敷跡を寺に改めたと伝えられています。江戸時代の『都名所図会』の挿絵に、草庵や月見の池、剃髪塔も描かれていますが、今は地蔵堂だけが残っています。

 そこから南に歩いた所にある城南宮では、413日から始まった方除大祭の最終日でした。この間に日に2回約1時間の奉納神楽がありましたが、時間がないので見るのを諦めランチをして出発しました。

また、甘酒(アルコール無)のお振舞いがあり、少し寒かったので暖かくなりました。

それから、昔話で親しまれる一寸法師は、舟に乗って都を目指し、城南宮の南にあった鳥羽の津に着いたそうです。

 おせきもち本店の横道を通りながら、今年の大河ドラマは時間が早く進む、篤姫の婚礼準備の1年は5分もなかった、

鳥羽伏見の合戦もあっという間に放送されるだろうと話しているうちに、鳥羽伏見戦跡碑へ到着しました。

今回はここから鳥羽街道を進んで淀までいき、そこから京街道へはいり石清水八幡宮へ向かうことになります。

現在は「千本通」という名になっている交通量の多い車を歩きますと、恋塚寺に到着します。

1182年、北面の武士であった渡辺左衛門尉源渡の妻袈裟御前は、夫の従兄弟で同僚であった遠藤盛遠(文覚上人)に横恋慕され、自ら夫の身代わりとなって殺されました。

この寺は袈裟御前の住まいがあった場所ともいわれています。昔から袈裟御前は「貞女の鑑」と言われています。

そこから鳥羽の大石、戊辰東軍戦死碑(法伝寺)、鳥羽伏見の戦跡碑、円光大師(法然)御旧跡、横大路村道路元標、藤田権十郎邸・藤田四郎右ェ門邸跡、

魚妙教寺(淀古城跡・戊辰役東軍戦死者碑)と立ち寄りながら南へ進み、「愛宕茶屋跡の東軍戦死者を祀る石碑」に到着したとたん、いきなり右側のサイクリングロードから3名の男性が駆け下りてきました。

尋ねると「幕末の歴史を研究している者です」とのこと。この地は、『伏見街道「淀・千両松」の激戦地』と並び、激戦場だったようです。

この石碑は、地元の方が35名の旧幕軍戦死者を埋葬された後、日清戦争の頃になってようやく旧幕府軍戦死者の碑が建てられるようになったと話されていました。

天気も良くなり、唐人雁木旧趾碑、淀川瀬水車旧趾碑、與杼(よど)神社、淀城跡と見ながら進んで、二つ川を渡り、やっとのことで石清水八幡宮の下に到着しました。

参拝しない予定でしたが、参加者12人中7人の方が初めて来た方だったので男山を登りました。境内では「居合道の奉納(公開演武)」がされていました。

テレビで見たことがありましたが、真剣を間近で見たのは初めてでした。

男山を登って疲労困憊の参加者の皆さんに鞭打って、現在は京阪電車の線路が並行して通っている京街道を進みました。

道しるべをやっと見つけ、渡し場跡へ到着。

このあたりは「橋本」とよばれ、対岸の山崎とを結ぶ渡し場があり交通の要所で江戸時代から賑わっていたそうです。

明治になり京阪鉄道が開通したこともあり、遊廓ができたそうです。一時は芸妓が四百人もいたといわれる橋本遊郭跡の木造建築の外観が個性的で綺麗でした。

最後に駅前で道を間違ってしまい、そして、あちこち立ち寄り山も登って32128歩も歩いていました。参加の皆さま、すみませんでした。本当にお疲れさまでした。



第232回定例会 平成30年3月18日()

コース:世界遺産追加登録エリア小狗子峠 約4.5km

今回の定例会は、予定していた「富田坂」が公共交通機関の路線バス廃止のため中止せざるを得ず、

平成28年6月19日第209回のリベンジ「追加登録・小狗子峠」を歩くことにしました。

JR宇久井駅から国道42号線沿いに暫く歩き、ガードレールに架けられた看板を右に入り旧道へ入っていきます。

踏切の手前で車を先に通ってもらうために待っていると、その車の運転手さんに「モクレンの花をみにいくの?」と尋ねられました。

話を伺うと近くに大変大きなモクレンの花があるそうです。でもどれだけ近いか、開花しているか否か解らず残念しました。

帰って調べてみると、「那智勝浦町宇久井地区から長野川上流に向かって遡り、高津気地区に入ったところに高さは20m以上のハクモクレンの大樹が2本並んで立っている。

大きな白い花を咲き揃わせたその姿は圧巻。毎年3月初旬から中旬ごろに花を開かせる。」とのこと。当日運転手さんとお話した場所から5kmほど先にありました。

暫く住宅地の車道を歩くと道に「熊野古道KODO」とペンキで書かれた標識が現れます。その矢印に従って進むと「小狗子峠」の入口に到着します。

峠の登り口には説明板とスタンプ台があり、可愛らしい「猿」がデザインされていました。「なんで猿なの?」と皆さん不思議に思いながら、追加登録エリアを歩きました。

住宅地、車道からものの3分ほど入った所ですが、歩いてる方が未だ多くないのか、石畳はコケに覆われ、趣きのある古道が残されていました。

暫く進むと「鍛冶屋口茶屋跡跡」に到着。ここは鍛冶屋もやっていた茶屋が猿を飼うようになり「猿茶屋」と呼ばれていたと説明すると、サルの絵のスタンプの謎が解けました。

そして峠を越えて下ると42号線に戻り、「鎧かけの松」の伝説が残っている「白菊の浜」に到着しました。

平成285月に下見した時から説明板が新しくなっていて平一門の系図も簡単に書かれていました。

そのまま海岸線の車道を進み、大狗子隧道とJR線の間に残された山道を登ると大狗子峠に入ります。

大小狗子隧道は、大正元年新宮鉄道のトンネルとして開通したものです。また、地元狗子ノ川にある大徳神社によると、

大狗子峠、小狗峠という地名は、古くは大鯨峠、小鯨峠と書かれたといわれ、この一帯は鯨と深いかかわりがあったことが偲ばれます。

そして、狗子ノ川のバス停で路線バスに乗らず、電車の時間を気にしながら42号線を歩き進みました。

補陀落山寺の少し手前へから旧道へ入り補陀落山寺へ向かいました。「ここの道は大辺路ですか?」と尋ねられ、「振分石」の前で大・中辺路と伊勢路の分岐点を説明しました。

当日は、とても暖かく、桜はじめ様々な花が咲いていました。

電車に乗車している時間の方が歩いている時間より長かったのですが、何とか追加登録エリアを踏破できました。ありがとうございました。

231回定例会 平成30年2月18日() コース:高野坂~浜王子~阿須賀神社

とても暖かい1日でした。JR和歌山駅から三輪崎駅までは4時間20分電車に乗っていたのですが、車中から見えた沿線の畑や街中には、梅と緋寒桜が満開に咲いていました。

今回はのコースは、世界遺産と日本遺産「鯨と生きる」と南紀熊野ジオパークが登録されている見どころ満載のエリアです。

高野坂は旧国道で地道から石畳のある道を歩き進みます。そして道から海側に伸びる細い道を100mほど海側に進んで行った所にあるのは、

日本遺産に登録された『鯨とともに生きる』の新宮市の捕鯨文化を伝える鯨山見跡です。

そこから近道をして今光稲荷到着。お社の隣には羽指中建立の石祠があります。また道に戻って少し進むと江戸時代初期に建てられた孫八地蔵があります。

その斜め右方向に五輪塔へ向かう道の看板があり、また海岸に伸びる細い道を進んだところに建っている、石組みの壇を築いた五輪塔がありました。

ところが、新宮市のホームページの観光情報http://www.city.shingu.lg.jp/では、『寛文5年(1665)に建てられたもの』とありますが、

現地の看板には『寛永五戊辰(1628年)』と説明されていました。(調べてみます)

また道に戻ると展望が開け、美しい御手洗海岸が現れました。その前に江戸時代の中頃に三重や大阪、滋賀出身の人が建てられた御手洗の念仏碑があり、

碑の前には白い海岸の丸石が幾つか手向けられていました。浜までは遠いのに、どうやって持ってきたのだろうか?と不思議に思いながら坂をおりました。

予定よりだいぶ時間が過ぎ12時を過ぎていたので、坂を下りた所にトイレもあり、昼食にしました。

そこから浜へ向かう道を地元の会員さんに教えていただき、浜へ降りました。

いつもはさらっと歩く高野坂でしたが、今回は名勝旧跡をたずね歩きました。

国道42号線を進み、途中新宮鉄道の痕跡をみながら浜王子へ到着しました。

320まで新宮市内のスタンプラリーが行われていたので、駅でスタンプ帳をもらい阿須賀神社(王子)へ向かいました。

参拝を終えると既に午後2時になっています。此処から当初の予定通り歩こうとすると2時間はかかってしまいます。止むおえず中止し新宮駅へ向かいました。

徐福公園の交差点で記念写真を撮っていないことを教えられましたが携帯電話が動かなくなっています。

出発点の三輪崎駅に車を置いている方が多く、三輪崎へ向かう電車の発車時刻が迫っていて写真を撮らず交差点で解散しました。

落ち着いてみると携帯電話の電池切れで撮れなかったのです。ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。

一日も1年も20年もあっという間に終わってしまいました。お疲れ様でした。

廻れなかったのは、重要文化財「旧西村家住宅(西村記念館)」の保存修理(平成30年度末まで公開を休止)、

西村伊作氏設計のチャップマン邸、新宮城、熊野速玉神社、佐藤春夫記念館、

渡御前社(渡御前社は「神武さん」とも呼ばれ、神武東征の折の神武天皇の頓宮(仮宮)跡と伝えられる)、

妙心寺(熊野比丘尼の総本山)、神倉神社、浮島の森でした。新宮市内だけでも散策できますね。


第230回平成30年1月21日 コース:赤木越え~大日越え~熊野本宮大社

 平成30年初回の定例会は、たいへん温かい日和になりました。3年ぶりで参加いただいた方と初参加お二人と合計13名で歩きました。

そして、路線バスを乗り継ぎ、発心門王子跡へ向かいました。

私達以外に日本人男性3名の方が発心門王子で降りられて本宮大社へ向かって歩いて行かれました。今回は、珍しく外国人の方に遭わなかったです。

発心門王子跡から坂を下りましたが案外早く降りることが出来ました。けれども、発心門王子から猪鼻王子へ向かう道を通り過ごしてしまい、里程一つ確認できませんでした。すみません。

そこから船玉神社へ向かい参拝した後、赤木越えへの分岐点にあるトイレに到着しましたが使えませんでした。

和歌山県世界遺産センターで確認すると、今年度の使用は難しいとのこと。

そして、スマホで熊野本宮観光協会のホームページhttp://www.hongu.jp/を探すと

「船玉神社(59番道標)前広場のトイレ年内使用中止のお知らせ。トイレ改修工事の為 年内使用中止とさせていただきます。」

と掲載されていました。これから暫く、歩くときは、気を付けてください。

そして予定より分岐点からの出発時間が遅れてしまったので、地図を見ながら歩行時間を計算しながら歩いてしまったので、

赤木越えへ曲がる道を間違って通り越してしまい、会員さんに教えてもらって道を戻りました。

そこから山中へ入ってしまいまして、なべわり地蔵さんまでは割と急な登り道が続きます。当日は暖かいところに暑くなってしまって時間がかかりました。そして、柿原茶屋跡へ到着。

茶屋跡に建っている民家は年々朽ちています。そして茶屋跡の裏手に回り込む道を進むと「ここは熊野古道ではありません」の看板。

え?」と困っていると、「その手前、曲がってよぉ」と、またまた会員さんに助けてもらいました。それからは急な下り道となっていきます。

13:15にやっと湯の峰温泉に到着しました。温泉の匂いが立ち込めて、「大日越えをやめて温泉にはいりたい!」気持ちが増えてきますが、滅多に大日越えコースを企画できないので頑張って歩く事にしました。

 昼食の後、脇腹が痛くなりながら急な坂道を上りました。ところが今回は、思ったよりも早く鼻欠地蔵さんに到着しました。

お地蔵様のお顔は、長い年月風雨にさらされ表面の風化磨耗が相当進んでしまっていました。

午後になっても暖かさは変わらず、木漏れ日のなか歩き進むと、幾つかの大木が真っ赤に光っているのです。

「何の木やろ?」と路肩に近い大木に近づくと檜と解りましたが、表面の皮が剥がされていました。「檜皮葺に使ったんやろか?」と皆さんと話をしました。

 そして、今度は青い色が見えてきました。熊野川です。大斎原も現れました。短い距離ながら、大日越えは疲れました。

国道168号の旧道を進み大斎原へ。入口にある梅の木の蕾はだいぶ大きくなっていました。

寒波は厳しいですが着実に春は近づいています。本宮大社では、今年一年も無事に歩けるようお願いしてきました。今年もよろしくお願いいたします。


◆日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」シンポジウム

平成30127日に和歌浦の不老橋の南側にあるアートキューブで日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」シンポジウムが開催され、立ち見が出るほどの沢山の方が参加されました。

このシンポジウムは、和歌山市と海南市の31の文化財から構成される日本遺産「絶景の宝庫・和歌の浦」の歴史的な魅力を広く発信するとともに観光資源としての可能性を探ろうと「和歌の浦日本遺産活用推進協議会」が主催したものです。

はじめに、日本遺産認定審査委員会の委員長で筑波大学教授の稲葉信子(いなば・のぶこ)さんが「日本遺産を活用した観光振興のモデル」と題して基調講演しました。

稲葉先生は、「世界が求めていても、世界遺産で出来なかったことをできるのが日本遺産」と話され、「日本の正しい歴史として紹介できるのが日本遺産。

しかし、地域の思い込みと旅行者の勝手な期待がある」と様々な例を紹介されました。

また、「海外の文化財や街の景観を守る取り組みを紹介しながら、点在する文化財に繋がりを持たせてプロデュースすることが重要だ」とも話されました。

続いて行われたパネルディスカッションでは、和歌山市の尾花正啓市長と海南市の神出政巳市長、「紀伊万葉ネットワーク」会長で近畿大学の村瀬憲夫名誉教授、和歌の浦観光協会の坂口宗徳会長、和歌の浦日本遺産活用推進協議会会長で和歌山県商工観光労働部長の山西毅治氏が登壇されました。

この中で、尾花市長と神出市長が散在する文化財を「和歌」というテーマでまとめて申請した経緯や、それぞれの文化財の歴史や特徴を紹介しました。

村瀬教授は、「予備知識のない景観と予備知識のある景観」について「味のあるコクがある、違いが分かる絶景の和歌の浦」と話され、昭和世代の参加者の共感を得ました。

坂口会長は、「この地に来なければならない理由を作ること、仕掛けを作ることが必要」と話されました。

そして山西部長からは「昔、和歌が風景を表現する方法しかなかった。申請にあたりストーリーとキャッチコピーの大切さを考えた」と話されました。

稲葉先生は、「日本遺産には、既存にない新しい手法が必要になってくる」と、私達に今後の期待を述べられました。

 

◆安珍清姫伝説を日本遺産に 和歌山県が文化庁に申請

                                  (0203 17:00 AGARA 紀伊民報より転載)

 和歌山県は、文化庁が認定する「日本遺産」に、日高川町の道成寺や紀南地方で語り継がれている安珍清姫の伝説を基にした物語を申請した。結果は4月下旬に発表される予定。

 県が申請したのは、安珍清姫の伝説を基にした「今も息づく『語り』〜安珍と清姫がたどった道」。

928年、いまの田辺市中辺路町に住む清姫が、いまの福島県から熊野詣でに来ていた僧の安珍に思いを寄せるが、裏切られたことを知り、大蛇になって追い掛け、安珍が隠れた道成寺の鐘に巻き付いて焼き殺す伝説がある。この伝説は、熊野詣でとともに全国に広がって多くの古典芸能に影響を与えたといい、道成寺だけでなく縁の各場所も名所になり、地元で語り継がれている。

 関連の文化財として、道成寺のほか、清姫の生誕地にある田辺市中辺路町の「一願寺」、大蛇になった清姫がよじ登って安珍を見付け、悔しさから枝をねじ曲げたという田辺市上野の「捻木の杉」、清姫が安珍を追い掛ける途中に喉を潤したという田辺市古尾の龍泉寺にある「清姫の井戸」、清姫が追う時に袖をすったというみなべ町の「袖摺岩」などを申請した。

和歌山県は、文化庁が認定する「日本遺産」に、日高川町の道成寺や紀南地方で語り継がれている安珍清姫の伝説を基にした物語を申請した。


122420周年記念フォーラム終了!

今回のフォーラムは事前申込不要にしていた上に、数日前から天気予報は雨だったので、何人の方に来ていただけるか不安でした。

そして、会場設営、配布物の仕分け、受付に至るまで沢山の方々にお手伝いいただき開場したところ、和歌山市内はもちろん、

岩出市、海南市、紀の川市、田辺市、橋本市、上富田町、串本町、広川町、美浜町、東京都世田谷区から85名の方に参加していただき、沢山の懐かしい方とお会いする事できました。

先ず、和歌山県世界遺産センターの辻林浩センター長が「『紀伊山地の霊場と参詣道』の登録の経緯と追加登録について」をテーマに講演していただきました。

「パワーポイントを使うと話が途切れるから」と映像なしで約1時間立ちっぱなしでお話していただきました。

世界遺産登録に向け、県の担当職員だった当時、文化庁や奈良県、三重県と調整し、電線の地中化など文化的景観の復元に取り組んだことを振り返えりながら、

1999年の南紀熊野体験博から本格的に部署ができ、県職員もまず歩くことから始めた。準備会は1997年から歩く会などの活動を展開しており、登録に向けた動きは民間が先行していました」

伺うと私も懐かしく当時を思い出していました。

20年間無謀な挑戦をし、登録後は熊野古道を歩いていて問題が有ると世界遺産登録エリアの有無に関係なく何でも和歌山県世界遺産センターに苦情や相談をする弊会のフォーラムでセンター長に講演をしていただけた事は本当に嬉しい事でした。有難うございました。

続いて開催した座談会「歩みたどった20年 創りあゆむ20年」では、海南市の写真家・大上敬史さん、和歌山県国際担当参事の津井宏之さん、わかやまNPOセンター副理事長の志場久起さん、ニュース和歌山記者の林祐司さん、辻林センター長(アドバイザー)に登壇していただき、和歌山ユネスコ協会事務局長の高垣晴夫さんに進行役をお願いしました。

 熊野古道を歩いて35年になる大上さんは、県民にもほとんど認知されず、整備もされていなかった熊野古道の当時の状況などを紹介されました。

志場さんは「世界遺産登録への準備会の取り組みは、若者が和歌山を変えた先駆的な事例」とたたえていただきました。

津井さんは、昨年の追加指定の際に「海南や有田、日高地域を含めることができず残念」と話され、京都から始まる熊野参詣道全ての登録が実現する未来に期待を寄せられました。

林さんは「「高齢化が進み、古道沿いの文化が失われつつある。道の補修や観光施設の整備は大切だが、人の手で継いできた文化を守ることも必要」と強調されました。

司会者で登壇させていただいていた私は、「異なる宗教が共存する熊野古道を、世界の平和活動に生かそうと続けてきた。『熊野古道』ではなく、『熊野信仰』もとらえ、登録地を拡大し、世界への発信力を強めてゆきたい」と今後の活動についてお話しました。

20年の間、天候の良し悪しに関わらず、毎月開催するウォーキング定例会に参加していただきありがとうございました。

最後になりましたが、今フォーラムを開催するにあたり、ご理解とご協力、アドバイスをいただきました皆様に深く感謝申し上げます。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。


第229回 平成29年12月17日 コース:コース:南部駅~紀伊田辺駅 約9.4km

 今回弊会の20周年記念フォーラムを開催するにあたり、過去の資料を整理しておりました所、平成24年にさかのぼって定例会回数のカウントを間違っていたことが判明しました。

申し訳ありません。2回少なくカウントしていました。ここにお詫びし、訂正させていただきます。よろしくお願いします。

さて、今月の定例会は、企画した時に路線バスが11月~4月迄運行していないことが解からず計画してしまいました。申し訳ありませんでした。

このため10月の台風で中止した「南部駅~紀伊田辺駅」のコースを歩く事にしました。

早朝の集合でしたが、数年ぶりに岩出市から参加いただいた方と田辺市内の新しい方を含め13名の方に参加していただきました。

南部駅を出発して鹿島神社に到着して神社の説明をさせて頂いた時、質問をいただき困っていたところ、正月準備をするために来られていた平服の宮司様が居られて教えていただきました。

またなんと1130日に、毎日放送の午後の番組「ちちんぷいぷい」の「昔の人は偉かった」で「近畿の湯治場巡り15章」が放映され、

和歌山県日高郡印南町「かえる橋」から次の温泉「みなべ温泉」を目指すあの2人が鹿島神社がを訪れていたのでした。

江戸時代に使われていた手筒花火の大筒を2人が何十年ぶりに外へ運び出したりして、たいへん賑やかだったそうです。

するとその大筒が保管されている倉庫の天井に設置されていた物について某会員さんが質問をされました。

宮司様も最初は詳細は決まっていないと話されましたが神社には昔船もあったそうで、色々と話をしているうちに「これは船の上で使っていた羅針盤ではないだろうか?」とロマン溢れる話となりました。

そして、当日はとても強い風がでしたが国道42号線沿いに歩いて「平家塚」向かいました。

今回は地元田辺市の会員さんが多く参加していただいてまして、この塚まで道案内してくださいました。

「平家塚」のあるみなべ町堺の在所では、今なお年に一度地元の常福寺が平家祭りを行っているだけでなく、五月の節句の時に鯉のぼりを上げないそうなのです。

これは、壇の浦で敗れた平家の落武者が小船に乗ってこの浦に流れついて住み着き、ある年の五月の節句に平家の赤い吹流を立てていたのが、残党狩りにきた源氏方の武士に見つかり、一族が皆殺しにされてしまった事を堺の人々は深く哀れに思い、彼等の霊をなぐさめるために、その後は吹流(後に鯉のぼり)を出さぬことにしたといわれています。また、落武者狩りに遭わないように前もって鯉のぼりを出さぬことにしたお話や羽柴氏の南征のおり、湯川氏一族の一部が堺浦に住みつく者もあったため湯川氏一族であることを隠すために、家紋のあるのぼりを立てぬことにしたとの話もあるそうです。

次に1118日にマスコミで報道された芳養王子へ到着しました。このたび国の文化審議会は、和歌山県御坊市薗の元造り酒屋「伊勢屋」の北蔵、南蔵の2件を新たに国登録有形文化財(建造物)に、

国史跡「熊野参詣道」紀伊路に王子跡など3カ所(「愛徳山王子跡北東参詣道」、「塩屋王子跡」、「芳養王子跡」)、「広村堤防」(広川町広)に一部敷地を追加するよう文部科学大臣に答申されたのです。

紀伊路の世界遺産追加登録への一歩ですね!そして、牛の鼻へ立ち寄り、天神崎を周って田辺市内へ入りました。

潮垢離浜跡、出立王子跡と進み、闘鶏神社へお昼に到着することができました。地元田辺の会員さんに沢山道や地元のお話を教えていただきながら歩けました。

そして1本早い電車で帰ることが出来た会員さんも居らっしゃいました。有難うございました。

平成29年も事故なく怪我無く無事に歩くことが出来ました。参加者の皆様のご協力に感謝いたします。(小野田真弓)




◆第226回定例会 平成29年11月19日()牛馬童子口~小広峠

2か月続いて天候が悪かったですが、今月は晴れました。また、82分紀伊田辺駅発の路線バスは今月も外国人の方が多かったです。

バスのカーテンを閉めたいほど日射しが強くなってきたのですが、福定の大銀杏の紅葉を見逃さないよう田辺市中辺路町福定に近づくとカーテンを開けました。

銀杏は黄色く色づき、朝日に照らされキラキラして綺麗に紅葉していました。外国人の方も「Beautiful!」と叫んでおられました。

そして牛馬童子口のバス停で降りると駐車場が地元の方がテントを建てたりと作業をしています。尋ねると今日この駐車場の中でイベントがあり中辺路町の物産を販売されるとか。

私たちは開催される前に出発しなくてはならず買い物ができなくて残念がっていると会員さんに紹介されて、道の駅の売店で地元の方が作った「コンニャクいなり」という寿司を買いました。

20年熊野古道に来ていますが初めて食べました。甘辛煮のコンニャクの中にご飯が入っている形が「いなり寿司」なのです。美味しかったです。

すると「さっき“熊野古道中辺路町ウォーキング第3回”と書かれた観光バスから大勢上がったで」と乗用車で来られた会員さんに教えてもらいました。

もう30分は時間が過ぎているようでしたので追いつかないだろうと話しながら出発しました。

そして、牛馬童子の像のある高台の手前の広場まで来た時、その高台に数十人が上がっていくのが見えました。それで降りて来られるのを待ってました。

語り部さん先頭に降りてきた方々(35名)に挨拶しながらお尋ねすると「九州、長崎から来ました」とのこと。

外国人観光客が増えたニュースばかりが取り沙汰されますが、日本人の方も沢山歩きに来て頂いています。

それでに追いつかないようにゆっくりと説明しながら近露王子跡へ向かったのですが、終わりそうにありません。先にトイレに行ってもダメ。

しかし乍ら、こちらも帰りのバスの時間もあるので、不本意ながら近露王子跡の中へ入り説明しました。

その後も遭遇しないようにと野長瀬一族の墓の所から熊野古道へつながる道を会員さんに紹介してもらって歩きました。

すると学校へ向かう坂道手前で遭遇。仕方なく農道を歩き、やっと35人を追い抜くことが出来ました。

そこから少し進むと土道になりますが、昔から犬が数匹飼われている地元の方の家があります。

「吠えられると困るなぁ」と思いながら参加者の皆さんに固まって歩いてもらうことをお願いして恐る恐る進みました。けれども森は静かなのです。

なんと犬が飼われていた場所は、家屋が取り壊され、犬小屋だったと思われる錆びた鉄格子が地面に積み重なれていました。

犬が死んだのか否か解りませんが、その変わりように只々驚くばかりでした。  

そこから「とがの木茶屋」さん迄は車道の坂道が続きますが、途中民家を利用した民宿が出来ていました。

案内看板がローマ字表記で不思議な感じがしました。すると雨雲が近づいてきて霧のような雨が降ってきたので、茶屋へ急ぎました。

茶屋は無人でしたが綺麗にお掃除され、縁側の雨戸が取り外されていました。それで縁側をおかりして昼休憩にしました。

食べ終わった頃に35人が到着したので茶屋を離れ、秀衡桜へ向かいました。「秀衡さんは当時どの道を通って来たのだろう?」とよく考えます。 

さて、979年(天元2年)、59歳の陰陽師・安倍晴明さんは、当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で

那智山の天狗を封ずる儀式を行うため熊野地方に来られ、熊野のあちこちに足跡が残されています。その一つが中辺路町にある「安倍晴明腰かけ石」です。

この石に腰を下ろして休んでいる時、上方の山が急に崩れそうになったが呪術で崩壊を防いだと伝えられていますが、

それ以降この山では山崩れがないそうなので、今なお晴明さんの力が効いているのかもしれませんね。

そして説明をし始めた時、日差しがあるのに急に雨が強く降ってきました。天気雨=狐の嫁入りです。

「あ、晴明さんのお母さんは狐やった」と思い出しました。中川王子跡へ到着したころには雨は止んでしまいました。

小広峠までは暫く車道を歩く中、風が強く寒くなってきたので路線バスの時間もあり、

皆さんに一生懸命歩いてもらって小広峠までたどり着きました。寒い中、お疲れさまでした。




◆東山道を調査に行ってきました。

1123日に「東山道(東巽道 とうせんどう・とうさんどう)」を調査に行ってきました。

東山道とは、五畿七道の一つで本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指します。

つまり東北から京を繋ぐ道です。けれども江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編され、廃れていったといわれています。

そして現在、ほぼ平行して中央自動車道が作られていて、東山道最大の難所といわれた「神坂峠」の下には約9kmのトンネルが通っていました。

和歌山からは、京奈和道路から名古屋方面に進み、中央自動車道にはいって「園原IC」で降りると10分位で「神坂峠」の手前にある「神坂神社」に到着しました。

神社から峠までは約6.5kmあったので登口を10分ほど歩いただけでしたが、石畳も残っていたりして、歩きたくなる道でした。

そして、園原ICから神坂神社へ行く途中には、万葉集に登場する歌の歌碑(犬養孝先生書)や源氏物語に登場する「帚木」、

滝のほか、源義経が奥州へ下るときに馬を繋いだ桜の木の話が残されていました。その桜を見た時、

「義経さんが通った道なら、ぜってい秀衡さんも通ってる!」と叫んでしまいました。その後、道なりに最澄さん所縁の「廣拯院 護摩堂(月見堂)」があり、

立ち寄ってパンフレットの中に本堂の天井に描かれた色彩豊かな花の絵があるのを見つけ、少し高台にある本堂へ向かいました。

お寺の正式名称は「天台宗 信濃比叡廣拯院」で日本全国で唯一「比叡」の名を使うことを許されたお寺でした。

本堂では、ご住職様から東山道のお話を沢山伺うことが出来ました。最初に立ち寄った護摩堂は、元々お布施をいただいたり峠を越える庶民が宿泊する簡易の宿泊所“伏屋”があったそうで、

道が険しく行き倒れで命を落とす方が多かったこと教わった時、「まるで熊野古道やん」と思ってしまいました。

公共の交通機関から離れている場所ですが、車で片道5時間で行けました。まだまだ調査しなくてはいけない事が多いのですが、

次年度以降「秀衡さんも歩いたかもしれない東山道ウォーキング会」を開催したいと思っています。よろしくお願いします。(小野田真弓)

    
◆第225回定例会 平成29年10月15日()滝尻王子跡~牛馬童子口

先月の第224回定例会は台風のため中止しましたが、今月も雨が降り、滝尻王子跡~牛馬童子口までの約13km歩いてきました。

路線バスへ乗る前にJR紀伊田辺駅の駅舎の隣にある田辺市熊野ツーリズムビューローで100円で買ったスタンプ帳を購入しました。

王子跡前では、東屋にドイツ人の方が大きなリュックサックを2つおいて座っておられ、私たちが出発する時に「ガンバッテ!」とたどたどしい日本語で見送ってくれました。 

滝尻王子跡の前で熊野三百町石の説明をしてから急な山道を登りました。胎内くぐりは雨のため止めて、乳岩見ました。不寝王子跡へ到着。

雨は止まず、どんどん寒くなっていく中、やっとのことで剣ノ山経塚跡まで来ました。

そこから山道を少し下って車道に出、又山道へ向かう途中に針地蔵尊があります。このお地蔵様は針供養とかではなく、

歯痛を治してくれる地蔵さんとしても信仰を集めていて、昔からお願いをして歯痛が治ったら、針で鳥居の形をつくって奉納したそうです。

よくよくお地蔵様の周りを見てみるとトタンで作った鳥居が置かれてありました。そこからは3つ急な坂道を登ってテレビ塔へ到着。

やっとのことで高原の在所へ着きました高原熊野神社へ到着するまでに「農村民宿」と掲げられた看板を見つけました。

高原神社に参拝した後、高原霧の里休憩所でお昼休憩をとることにしました。休憩所は建て替えられていました。

休憩所にいらした地元の方のお話では、「今日は、38人来られた。25人は外国人やった。」と伺いました。

私達が到着した時、ちょうどハワイから来られた御夫婦が出発するところでした。約30分休憩しましたが、午前中の雨と急な坂道だったのでここでお二人の方が終了し、栗栖川まで下りて帰られました。

午後になっても雨は止みませんでしたが、牛馬童子口バス停16時14分発の路線バスへ間に合うよう、結構速足で歩き始めました。

庚申さんと大日如来と一里塚を越したら、山の中へ入っていきます。大門王子跡では、敷石を二つ見つけました。ここに門が昔は建っていたのかな?と話をしました。

十丈王子跡にはトイレがあり助かりました。小判地蔵でお参りし、悪四郎屋敷跡へ行く分岐点を過ぎて、上多和茶屋跡、一里塚跡、三体月伝説の看板を見て、林道交差点へ到着。

大坂本王子跡まではもうすぐです。時間もまだ1時間近くあり少し気が楽になりました。大坂本王子では、熊野三百町石を見ました。車の騒音が聞こえてきます。

そして、バスに間に合うように一生懸命歩いたので牛馬童子口のバス停へ降りる手前の所で、ハワイからのご夫婦に追い付いてしまいました。

牛馬童子口の道の駅は入って、濡れた髪や衣服を拭いていると、ハワイからのご夫婦が近くに立っていました。それで、どうされるのかな?と気になって尋ねると近露まで行かれるとの事。

英語表示のあるバスの時刻表を渡し、もうすぐバスが来る事とバス停が道の向こう側にある事を身振り手振りでみんなで説明しました。ご夫婦はバス停へ向かいました。

そして10分ほど遅れてきたバスに乗られた時は、みんなで安心しました。それから私たちも暖かい飲み物で体を温めながらバスを待ちました。

バスはやはり遅れて到着しましたが社内は暖房が効いていて助かりました。3名の方が滝尻王子跡で降りました。

その後、フランス人の二人連れが乗車した時、運転手さんが「紀伊田辺駅へ行くのか?」と英語で話しかけられました。高野山内の南海バスの運転手さんも英語が堪能でした。

最近のバスの運転手さんも大変だなあ、と感心しながら紀伊田辺駅へ向かいました。乗継が7分しかなかったので心配しましたが定刻に駅に着き、電車に乗れて帰ることが出来ました。

雨の中お疲れさまでした。


            

◆平成29年12月24日開催の「20周年記念フォーラム」開催について

先月号で「20周年記念講演会」を開催するお知らせしておりましたが、アンケートのハガキをご返送いただき、ありがとうございました。

まだポストへ投函していただいてない方は、まだ間に合いますので、投函よろしくお願いします。

そして、この事業を『わかやまNPOセンターの法人化15周年記念事業の一環として、和歌山県内で地域づくり・人づくりをおこなう事業を共催させていただく

「地域フォーラム事業」の募集』に応募しておりましたところ、この度、採択していただき、

「特定非営利活動法人 わかやまNPOセンター15周年記念地域フォーラム共催事業」となりました。

支援費用もいただけることとなりました。只今、特定非営利活動法人わかやまNPOセンターさんと調整しながら、

チラシ作成、後援名義使用申請等準備を進めています。

何分、開催日まで日にちがございませんので、より多くの方にご参加いただきますよう宣伝よろしくお願い申し上げます。

会 場:和歌山県JAビル2階 和ホールA 

内 容:午後2時~ 講演会 講師 辻林 浩氏(和歌山県世界遺産センター長)

    午後3時~ 座談会 「歩みたどった20年   創りあゆむ20年」

同時開催:大上敬史氏の写真展「滝物語」


◆イコモス調査終了 手応え  長崎新聞 平成29915日より引用

文化庁と県、熊本県は14日、長崎市内で記者会見し、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(本県、熊本の12資産)の世界遺産登録に大きな影響力を持つ国際記念物遺跡会議(イコモス)の現地調査が終了したと発表した。文化庁は「一定の理解が得られたと考えている」と自信を示した。

調査は4日からの11日間。文化財保護に詳しいオーストラリア人の専門家が担当した。文化庁世界文化遺産室の渡辺栄二室長は「調査員は非常に熱心に全資産を調査し、地域の人々と積極的に懇談した」と様子を説明した。

文化庁によると、調査員は▽資産の保全のあり方▽来訪者の受け入れ態勢▽来訪者に対する情報提供▽住民の関与-に高い関心を示した。文化庁や県、各自治体の担当者から説明を受け、資産の保全状況や保護範囲を確認したという。

県世界遺産登録推進課の村田利博室長は「調査を想定したシミュレーションやリハーサルを重ねた成果が十分に生かされた」と手応えを語った。政府は昨年2月、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の推薦を取り下げ、内容を改めた潜伏キリシタン遺産を今年2月に推薦した。調査員は今後、イコモスに報告書を提出。イコモス本部の委員会が推薦書と併せて審査し、来年5月ごろに登録の可否をユネスコに勧告する。

◆小田井用水 世界かんがい施設遺産へ 

江戸時代から紀の川北岸の平野部を潤してきた小田井用水を「世界かんがい施設遺産」に登録しようと、管理する小田井土地改良区が申請し、10月にメキシコで開かれる国際かんがい排水委員会で審査される。登録は確実視されており、認められれば和歌山県内初となる。

小田井用水は橋本市高野口町小田から岩出市の根来川まで30㌔和泉山脈から紀の川へ流れる支流の上を通る水路橋や、地下水路「伏越」など4施設が2006年に国の登録有形文化財になっており、今も600㌶の農地に水を届けている。

 和泉山脈の扇状地や河岸段丘が広がる紀の川北岸地域は、紀の川の支流やため池で農業を営んでいた。しかし、水不足になりがちで、たびたび争いが起きていた。5代紀州藩主、徳川吉宗は1707年、橋本市の土木技師、大畑才蔵に指示し、開削が始まった。

 蛇行する和泉山脈の等高線に合わせて掘り進める難工事を、大畑は緻密な計画を立てて25工区に分け、同時着工することでわずか4年で完成させ、工費節約につなげた。また、独自の測量器具「水盛台」を考案し、水路の傾斜を非常に緩やかにして、より広い地域への水の供給を実現させた。

 世界かんがい施設遺産は2014年に国際委員会が創設。地域住民への貢献度や技術の先進性、現代に生かされている点などを評価し、これまで世界8ヵ国47施設が登録されている。国内では大阪府の狭山池や熊本県の通潤用水などがあり、今年度は11件の申請から小田井用水を含む4件が国内委員会で選ばれ、国際委員会へ申請された。

 同改良区の米澤一好事務局長は「開削によって1000㌶もの新たな農地が開かれ、人々の暮らしや藩の財政を支えた。紀の川筋の農耕の礎を築いた大畑の功績と水路の価値を見直す機会にしたい」と思いを込めた。(ニュース和歌山/201799日更新より転載)

 

高野山麓世界遺産アクセスバス

和歌山県の橋本・伊都広域観光協議会=会長・平野嘉也(ひらの・よしや)高野町長=は、多くの参拝・観光客が世界遺産・高野山や山麓の観光スポットを周遊しやすくしようと、9月16日(土)~11月26日(日)の土曜、日曜、祝日に限り「高野山麓世界遺産アクセスバス」を運行すると発表した。同協議会は「バス運行ダイヤ」「高野参詣道トレッキング」「イベント情報」などを紹介したパンフレット(A4判8ページ綴り)を作成し、市町や公民館など県内外要所に配布。「高野山と山麓の秋を満喫してください」とアピールしている。

同アクセスバスは▽JR・南海橋本駅前~丹生都比売神社前<乗り換え>~奥の院前=片道奥の院前~丹生都比売神社前<乗り換え>~橋本駅前=片道橋本駅前~丹生都比売神社前~橋本駅前=往復奥の院前~丹生都比売神社前~奥の院前=往復で、いずれも途中下車OK(但し運行方向に限る)。乗車料金は大人1200円、小人600円で、乗車券はアクセスバス車内でのみ購入でき、発売当日限り有効。

お得な「施設&飲食店」のクーポン付きで、高野山真言宗総本山・金剛峯寺・内拝料2割引き、丹生都比売神社・記念品プレゼント、九度山・真田ミュージアム入館料大人100円引き、小人50円引き、裁ち寄り処の商品1割引きかコーヒー1杯サービス。

お得な「対象飲食店」(割引券)は、十割蕎麦 天宏母屋、金澤寿翁軒、そば処 幸村庵、ベーカリーカフェ パーシモン、天野和み処 Cafe客殿、山荘天の里、角濱ごまとうふ総本舗、光海珈琲 高野山本店がある。

同アクセスバスは、かつらぎ町のコミュニティーバスと連絡し、他に「高野山・熊野」聖地巡礼バスや「関西国際空港~高野山」リムジンバス直行便もある。

高野参詣道トレッキングは「高野七口女人道と高野七弁天巡り」=10月22日(日)、「世界遺産不動坂第3回槇尾道ハイキング」=10月29日(日)、「第4回世界遺産高野山町石道ウオーク」=11月5日(日)、「第2回高野参詣道『黒河道』世界遺産トレッキング」=11月19日(日)、「世界遺産三谷坂実りの秋ウオーク」=11月25日(土)などを予定している。(高野山麓 橋本新聞http://hashimoto-news.com2017912日より転載)

 

◆第224回平成29917日の定例会切目駅~南部駅は、台風18号接近のため中止しました。

平成299721時にマリアナ諸島の東で熱帯低気圧が発生した台風18号は、13日の午前には先島諸島に接近し、宮古島を暴風域に巻き込んだ後、「非常に強い」勢力となって東シナ海を北上し、ブーメランのように北東方向へ急カーブして進路を九州地方に向いました。このため気象庁は、台風周辺海域および進路にあたる海域は、猛烈なしけとなるため厳重な警戒が必要と発表されました。紀伊半島への接近は17日午後の予定でしたが、ネットでは次々と17日開催のイベントの中止が発表されてきました。

それで弊会も16日の夕方まで、第224回を開催中止を悩んでしました。

その理由は、当日のコースが短く12時までに紀伊田辺駅へ到着する予定だったからです。

その時、JR西日本が17日早朝から新宮~和歌山間の特急運転を見合わす決定をされたことが解りました。

もし私たちの歩行時間が長くなったり、予定より早く台風が紀伊半島に近づけば電車が動かなくなります。それで中止を決定しました。

17日の朝、和歌山市内は快晴で、台風が来るような空模様ではありませんでした。けれども11時過ぎから雲行きが怪しくなり、風が激しく吹いてきました。

そして、新宮~串本駅間で運転を見合わせていた電車が、13時に新宮~和歌山駅間の運転を見合わせとなりました。

弊会の1年間の定例会の日程は、弊会のホームページで公開している他、「わかやまイベントボード」、「きのくに学習メニューブック秋号(きのくに県民カレッジ)」にも

掲載していただいておりますので、10月に変更ではなく中止です。第224回のコースは来年度、歩けるように考えます。よろしくお願いします。

 


 

◆第223回定例会 平成29年8月20日()報告

切目駅~南部駅 約12km

当日、切目駅を出発しガードをくぐった所にある光明寺の蘇鉄は、町指定の文化財ですが時間なく割愛しました。

今まで切目中山王子跡には、迷って辿り着くのに時間がかかるのですが、先頭の方が道に詳しい方だったので、今回は迷わず到着できました。

中山王子社前の宝篋印塔を見て参拝しました。そして、出発しようとしたら神社入口にある「中山王子社」と刻まれた石碑に日が射し、

「中山王子社」と陰が反転して地面に漢字が浮かび上がっているのに驚きました。思わず皆さんに声をかけてしまいました。

 そこから国道42号線脇にある「徳本上人の六字名号碑」までは、榎木峠を越えて山の中の道を歩きます。

暫く進むと、道の上に広がっている梅畑の一角から青いネットが垂れ下がって何やらゴソゴソと動いています。

「猪や!」なんと、ウリ坊より少し大きくなった子どもの猪が逆さになってネットに絡んでバタバタしていました。道の上にある梅畑から下の道へ降りようとしてネットに絡んだようです。

「獣害の元になる!」、「助けてあげたい!」と心は揺れましたが、実際は何もすることが出来ません。あちこちに電話をし相談しましたが、

最終的には消防署の方から「危険ですから触らないで離れてください」と言われました。

そして、私が電話している最中に会員さんの一人が少し離れた所まで行って地元の方を探し出して事情を説明したところ、対応していただけることになりました。

そして、私達は古道歩き再開。海の見える道に出ました。暑い車道を進み、岩代王子跡を経て千里王子跡へ到着。暑くて、蟻一匹近づいてこない中、遅めの昼食を摂りました。 

けれども、後半は当日のコースの三分の一が残っているだけ。電車の時間を確認し出発しました。

ところが、千里観音から三鍋王子跡へ向かう時、千里観音にあるトイレの建屋を越えて道を少し下り、小川の手前にある道標のある所を、

小川を渡らずに右に曲がり、小川に沿って進んで行くのですが、私の背丈以上に雑草が生い茂っているのです。かき分けて進もうとしたのですが、

雑草が絡み合って道を作ることができませんでした。仕方がなく千里観音へ戻り、本堂の右脇にある階段を上り、駐車場を通って車道を歩きました。

炎天下の中で車道を歩き相当疲れました。南部川の手前にある「紀州梅干館」へ入り、少し涼んでから次の王子跡へ向かいましたが、

暑さのせいか道に迷い、少し遠回りして三鍋王子跡へ到着しました。けれども電車の時間が迫ってきていたので、お別れの挨拶もそこそこに慌てて駅へ向かいました。

残暑の中、事件が多い古道歩きになりました。みなさま、お疲れさまでした。

帰宅後、和歌山県世界遺産センターに前進が不可能な道の事を報告したところ、直ぐにみなべ町に連絡していただきまして、

千里観音から三鍋王子の草刈りを828日土曜日の朝に実施していただいたとのことです。ありがとうございました。

 

平成29811日第2回 ピースウォーク「紀伊山地の霊場と参詣道」三谷坂 

『「山の日は、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨とし、201611日に施行されました。

「信仰の山」であるユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を歩きながら、平和のことを一緒に考えてみませんか。』と企画されて、

今年で2回目を開催し、高野参詣道の「三谷坂」を歩いてきました。

当日は大変暑くて、連休初日ということもあり、参加者は10名でした。

語り部さん二人に案内され、9時に妙寺駅を出発し、丹生都比売神社に到着したのは12時半を過ぎていました。

神社発のコミュニティバスに乗車できず、紀北ユネスコの皆さんに笠田駅まで車で送っていただきました。ありがとうございました。


◆公益社団法人和歌山県宅地建物取引業協会と世界遺産

平成2991日、公益社団法人和歌山県宅地建物取引業協会さんの勉強会で「世界遺産 紀伊山地の霊場と参詣道」についてお話させていただきました。

和歌山県世界遺産センターからお借りした20分間の「紀伊山地の霊場と参詣道」のDVDを放映し、先ず概要を見ていただき、世界遺産の生まれた背景や現状についてお話しました。

参加された約40名の会員さんの方は、殆どが和歌山市在住の方でしたが、中には熊野古道を歩かれた方や「全国の一之宮」を巡礼されていらっしゃる方もいらっしゃいました。

質疑応答の時に「どうして藤白坂は、世界遺産登録されていないんですか?」と質問を受けました。

紀伊路の追加登録の難しさを説明しさせていただきましたが、上手く説明できず辛かったです。

そして最後に「日頃から多くの建物と出会っていらっしゃると思いますので、『古いから壊す』という物件を前にしたら、

一旦思い留まっていただいて、和歌山県文化遺産課や和歌山県世界遺産センター、またヘリテージマネージャーに連絡して、

調査してもらってください。もしかしたら、その物件が登録有形文化財になり、国宝・重要文化財になり、いずれ世界遺産登録物件になるかもしれません」とお願いしました。


 

◆宮城県名取市へ行ってきました!

ユネスコ世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」追加登録記念

写し霊場「名取熊野三山」講演会&ピースウォーク

 今回、宮城県仙台市と名取市で平成29716日~17日の二日間にわたって開催したイベントは、

ユネスコ協会の全国大会「民間ユネスコ運動70周年記念行事!『第73回(2017年度)日本ユネスコ運動 全国大会n仙台』」に合わせて、

和歌山ユネスコ協会が企画、弊会が協力し開催したものです。


第1日目の講演会は、16日の午後2時から宮城県仙台市内にある仙台国際センター3Fの小会議室8に於いて開催しました。

東京都、神奈川県、宮城県、和歌山県から約40名の方にお集まりいただき、地元で長く「名取の老女」を研究されるお二人の先生のお話を伺いました。

先ず、名取市文化財保護審議会委員の惠美昌之先生から「名取熊野三山と名取老女の古跡について」お話を伺いました。

熊野信仰と東北のつながり、名取に熊野三山が勧請され現在に至った経緯、名取熊野三山の現状、そして、今後の検討課題について、詳しい資料と共に幅広くお話して頂きました。

続いて、宝生流教授都嘱託会会員 宮城県支部の守睦夫先生からは、「紀州熊野三山勧請と烏宮由来伝説(前編)名取老女ものがたり」と題し、

名取市の「方言を語り残そう会」が編集し作成された「方言むかしばなし 名取ざっと昔(二)」で紹介されている「名取老女ものがたり」を方言も含めて詳しく解説していただきました。

実は、名取の老女が最後の熊野詣の帰り道に、大きな鳥(ヤタガラス)が一羽、名取の老女の家まで先導となりながら見送ってきたのですが、

その烏が死んだので、老女の屋根の東部に烏塚を造り、丁重に埋葬し、お宮を建ててその霊を祀ったのが「烏宮」と申します。

その烏宮を代々お祀りされてきたのが守夫先生のご先祖だったのでした。「代々伝わってきた話を多くの方に知っていただきたい」と、今回講師をお引受けくださったのでした。

また、平成29101日には名取市文化会館開館20周年事業として、「復曲能 名取ノ老女」と「狂言 名取川」が公演されることになっています。

今回お話を伺い、幼い頃は障害者だった「名取の老女」が、紀州まで2か月かかって48回も熊野詣したことや、

名取熊野三山の那智神社の社殿に奉納されていた御正体である懸仏・銅鏡41点が国指定、懸仏114点が県指定文化財となっていること、

熊野信仰が名取をはじめ東北地方に根付き、今なお信仰が続けられている事が解かった貴重な講演会になりました。


2日目は、「名取熊野三山 ピースウォーク」を開催しました。

名取市へ行く前の天気予報は、降水確率70%だったので、当日お渡しする資料も小さく作っていました。

そして、16日の講演会の日、仙台市内は昼前と夕方に雨が降り名取市でも降っていたようです。

ところが、17日当日は朝から眩しいばかりの快晴になったのです。

石巻市から駆け付けて下さった方の車で名取市熊野神社まで移動しました。

石巻の方には、救護隊として車でウォーキング時には一番最後を走ってもらいました。

 午前10時の集合時間には、 昨日の講演会に参加いただいた方の他、地元名取市、岩沼市とペルー共和国クスコ市から参加の約30名の方にお集まりいただきました。

全員で記念写真を撮った後、昨日講演会の講師でお話していただいた惠美昌之先生に熊野神社の中から説明していただきました。

名取熊野三社の中で最も中心を成していたのが、ここ旧新宮社のため、熊野神社と総称されることとなりました。

この神社の主神は速玉神を祭り、東北でも屈指の神社の一つとされています。

神社所蔵の資料では、文献上、名取熊野新宮の初見は、暦応4(1341)の平泰経の寄進状(熊野神社文書)ですが、

「吾妻鏡」には熊野別当等の名が見られることから、名取熊野神社に関わる修験集団は名取地方を中心に強大な勢力を持っていたことが伺えます。

そして神社から車道に出て、新宮寺、宿坊跡と高舘熊野堂と呼ばれるエリアを進んでいきました。

これから向かう那智熊野社は、名取市那智が丘という高台の先にあり、インターネットで入手できる「名取熊野三山のウォーキングコース」のマップには、

その高台に向かう車道を歩くのですが、惠美先生は暑い中での車道を歩くことは避け、民家の中にある遊歩道に案内していただきました。

本当に急な坂道でしたが、土道で木が生い茂る中を歩けて、遠くに海も見え、しばし暑さも和らぎました。

また暫く急な坂になった車道を歩き、那智社に到着しました。風が吹き抜ける気持ちの良い境内からは仙台平野が一望できます。

惠美先生は、「仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川と見立てると、この地が熊野三山の縮図であると分かります」と解説されました。

震災後、熊野三社では文化財を博物館に預けていることも説明され、今なお残る震災の影響をお教えいただきました。

那智社の奥には滝(不動の滝)があり、散策した後、氏子総代の出迎えを受け、しばし社務所で休憩させていただきました。

そこから坂道を下った所に「那智が丘公民館」があります。昼食と昼食後に開催する「紀伊山地の霊場と参詣道」について

和歌山県世界遺産マスターの小野田が映像上映と説明をさせていただくのにお借りしていたのですが、

和歌山から来られるのだからと那智が丘の区長さんが、歓迎の看板と熱中症対策用の冷たい飲料水ときゅうりのお漬物を持って待っていて下さったのでした。

そして、那智が丘の住民の方が説明会にお越しいただきました。

説明会では、「紀伊山地の霊場と参詣道」の登録の経緯、登録物件、日本での世界遺産の初めて尽くしがあることや昨年追加登録されたことも説明し、

名取熊野三社が追加登録に加われば、2014年世界遺産登録された南米6か国約6kmにわたる道「アンデスの道路網カパック・ニャン」には及びませんが、

スペインの世界遺産の道「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」に及ぶのではないかとお話をしました。

(帰和して調べると、巡礼路は約900kmで、紀州熊野本宮大社から名取市熊野神社まではGooglマップの徒歩だと842kmでした)

 那智が丘の皆さんの歓迎で心身ともに休憩でき、午後のウォーキングを始めました。

ここから熊野本宮社までは、下りの坂道=車道を歩きます。日差しも強く熱気ムンムンの中、本宮社へ到着しました。

そこから目的地の熊野神社=新宮社までも照り返しの熱い車道を歩きました。

 そして、予定時間より約40分早く熊野神社へ到着できました。

惠美先生はじめ参加者の皆さんの協力のおかげ様で、熱中症など体調崩された方もなく全員完歩できました。ありがとうございました。

そして、地元の那智が丘から参加いただいた鈴木様は、コース途中で歩けなくなる手前の方を車で次の集合場所まで何度も搬送していただき、

本当にお世話になりました。本当にありがとうございました。

950年前に「名取の老女」は何を思って48回も紀州まで来られたのでしょうか?

 

             

  

◆ペルー・マチュピチュの初代村長野内与吉資料館

今回「名取熊野三山 ピースウォーク」に参加いただいたペルー共和国クスコ市出身の野内セサル良郎氏の祖父・野内与吉氏(故人)は、

100年前ペルーにわたり、様々な困難を乗り越え、ペルー国鉄に勤務し線路拡大工事に携わった後、

当時最終地点であったマチュピチュに移り住んだことをきっかけに、一から水を引いたり、水力発電を導入して電気を引いたり、

マチュピチュの拠点となるホテルを作るなどされ、その功績を買われ、公式にマチュピチュ村の村長となられました。

この度、野内氏は「祖父の歴史を語り継ぎたい」と故郷・大玉村にある温泉旅館「金泉閣」の一角(大広間)に資料館を作りました。

お問い合わせは 大玉温泉 金泉閣電話 0243(48)2929

  

◆第222回定例会 平成29年7月23日()報告

塩屋王子跡~切目王子跡(西御坊駅―切目駅)約14km

       
今回の定例会のコースは、西御坊駅~切目王子跡までの約14km。全てが車道でした。 

朝早い時間にもかかわらず、集合場所の紀州鉄道の駅舎内は暑く困りました。駅舎の外の木陰で集合しなおし出発しました。

紀州鉄道は、御坊市に路線を持つ鉄道で、5つの駅の端と端の駅の距離がわず2.7kmしかなく、

日本一短いローカル線として有名です。紀州鉄道を離れ、御坊駅でもらった地図を頼りに古い街並みが残る寺内町へ行こうとしたら行き過ぎてしまいました。

寺内町は本当にコンパクトな町でした。

寺内町を通って小竹八幡宮旧跡 (しのはちまんぐうきゅうせき)へ到着。

「日本書紀」所載の小竹祝(はふり)にゆかりのある小竹宮跡といわれています。

そこから天田橋をわたって川岸を進むとハマボウの群生が現れ鮮やかな黄色の花を見ることができました。

そして塩屋王子跡に到着。石段を上がって参拝しました。

次に光専寺へ向かいました。ここの柏槇(こうせんじのびゃくしん)は大きい!

このビャクシンは県下でも最大級のもので、幹周り約7m、樹高約15m、樹齢は600年以上と推定されています。

そこから、弥生時代から古墳時代初期にかけての竪穴式住居1基、方形周溝墓11基が復元され、

製塩土器が多数出土し古くから塩作りが盛んに行われていたと考えられている尾ノ崎遺跡と

弘法大師が爪で仏の姿を書いたと伝わる大岩の爪書大師堂と祓井戸観音(西向寺跡)と徳本名号碑と

八十八ヶ所巡りと広畑一号墳と御首地蔵尊と仏井戸には立ち寄らず、どんどん車道を進みました。

途中、清姫の草履塚と十三塚には立ち寄りましたが、万葉歌碑探せなかったです。

上野王子跡まで来ると日差しが強すぎて、だいぶ疲れてきました。歴史的には古い王子なのですが王子の位置については、

もとは現在の「仏井戸」附近にあったが、参詣道の移動した江戸時代初め頃に現在地に移ったと考えられています。

清姫の腰掛け石を越して、津井王子跡に到着しました。近世には叶(かのう)王子と呼ばれ、

印南町の文化財にも「大字津井に”王子田”という小字があることから、この地に王子社があり、

津井王子と叶王子が別々にあったとされる説もありますが、津井王子社が移設されて叶王子になったとされる説が有力で呼び名が変わったとされるようです。

そして、て印南漁港にある公園でお昼ご飯にしました。少し長く休憩時間をとり、斑鳩王子跡へ向かいました。

紀伊国続風土記では冨王子、御幸記では「イカルガ王子」と呼ばれていて、海に向いて建っています。

途中「東光寺」看板が出てきますが東光寺には立ち寄らず、切目王子跡へ向かいました。

実は716日、本殿の檜皮ぶきの屋根が38年ぶりにふき替えられたことを祝って竣工式が営まれていたのでした。

現社殿は、拝殿は1908年(明治41年)の再建で本殿の屋根のふき替えは1979年にありましたが、傷みが進んでいるためふき替えたとのことです。

ふき替えの工事に当たった谷上社寺工業によると、屋根は劣化が進んでいたが、創建当時の寸法を推測し、

全て生木のヒノキの皮を使って仕上げられたそうです。藤代王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子とともに五体王子の一つである切目王子は、

境内には県指定の天然記念物で樹齢約300年のホルトノキがそびえたっています。

創建年代は社伝によれば崇神天皇の代にさかのぼるとされ、熊野権現が一時鎮座した地であったとも言われています(『長寛勘文』)。

『中右記』や「熊野道之間愚記」(『明月記』所収)にも記載があります。

また『平治物語』によると、熊野詣の途上にあった平清盛が、源義朝挙兵の報を受けて京に引き返したのもこの王子であったと書かれています。

そして中世以降も『太平記』(巻5「大塔宮熊野落事」)等に熊野詣の途上に切目王子に参詣したとの記述が見受けられ、

『紀伊続風土記』は境内摂社として大塔宮社があったと記されています。中世熊野詣では参詣の途上で歌会が催された例が参詣記に登場し、

歌会の折に参会した人々が歌を書き付けた紙=熊野懐紙は約30通が現存していて、

それらのうち、11通は正治2年(1200年)123日、後鳥羽院が切目王子で開いた歌会でのもので、

今日では西本願寺に所蔵(一部国宝)されており、当地には写本が残されているそうです。

そして、強い日差しを受けピカピカと光っている新しい屋根を前で記念撮影しました。

今回は、熊野古道の王子跡以外にも名勝旧跡がたくさん点在しているコースでしたが、

暑さと14kmの距離のために寄り道一つせず歩いてきました。海岸沿いを歩いてきたので時折涼しい風が吹いてきましたが、

本当に暑い1日でした。女性の参加者の方の中には傘を日傘替わりに差していましたが、暑さ除けになるなぁと感心していました。

無事に皆さん完歩されてよかったです。

この先まだまだ暑い日が続きますが、熱中症にはくれぐれも気を付けてください。


◆第221回定例会 平成29年6月18日()報告

紀伊内原駅~岩内王子~御坊駅 約9.5km

 今回の定例会のコースは紀伊内原駅から西御坊駅までの約14.6kmになるのですが、岩内王子から塩屋王子までの道が住宅造成地の中を1時間余り歩き塩屋王子に着いた後、車道を歩いて天田橋を渡り西御坊駅へ至る道となります。その道は、次回7月で塩屋王子へ向かう道と重複します。また塩屋王子周辺から西御坊駅を走るコミュニティバスも探したのですが、うまく時間が合いません。 それで今回は、岩内王子~塩屋王子間を割愛させていただきました。そのため歩く距離が少々短くなるので、熊野古道沿線にある「足切地蔵」と「岩内古墳群」へ立ち寄ることにしました。

 当日は梅雨の真っただ中というのに曇り空で湿度も高くなく、歩くには嬉しいお天気となりました。昨年の6月の第209回の定例会は、大辺路の下里駅~市屋峠~二河峠~駿田峠~大狗子峠~小狗子峠~宇久井駅の約15kmを予定していましたが、大狗子峠~小狗子峠間を取り止めるほどの近年まれにみる大雨に遭いました。

そして、紀伊内原駅を出発。御坊市周辺は古墳が多いのですが、先ず「弁財天山古墳」にやってきました。古墳は池の西側にあるので眺めるだけにしました。しばらく進むと左手からくる道と交差する所になります。そこにはお地蔵さまが祭られているます。その道を左手に進んで行くと今回増やした名勝旧跡の「足切地蔵」さんへ行きます。0.6kmの道程です。すると早々と小さな杜が見えてきました。「あれ?皆さん歩くの早すぎませんか?」と到着してみると、そこは「御坊市指定天然記念物・古田春三家の屋敷林(ふるたしゅんぞうけのやしきりん)」だったのです。クスノキ2本、クロガネモチ1本の大樹があり、屋敷林として大樹がまとまって残されていることが当地方では珍しいとのことでした。屋敷の前で田植えの準備をしていた地元の方に色々と教えていただきました。今ある大樹の間に昔はもう1本木が合ったそうですが枯れてしまったそうです。

暫く田園風景の中を歩いていくと「足切地蔵」のある万福寺(足切地蔵院)に到着しました。この万福寺は、地元の人に「あしきりさん」と呼ばれ親しまれています。弘法大師が讃岐で彫った仏像が大師の熊野参詣を追ってきて、帰れと言ってもきかないため爪先を切ってこの地に祀ったと言われています。この仏像は「足切り地蔵」と呼ばれ、足の病に霊験あらたかということで、全国から足の不自由な人の参拝が絶えないそうです。また、通行安全の地蔵として尊崇され、足切りの名から大学入試の守り地蔵として、合格祈願の受験生が多くなってきているそうです。本堂と壁の間に石が置かれてあり、その上にはご本尊様と同じ大きさの足形が彫られていると境内でお世話をされていた男性の方から教えられました。弊会の皆さんが元気でこれからも歩けますようにと立ち寄りました。そこから「善童子王子跡」までは直ぐです。熊野古道の王子跡の中で、これほど別名の多い王子はありません。連同寺、田藤次、伝童子、出王子、出童子また若一王子と呼ばれ、人間の耳のあいまいさに加え紀州の人々の発音の特徴を物語っていますね。それから木々に囲まれた草むらの中に小さな「徳本上人の名号碑」と「左道成寺」と刻まれた石の道標をみて、川と車道を渡って住宅地へ入っていきます。車道沿いに歩いていくと本当に小さな道標が左側の路肩にある電柱に貼ってあり、そこから右を見ると山に登っていく狭い道があります。それを登っていくとミカン畑の中にある道に続きます。竹藪を抜け、右に入ったところの広場に「愛徳山王子跡」があります。鎌倉時代の初めは重要な社であったようですが、今はひっそりとミカン畑の奥深い所にあります。その昔は、先ほどの「徳本上人の名号碑」から続く道があったのではないかと思われる場所です。車道へ戻って左手に見えるのが「道成寺」です。田んぼの中の道を進んで道成寺の参道の際に出ていく道へ行こうとすると、吉田八幡神社に隣接された「かみなが姫公園」の周辺を地元の方々が草刈りをしていました。作業している間を抜けるように歩いているとき「蓮の花、見て行ってよう!」、「この駐車場の奥にあるでぇ」と何人もの方に声をかけられました。それで道成寺に行ってから「九海士王子跡」へ行く前に立ち寄ることにしました。「道成寺」は、和歌山県下に現存する最古の寺で、第42代文武天皇の勅願で701年(大宝元年)に建立されました。62段の石段を上り、朱塗りの仁王門(重要文化財)をくぐると、正面に本堂(重要文化財)、右手に安珍清姫伝説の鐘楼跡があります。宝仏殿には平安前期作の木造千手観音立像(国宝)や脇侍の日光・月光菩薩像(国宝)をはじめ、重要文化財11点、県指定文化財4点など数々の文化財が安置されています。今回は時間があったので、参拝してから参道にある数件のお土産物屋さんで販売されている「釣鐘まんじゅう」の味比べをしました。昔は1種類だった味も昨今はバラエティに富み、今回初は「梅味」でした。参加者の皆さんの好みもあり、甲乙つけがたい味比べとなりました。そこから「清姫蛇塚(きよひめじゃづか)」へ立ち寄りました。昔は通れた道も安全対策の面からか現在は草を生やして通れなくしていました。この「蛇塚」は、道成寺で清姫が安珍を焼き殺した後、日高川の激流に身を投じた場所でもあり、清姫の化身の大蛇を埋めた場所とされています。あの当時は日高川は道成寺のすぐ近くまで流れ込んでいたことになりますね。そして、蓮の花を見に行くため近道を探し始めました。教えられた駐車場は「蛇塚」のすぐ前にあるのに、溝が深く幅が広くて飛び越えることができません。仕方なく元来た道へ戻って向かいました。駐車場の一番奥のとても広い場所の中、今まで見たこともない大きさの蓮の花が沢山咲いるのです。

ここは御坊市北吉田区住民有志でつくる北吉田・蓮保存会(佐竹成公会長)が昨年5月にオープンした「舞妃蓮の郷・蓮公園」でした。この吉田出身でハスを研究した故阪本祐二氏(和歌山県で教職を務める傍ら、植物学者の大賀一郎に師事。ハスの伝播経路や育種を研究し、大賀ハスが2千年前の古代ハスであることの証明に努めた。また日本、米国、中国などでのハスの品種保存や育種交配に力を注いだ)の長男で同会顧問の尚生さん宅の舞妃蓮を分根して、佐竹さんら有志メンバーが、住民が美しい蓮をゆっくりと観賞できる憩いの場、さらに御坊ではあまり触れる機会のない伝統芸能に親しめる場を作りたいと約930㎡の休耕田を利用して東屋と公園整備を計画。750㎡の池の中央に床面積7m四方の舞台を備えた東屋と桟橋を完成させたのです。

『舞妃蓮』とは、昭和41年に阪本祐二氏がアメリカの黄花ハス「王子蓮」と日本の「大賀蓮」を交配して作り出した,薄紅色の混ざったクリーム色の花で,花の開閉があたかも女性の舞姿のように優雅で,当時献上された美智子妃殿下の姿に重ねて名付けられた蓮の花です。お昼時間には少々早かったですが、東屋にベンチもあり、珍しい蓮の花を観賞しながら昼食の休憩を取りました。ただトイレがなく困っていたところ、「かみなが公園」にトイレがあったので立ち寄りました。トイレは階段をたくさん上った所にあり、その数10段上には吉田八幡神社の本殿があり、参拝することができました。

かみなが公園を降りてしばらく車道を進むと「九海士王子:海士王子」があります。道成寺の建立説話の主人公で第42代文武天皇のお妃となり、第45代聖武天皇のご生母となられた宮子姫の生誕地と伝えられています。宮子姫は、7世紀後半、九海士(くあま)の里(現御坊市)で生まれ、その髪の長さの美しさから藤原不比等の養女となり、第42代文武天皇に嫁がれたという『宮子姫物語』が語り継がれております。そこから湯川子安神社へ向かい日高川に架かる野口新橋を渡って、岩内一号墳(岩内古墳群)へ到着しました。ここは、7世紀に造営された横穴式石室を持つ方墳で、銀線蛭巻太刀(ぎんせんひるまきたち)が副葬品として発見されたことや、漆塗の装飾のある木棺等であることから、被葬者は身分の高い人物であったと推測されています。その候補として658年に謀反を企てたとされる有間皇子が挙げられています。また周辺には10基以上の古墳が存在していましたが、現在は一号墳と三号墳の2基のみが確認されており、岩内古墳群として県の文化財に指定されています。古墳から熊野古道へ戻り、御坊大橋から近い場所にある岩内コミュニティセンターの敷地内に「岩内王子跡」はあります。「焼芝王子神社旧跡」と書かれた石柱が立っています。本来の社地は日高川の中にあったと言われ、岩内王子は焼芝(薬師場)王子とも呼ばれていたからです。文献にはじめて登場するのは熊野御幸記で 「河を渡りていわうち王子に参る。此辺りの小家に入る。」と記されています。また、“也久志波王子”とも書き、「紀伊続風土紀」では境内周三十四間といわれています。

そして御坊大橋を渡り、御坊市内の古い町並みが残る「寺内町」近くの交差点まで来ました。「今日は、距離が少なかったから寺内町を散策してみますか?」と提案したところ、「疲れたぁ」、「今日は短くないよ!万歩計は、もう15km近くになってる」とのこと。自分の万歩計を見ると17kmを越えようとしています。「え?なんで?」と驚きましたが、今回は寄り道が多かったのです。午後から出てきた太陽の日差しがきつくなってきて御坊駅に到着した時にはヘトヘトになっていました。結局、私の万歩計は28,84619.6kmになっていました。暑い中、みなさん、お疲れさまでした。


◆第220回定例会 平成29年5月21日(日)

湯浅駅~鹿ヶ瀬峠~紀伊内原駅 約17km

平成29年度第2回目で通算220回目の定例会は、快晴のなか開催しました。

平成29428日、文化庁から平成29年度における日本遺産の認定が発表され、湯浅町が申請した「醤油醸造文化」に関するストーリーが認定を受けられて、湯浅駅の駅舎には看板が登録記念の看板が掛けられていました。

本日最初に訪れたのは「満願寺」です。
湯浅駅からガードを超えた所の左手にあります。一般的な湯浅駅~紀伊内原駅間の熊野古道紹介では一切出てこないお寺ですが、大変興味深い寺なので今回初めて立ち寄りました。

このお寺は、後白河法皇の勅願で建立されました。その後、幾度かの盛衰を乗り越えましたが、天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州征伐により焼失の危機に遭った時、高野山の僧侶応其上人が秀吉と交渉し、本堂を山城国の醍醐寺に移築、本尊は高野山、二王は那智山にそれぞれ移され、境内は耕田、僧房は解体されて野に伏し、奥の院は分離させて勝楽寺とする憂き目に遭ったのでした。醍醐寺と言えば、慶長3(1598)の春豊臣秀吉が行った歴史上有名な「醍醐の花見」の舞台です。

また、平成6年に世界文化遺産に登録されていて、醍醐寺の寺宝・伝承文化財は、国宝69,419点、重要文化財6,522点、その他未指定を含めると仏像、絵画をはじめとする寺宝・伝承文化財は約15万点におよびますが、その中の『金堂』が移築された満願寺の本堂なのです。 続いて勝楽寺へ向かいました。広川は、慶長6年(1601)に流路がつけかえられる前には、広川右岸に広がっていた低地:白潟(白方)を望む高台に勝楽寺がありました。境内には江戸時代に紀州みかんや塩鮭で富を築いた話が伝えられる「紀伊國屋 文左衛門の碑」があります。当時は七堂伽藍を持つ大寺でした。現在本堂内には平安時代作の阿弥陀如来像など八体の国指定重要文化財が安置されています。そこから国道42号線を渡って久米﨑王子へ向かいました。そして広川町へ入ります。 

広川の左側の道を進み「左不動弘法大師道」の石の道標の傍を通って新柳瀬橋を渡ると国道42号線に出るのですが、広川の右側の田園風景の中にも道があり、その道の途中には行政が建てたと思われる「熊野古道」と矢印が書かれたのみの看板があります。国道を暫く歩くと湯浅御坊道路が間近に迫ってきます。次に向かう王子は、弘・井関・津兼・白原王子と時代により場所と呼び名が変わりますが、現在は広川インターチェンジの中に石碑があるのみです。インターチェンジの出入口にあるコンビニから暫く進むと旧道に入ります。賑やかな丹賀蔵王大権現を過ぎると山がだんだん近くなってきます。広川をまた渡った橋の袂に「徳本上人名号石」があります。これは天保年間の飢饉餓死者の供養塔をかねた道標になっています。そのすぐ先の右側に河瀬王子社跡があります。この王子跡から鹿ケ瀬峠に向かう集落には、かつて旅籠や茶屋を営んでいた宿場の雰囲気が感じられますが、以前は山を越すまでトイレがありませんでしたが、地蔵寺の汗かき地蔵の紹介看板のある空地に「厠」と書かれたトイレが出来ていました。歩き始めて約1時間半になっていたのでトイレ休憩を兼ね地蔵寺へ立ち寄りました。ここの本尊さんは、峠を登る人々の背中を押してくれるので汗をかき 「汗かき地蔵」 と呼ばれるそうです。

そして馬留王子社跡を越え鹿ケ瀬峠へ向かいました。この20年で鹿ヶ瀬峠の様子は変わってしまいました。猪やサルよけのための柵が張り巡らされています。以前は歩けた地道も背の高いフェンスで遮られています。標高が高くなって風通しがよくなってきたので歩きやすいですが、やはり鹿ヶ瀬峠は急な坂道。院政期には熊野古道の難所の一つとして知られ、熊野参詣記にたびたび登場し、その山道の様子を「其路嶮岨、心力巳尽」とされています。このような難所を利用し、紀南への戦略的要衝となり、中世には付近に鹿ヶ瀬城(鹿瀬城とも)という山城が築かれていました。そしてやっとのことで法華檀へ到着しました。峠の近くにある法華寺跡のことです。天暦3年(947)生涯で六万部の法華経を読む修行をしていた比叡山の僧:円善上人が熊野参詣の途次、志半ばでここの峠で客死しましたが、死んだ後も髑髏が赤い舌だけを動かして六万部のお経を読み終えたというお話です。そこに後年、供養塔:法華壇を建て、冥福を祈ったのでした。これが後、広に移って養源寺となりました。法華壇では今も毎年416日に円善供養会が行われています。 

そして、その裏手には「大峠の地蔵」が安置されています。この地蔵の右に「是より紀三井寺七里」、左に「享保廿卯(1735年)十月十五日」と刻まれており、道標を兼ねています。また、この地蔵は「痔の神地蔵」と「縛られ地蔵」とも呼ばれています。水と米を供え、戴いて帰って粥にして食べると痔が治り、尋ね人があると地蔵に縄を掛け、見つかると解く風習があるといわれます。

そこから暫く石畳を進むと鹿ケ瀬峠=大峠に到着します。石畳が無くなったところからが日高町になります。

大峠頂上は広い敷地で石垣が残り、茶屋・旅籠があったそうで昭和の初期までここに住まいをしていた玉屋もありました。そこからは土道になり小峠にあり木の根っこに中に安置された馬頭観音を過ぎると石畳が現れます。

江戸初期頃に設置されたといわれる石畳は503mあり日高町指定文化財にしていされています。ところが、503m終わったところから丸石が置かれた石畳が始まりますが、これは平成10年ごろ作られた新しい道です。電線の無い古道を進むとベンチが置かれた休憩スペースが幾つかあり、日高町文化財指定された題目板碑(ダイモクイタヒ)を過ぎて、やっと 金魚茶屋の手前にあるトイレに到着しました。そこで昼食休憩にしました。午後からは車道をひたすら歩くことになります。沓掛王子、法華経塚道標を訪ねて、爪書き地蔵に到着。弘法大師が石に爪を立てて地蔵を刻んだと言われるお地蔵様です。黒竹の緑の竹林を見ながら歩くと四つ石聖蹟地が出てきました。29回熊野詣でされた後鳥羽院が熊野詣でした時に座って休まれた場所だと云わっています。西の馬留王子跡、明治期の道標を過ぎた後、右に進んで滑橋を渡って対岸に行きますと田圃の中にあるこんもりした山に向かいます。10年以上前は道がなく、田圃の畔と溝の縁を歩いていました。今熊野神社は石段が108段あり、疲れていたのでやむ終えず参拝するのをあきらめました。その先に内ノ畑王子跡があります。そこから30分かけて高家王子跡まで行きました。橋の袂に新しくトイレが出来ていて様子が様変わりしていました。電車の時間を気にして、記念写真撮影の後、参加者の皆さんは参拝もそこそこに紀伊内原駅に向かって歩き出してくださいました。お陰様で当初予定した電車より2本早い電車に乗ることが出来ました。暑い中お疲れ様でした。ありがとうございました。

 さて、今回訪れた二つの馬留王子と沓掛王子跡の説明が統一していなかったのでお詫びさせていただきます。

馬留王子社跡は一般的には「この王子社を過ぎて暫く行くと山道となり熊野参詣道の難所になるので、坂の入口で草鞋をはき、馬を留メタ」と言われていますが、広川町のHPでは馬留王子跡には具体的な説明がありません。

日高町のHPでは、「沓掛王子跡は昔、牛馬の蹄を保護するために藁でつくった沓(靴)をはかせていました。ここで、人も牛馬も新しい沓にはきかえて厳しい峠越えに備えたのでしょう。」、「馬留王子跡:峠越えに備えて、馬に飼い葉をあたえたり休息させたことから、その名がついたと考えられています。」と掲載されています。また、御幸時代の「中右記(1109年の熊野詣)」には沓掛王子の記載はなく、馬留王子も1つしかありません。そして「後鳥羽院御幸記(1201)」には馬留王子の記載がありません。

江戸時代に書かれた『熊野道中記(若山から熊野までの道案内書)』には、津の瀬王子の次に、沓掛王子、次に鹿ヶ瀬山が載せられており、この王子は沓掛王子と呼ばれていたことが知られます。ところが、『紀伊続風土記』では、この王子を沓掛王子というのは誤りだとして馬留王子社と書いています。

現在、同じ日記の中で二つの馬留王子と沓掛王子が存在する内容のものは、発見されていません。これらの事から、鹿ヶ瀬峠を越える時は、御幸時代は馬を降りて歩き、時代が下ってくると馬を使ったりしているようです。(小野田)

      
               JR湯浅駅                    満願寺           国道42号線へ向かう途中       日高町の503mの石畳



第219回定例会 平成29年4月1日()

「紀伊山地の霊場と参詣道」の追加登録エリアを歩こう!第13回

  高野参詣道・黒河道 約19km

平成29年度第1回目4月の定例会は、道の途中にある九度山町市平の春日神社には桂の木があり、

その花が満開になるのは4月初旬とのことで日程を早めて、41日に開催しました。 

河道は、高野山町石道より東に位置することから、橋本市や奈良県方面からの利便性が高かったともいえます。

3つの峠を越えますが、高野山や周辺集落の生活道としても重要な役割を果たしてきました。

歴史的には、 文禄3年(1594)高野山青厳寺(現:金剛峯寺)において、山内禁令の能狂言を催した太閤秀吉は、

急な雷雨を大師の怒りと感じ、黒河道を馬で駆け下ったという伝説があります。そ

して江戸時代後期に作られた「紀伊国名所図会」(高野山・伊都関係)には、麓の村々より農作物を高野山の寺院に送る「雑事登(そうじのぼり」」が紹介されています。

これは昨年暮れに復活されています。


定例会当日は小雨で少々肌寒い中、JR橋本駅から5名で出発しました。

駅前にある「はしもと広域観光案内所」で世界遺産登録後の黒河道のルートマップがないか尋ねたところ「6月頃に完成」との事でした。

そこから民家の間を通て、高野中興の祖・木喰応其(応其上人)が荒れた里寺を再建した「応其寺」に到着しました。

山門をはじめ本堂・鐘楼などがあり、寺宝として 豊臣秀吉から送られた唐子織袈裟や応其書状等の古文書・古記録類を所蔵していますが、

先を急ぐので参観は割愛しました。また、上人が紀の川に橋をかけたことが橋本市の名の由来となっています。

その橋の袂にお堂があり、沢山の道標やお地蔵様が集められていました。

橋の前の道を修復する時に集められたと思われますが、その中の一つに4面に説明書きがある道標がありました。

その昔は道の真ん中に立てられ、東西南北へ行き交う旅人の助けをしていたのでしょう。

そして橋を渡って民家の中の細い道を進むと、定福寺(ジョウフクジ)が現れました。なんと道の脇に「里程1」があるではありませんか!

「里程」とは、昨年10月に追加登録された時、「追加登録関連施策」の中の「受入体制の整備」で「市町の標識等(里程や補助板)設置に対する補助として設置されたものです。

中辺路町の例から考えると500mごとに設置されているはずです。今まで2回黒河道を歩きましたが、道標が少なく、道に迷って困っていたので、安心な気持ちになり道を進みました。

先ず最初に定福寺の裏山にあるどばい坂向かいました。ここから五軒畑岩掛観音様の所まで舗装道の急な登り坂が続きます。

けれども五軒畑岩掛観音様のいらっしゃる所は、紀の川と橋本市内が一望できる景色の良い場所でした。

次に向かうのは、「鉢伏弘法井戸」。古い標識には「祠」としか明記されていません。

車道を離れて山道へはいったり、ロープを頼りに車道を降りたりしているうちに明神ヶ田和へ到着しました。

黒河道の橋本からの初めての峠で、「たわむ」から田和と変わったそうです。

また、ここには「国城山」、「紀伊清水駅」、「橋本駅」、「黒河道の青渕コース」、「黒河道のわらん谷コース」と沢山の標識があって

、初めて来ると東西南北の方向が解らなくなってしまう程です。私達は、世界遺産追加登録された「黒河道のわらん谷コース」へ進みました。

コンクリートで作った舗装道を給水施設の小屋まで下り続けます。その小屋の先は、

小川に沿った人工林の中に道になるため、やっと土道になりましたが、昨夜の雨でぬかるんだ道になっていました。

幾カ所に木の橋が架かっていました。

滑りやすくなっていてたので、体重制限を考え一人ずつ渡るようにしました。 

里程があったので迷わずに歩けました。そして突然車道に出ました。そこが市平橋へ通じる車道です。


雨は止んでいましたが曇空の中、山が一カ所、薄桃色になっています。「あれかな?」と期待しながら、舗装された坂道を登りました。

柿畑の道を進み、看板に沿って山を登り、ししがきを開けて通り山道を進むと石の階段がでてきます。

その石段の下にも上にも鳥居はなく、殺風景で寒々とした中に小さなお社が3社並んでいて、その後ろに灰色の老木がありました。

「花は?」と、狭い境内を5人で一生懸命に花と落ちているかもしれない花ビラを探しましたが見つかりません。

老木の枝の先端の方に花が付き咲いているのかもしれないのですが、曇空に負けて見えないのです。

「寒いから、早かったのかな?」と諦めきれない気持ちを持ちながらも出発しました。

そこから暫く、林道の中の急な登り坂を進みました。

そっとのことで林道合流地点に到着し、遅めの昼食をとりました。


午後からは、太閤坂コースを進み、久保小学校に到着。学校の小さな運動場を越して、

粉撞峠へ向かおうとした時、反対側の道で作業していた地元の方から

「黒河峠は、こっちやで!朝から外国の人にも説明した!」と声をかけられました。

それで、世界遺産に追加登録された道に行くことを大声で叫びました。

すると「雪、積もってるで!」と教えてくれました。

実は、今回田辺市から参加されたご夫婦は、龍神スカイラインを通って高野山まで来るはずが積雪で通れず、

ルートを変更して和歌山駅から電車に乗って来られたのでした。天気予報では「雨」しか確認していなかったので、積雪は思いもよらない事でした。

そして茶屋堂へ到着。ほぼ時間通りに到着しました。次の名勝旧跡の「太師の足跡がある大黒岩」と「高野豆腐製造工場」

を探しながら道を進んでいきましたが、標識はなく、夕べ降って木の葉に積もった雪が沢山落ちてくるだけでした。

すると里程23を過ぎた辺りから道に積もった雪の量が増えてきたのです。結局「大黒岩」と「高野豆腐製造工場」は見つかりませんでした。

そして、急な登り坂を登って東郷分岐を雪池山へ行かない道を進んだ所にある里程24の周辺からは、

積雪がで滑りやすくなっていて思うように足を進めることが出来ません。

時々木の葉から落ちる雪の音以外は、音のない一面銀世界になっていました。

橋本市教育委員会が発行した「黒河道を歩く」のマップにも説明がありましたが、ここから粉撞峠までは滑りやすい道が続いているようでした。

道が右側の路肩に向かって斜めになっていて真っすぐに歩くと路肩に体が流されていきます。

路肩の先は人工林の急な斜面。5人でゆっくりと滑らないよう落ちないように歩きました。

里程25を見つけた時、15:25になっていました。茶屋堂を出発してから約85分で粉撞峠へ到着する予定が、既に過ぎていました。

「粉撞峠まで何kmあるのか、警察に電話してみてもいいですか?」と声をかけましたが、先ずは高野山観光協会に電話してみました。

すると指がかじかんでちゃんと電話番号を押せなかったようで、宿坊協会の女性の方が出られて「観光協会はお休みなので承ります。」とのこと。

それで「今朝JR橋本駅から黒河道を歩いてきて里程25まで来たんですが、すごく雪が積もっていて歩けないんです。粉撞峠までは後何kmありますか?」とお尋ねすると、

「リテイってなんですか?どこにいるんですか?」と質問され、里程の説明をしたのですが皆目わからない様子なのです。

時間がかかって携帯電話の電源が無くなると困るので、里程の話は止めて、雪池山の近くに居ることを説明しました。

「雪池山がどこにあるか聞いてきます」と言われ、待った時間は本当に長かったです。

そして「高野山の町内まで近づいています。雪池山から一本杉までは約1kmくらいです」と答えてくださった時は、嬉しくて涙が出てきました。

粉撞峠から女人道を通て一本杉までは何度も歩いたことがあったので、「もう少しで峠です!」と叫びました。そして峠に到着。里程の数は26でした。

つまり里程2526の間を約35分かかって歩いたことになります。


 峠で記念写真を撮ってから一本杉へ向かう女人道に積雪は殆どなく驚きました。車道へ出てトイレをみつけ、やっと落ち着きました。

そして、バス停を探していると地元の女性と遭遇し、警察署前のバス停を教えてもらい、向かう方向が同じだったので暫く一緒に歩いていた時に「

夕べは、すごく雪が降って、途中からボタ雪になったので積もったんですよ」と教えられました。


そして黒河口女人堂へ到着。本日の黒河道ウォークの終着点につきました。 

そこから警察署前のバス停までは遠くなく、バス停に到着したら余り待つこともなく路線バスが来て乗車。

参加者の皆さんのおかげをもって遭難せずケガなく終えることが出来ました。ありがとうございました。

本当にお疲れ様でした。


                      
定福寺の前の里程                    市平の桂の木                         里程24での積雪              粉撞峠は女人道と合流する場所で                 


第218回定例会 平成29年3月19日()

「紀伊山地の霊場と参詣道」の追加登録エリアを歩こう!12回清水峠

定例会当日はとても暖かい朝になり、JR紀伊田原駅から18名で出発しました。

駅前から清水峠の入口までの国道42号線沿いを歩く約3.3kmの間には、追加登録後の「和歌山県の受入体制の整備」として

誘導板』、『解説板』と『 市町の標識等(里程や補助板)』が設置されていて、ルートマップが探しづらい「清水峠」では、心強い存在になっていました。

42号線沿にある「堂道のお地蔵様(右ハくまのみち 左ハこざみち)」では運営委員の久保様が真言を唱えてくださって、本日の旅路の安全をお祈りしました。

そこから42号線と線路の間にある湿地帯の42号線側に作られた遊歩道を歩き進みます。この湿地帯はその昔「水田」だったそうですが水がひかず、今は使われていません。

また国道に戻り、坂道を登ったところに「清水峠」の入口看板がありますが、先に昭和2年建立された「口熊野奥熊野境界址」を見に行きました。

今は田原(串本町)と浦神(那智勝浦町)の境界になっています。そこから少し戻って、国道から棒杭の谷に入って浦神に抜ける清水峠へ向かいました。

入口には和歌山県が3月初めに新たに設けた押印所がありました。

これは世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に県内22カ所が追加登録されたことを受け、

これまで押印帳などに押すスタンプがなかった「北郡越」や「潮見峠越」など11カ所に押印所を設けた一つです。

スタンプは全部で92カ所となり、すべて集めた人には「『高野・熊野』和歌山四参詣道“超(スーパー)”完全踏破証明書」を贈るとのことです。

押印所から清水峠の入口までの間の平地には、養蜂家がいくつも箱を置いてあり、ミツバチが沢山集まってきていて羽音が軽やかに響いていました。

そこから小川を渡ってからの1.7㎞の区間が追加登録されました。

古座川弧状岩脈の延長である火成岩脈の峰に挟まれた谷を上っていくと、上田原と浦神へ行く分かれ道になり、その先に「右上田原左大へち」と刻まれた石の道標があります。

これは、「大へち(大辺路)」と表記された唯一の道標と言われています。

そのあたりから、帰りの電車の時間が気になってきました。予定通りの紀伊浦神駅13:34発に乗ると和歌山駅に18:37に着きますが約5時間かかります。

その理由は、JR紀伊田辺駅~新宮駅間の午後の電車の本数が少なく、串本駅で約40分、紀伊田辺駅で30分、御坊駅で14分乗継の待時間があるからです。

このため1本前に出発する12:18の電車に乗れば16:36和歌山駅に到着できるのですが、久保様に見どころを説明していただく時間がありません。

そこで参加者の皆さんに発破をかけ、急いで歩いてもらいました。

石畳を降りたところにある根が地上に張り出している大きな老木の前で観音経のお念仏と薬師如来の真言を久保様に唱えていただき、

記念写真を撮らせてももらいました。そこから暫く下ると、地元の方が作った「津波災害避難小屋」があり、それを背にした場所からは、浦神湾が綺麗に見えました。

 参加者の皆さんのおかげ様で紀伊浦神駅に11:55に到着できました。

今回の定例会開催にあたり、久保様に下見をしていただき、当日もいろいろと準備していただき本当にありがとうございました。

 今年度は、多くの方のご協力いただき追加登録エリアを歩くことができました。ありがとうございました。平成29年度もよろしくお願いします。

 

           
JR紀伊田原駅前にある道標      国道42号線沿いにある湿地へ向かう         清水峠の「大辺路」道標手前の分かれ道で

  

   


第217回定例会 平成29年2月19日()

「紀伊山地の霊場と参詣道」の追加登録エリアを歩こう!11回北郡越ほくそぎごえ

定例会当日は、とても暖かい朝になりました。

JRきのくに線の車窓からは梅の花が満開に咲いているが見えました。

先月の吹雪とは大違い!一か月ですっかり春めいてきました。

今回のコースの「稲葉根王子」から富田川沿いに北郡を経て清姫の里に至る道約10kmの中に、

「紀伊山地の霊場と参詣道」の追加登録された「北郡越(資産の面積は0.19ha 距離は1.6km」)が含まれています。 

出発の「稲葉根王子」は、熊野九十九王子のうちで格別の崇敬を受けた五体王子の1つで、目の前の岩田川(現富田川)は、

熊野の霊域に入る前の重要な水垢離場にもなっています。そこから潜水橋(畑山橋)を渡らず興禅寺に向かわず311号線を歩きました。

途中から旧道に入りますとお地蔵さまや庚申塔に出会いました。

市ノ瀬橋を渡ろうとした時、青空の中に白いだるま様がはっきり見えました。

興禅寺さんにある昭和49年に建立された日本一を誇る白いだるま像です。

そのまま暫く川沿いの舗装道を歩き新しく建設されたトイレを通り過ぎて「一ノ瀬王子」に到着。

また舗装道に戻り加茂橋渡り311号線を越えたらすぐに急な坂道を登ります。今回のコースで一番の難所です。

頂上近くにある「花折地蔵」から見た富田川は美しく穏やかで、応永三十四年(1427)に参詣した僧実意(じつい)が

「女院が渡る時は、白い布を二反結び合わせて、女院が結び目を持ち、布の左右を殿上人が引いた」と日記に書いた光景が浮かんできました。

そして「鮎川王子」に立寄り、「住吉神社」で昼食にしました。

午後は「御所平のお薬師」さんにお参りしてから「藤原定家歌碑」へ到着。

梅畑の畦道を進んで山際の道へ入りました。「道祖神と庚申塚」の案内板が出てきます。

平成23年の紀伊半島大水害で傷んだ場所はありますが、歩きやすい土道が続きます。

蕨尾橋の下をくぐって「大うなぎ生息地碑」を過ぎて進むと急な登り坂になります。

そして登り切った所に大きな資材置き場が現れました。大きくえぐられた場所に驚きながら道を進むと

「新旧二体庚申塔」と「徳本上人碑」と「御日待供養塔」が現れて、やっと動揺していた心が落ち着きました。

そこから北郡集落の合流地まではすぐです。また311号線を横切って北郡橋を渡り旧県道を歩いて、「清姫の墓」まで来ました。

当日までに調べて準備していた北郡越の地図では、史跡登録エリアが解らず、

「何処からどこまでが世界遺産登録エリアだったんだろう?」と歩きながら参加者の皆さんとお話ししていました。

それで、平成29225日に開催された「和歌山県で世界遺産マスター全体説明会」に参加した時に、

来られていた和歌山県教育庁生涯学習局文化遺産課世界遺産班の方に質問させてただいたところ、

登録された史跡場所は、『「藤原定家歌碑」から梅畑の畦道から山側へ入る少し段になって道が上がっている所から

北郡集落の在所の舗装道までの間で資材置き場部と道路橋下以外の1.6kmが、今回世界遺産に追加登録された史跡区間になります。』

と教えて頂きました。思っていた以上に長い距離が史跡登録されていました。良かったよかった(^^)

       
旧道にあるお地蔵様      北群越の途中にあった大きな資材置き場     「新旧二体庚申塔」と「徳本上人碑」と「御日待供養塔」


第216回定例会 平成29年1月15日()
「紀伊山地の霊場と参詣道」の追加登録エリアを歩こう!10
神社~八上王子跡~稲葉根王子跡 約12km

 平成29年初歩きは、日本全国大寒波に覆われ、時折吹雪く冷たい寒い天候になりました。

京都で開催された「皇后杯第35回全国女子駅伝」ではテレビ中継途中、ランナーの順位が見えない程の吹雪きになっていました。

  JR田辺駅から10人で出発し、先ず昨年10月大辺路に追加登録された「闘鶏神社」へ向かいました。「
   闘鶏神社」は創建は伝承によると允恭インギョウ天皇8年(424年)とされています。
   熊野坐神社(現在の熊野本宮大社)より勧請したもので、当時は田辺宮と呼ばれていたそうです。
   今年の初詣客が多かったそうで参拝する為に行列ができていたそうです。
   当日も寒かったですが参拝客と弁慶市に来られていた人も多かったです。
そして往来する沢山の車に注意しながら、参道の鳥居の下に設置されていた世界遺産の石碑前で写真を撮りました。
そこからJR紀伊田辺駅近くに200軒以上の飲食店が並ぶ「味光路」へ向かいました。
この道は、昨年1218日、田辺市内のホテルで開催された世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の
追加登録を記念したフォーラムで基調講演をした作家で世界遺産熊野本宮館名誉館長の荒俣宏さんが話された
「新しい熊野古道」と言われた道ですが、元々地元の方が移築された門があり、「旧熊野街道」と書かれてありました。
そのまま細い路地を抜けると「蟻通神社」が現れます。
「蟻通神社」は、地元では「御霊さん」と呼ばれ親しまれている知恵の神様です。
境内にある楠の木は、安政の大火の時に水を噴いて町を守ったという伝説があります。
神社を後にし商店街を通って北新町商店街に行くと「道分け石」の道標に着きました。
高さ218cm、幅厚約30cmの石製角柱で、安政4(1857)の秋、大阪西横 堀炭屋町の石工・見かげや新三郎が再建したものです。
北新町のこの場所は三栖口ともよばれ、熊野道の中辺路と大辺路の分岐点で、本町・栄町方面からやってきた旅人は、
「左 くまの道」に従って普通は万呂・三栖方面(中辺路)へ進み、「すくハ 大へち」とあるのは直進すれば礫山・新庄方面(大辺路)へ続く事を示しています。
逆に万呂方面からやって来ると「右 きみゐ寺」に従い栄町・本町へと進むことになります。
近世になって城下町が賑わうようにと熊野古道を街中に通すようになりました。
神坂次郎氏著の紀州史散策によると江戸中期の享保元年(1716624日からの6日間で田辺に泊まった参詣人が4,776名もあったそうです。
しばらく街中の標識に沿って歩きJRきのくに線の線路を渡り、「高山寺」へは行かず(左へ曲がらず)
まっすぐ進むと「でんにゅうあん地蔵」に到着します。そこから会津川の土手にある「万呂マロ道分け石」すぐです。
  その土手からは、国道42号線の田辺バイパス周辺は大型のショッピングセンターが立ち並んでいるのが見えます。
  それら店舗と車道の間を歩き進み国道をわたると「須佐スサ神社」の杜が見えてきました。
  石段をあがると珍しく本殿が開いていて、大きな鏡がこちらを向いて光っていました。中ではご祈祷がされていました。
  須佐神社の坂道を下りて車道に戻り、左会津川の堤防を歩いていきます。途中梅畑の中に残る「万呂マロ王子跡の碑」に立寄りました。
  藤原定家の熊野御幸記(1201年)には、「山を越えて丸王子にまいり」とありますが、現在その山はまったく確認できず、
  また社地は小さい森になっていたそうですが、明治10年に須佐神社に合祀され、その後、田になってしまいました。
  梅の木は遠くからみると寒々しい枝でしたが、近づいてみると蕾が沢山ついていて、春は確実にやってきてるんだと実感できました。

まっすぐ農道を歩き、道の北側にある「三栖廃寺塔跡ミスハイジトウアト」に立寄りました。 

また農道に戻って下三栖の在所まで行き県道に合流してから南側の山手に入っていきます。
その頃には小雪がちらつき始め「三栖ミス王子」へ到着する頃にはだいぶ吹雪いてきました。
御幸記にはミス山王子と記されていますが、すぐ側を流れる谷川に王子社が映って見えることから江戸時代には主に影見王子と呼ばれていたそうです。
その山から下りて車道にでて、また山を登って下って車道におりてと2回繰り返してから「八上ヤガミ王子」手前にある
“新岡坂トンネル”の上の道を歩こうと進んでいくと途中から歩けず、迂回路の約1.8kmを歩かなければならなくなりました。

    まっすぐ行くと約1kmもありませんから、ほぼ2倍時間がかかります。時折小雪が舞い、横風吹き荒ぶ中、迂回路を進みました。やっと「八上王子」に到着しました。

    今回追加登録された資産です。上富田町では「稲葉根イナバネ王子」と一緒に初登録となりました。
    八上王子近くにはトイレが新設され、お昼休憩にしました。先ほど吹雪いていたのは噓のような暖かい日差しが射してきました。

   今回の終着点の「稲葉根王子」から乗るバスの時間を考えて昼食時間を20分で終えて出発しました。

田中神社まで来ると、また凄い吹雪になってきて、大賀ハズの池も見ずに参拝も早々に出発しました。

次に向かう「稲葉根王子」には3つルートがあります。旧 311号線ルートと稲葉根トンネルルートと王子谷ルートです。私たちは山を越える王子谷ルートを選びました。

「和歌山県街道マップ(和歌山県観光連盟)」の「紀伊田辺駅~稲葉根王子」のマップには、「道が荒れている所で十分注意すること」と注意書きがありますが、
私は過去に5回歩いていたので大丈夫だろうと歩き始めました。
ところが先ず驚いたのは、熊野古道から王子谷越へ入るところに標識がなかったことでした。
そして、入ってから民家の中を進みますが詳しい道標は少なく、民家から山道へ進んで、
山道の急坂をよじ登るように這い上ってから稲葉根王子」へ到着するまで3カ所しか道標がなかったです。
それらの道標は古く、多分1999年の南紀熊野体験博の時に立てられたものか思われますが、初めて歩く方には心細い道標になってしまうように思いました。
山中に入ってからは、倒木や枯草が覆いかぶさり、道が無くなっている所がありましたが、
黒いゴム製で作った階段で補強した道を探しに探して歩きましたが1カ所道に迷ってしまい、会員さんに道を教えてもらって迷子にならずすみました。

ここは私たちで左手の草むらを滑るように降りて、ふさがれている道の先へ辿り着きました。 

私は先ず背伸びをして竹の束を抱え、上に馬乗りに乗ってまたぎ越えましたやっとのことで山を下りました。
おりた所にある民家で飼っている犬がけたたましく鳴いていましたが、無事に下山できた、
現実社会の証のように思えて全然イヤな気持ちにはなりませんでした。「稲葉根王子」での参拝もそこそこにバス停に向かいました。
予定より1本早いバスに乗って帰ることが出来ました。
悪天候の天気予報にもめげず参加していただきありがとうございました。寒い中、お疲れ様でした。
                  
JR紀伊田辺駅近くの「味光路」は旧熊野街道といわれる   三栖王子から八上王子へ向かう山道は迂回路を通った           稲葉根王子前の山道


◆第10回熊野学フォーラム『特集!熊野学』

開催日:1月21日(土)13001700

「熊野」をフィールドに、歴史・文化・民俗・宗教・自然 など様々な事象を対象とするあらゆる学問の参加を得て、熊野を探求しようとする「熊野学」。今年で第10回を迎えられました。

3つの分野から熊野にアプローチし、熊野学について語られたフォーラムに参加して参りましたので報告します。(小野田真弓)

 

 

【プログラム】

1.キックオフ講演 「なぜ人は熊野を目指したのか」 林 雅彦さん(明治大学名誉教授、唱導文化研究所代表)

2.考古編「熊野信仰と大峯奥駈道の考古学」     橋本裕行さん(奈良県立橿原考古学研究所)

3.宗教民俗編「日本一の熊野信仰」            山本殖生さん(熊野三山協議会幹事)

4.近代文学編「熊野からみた 佐藤春夫と中上健次」 辻本雄一さん(新宮市立佐藤春夫記念館長)

5.新宮市魅力発信女子部・明治大学コラボプロジェクト報告会

6.座談会<熊野(くまの)円座(わろうだ)>   「熊野学のすすむ道!」     

 

今年で第10回を迎えられた「熊野学」。私は初めての参加でしたが、1000名の定員に対し会場は高齢者の方を中心に、ほぼ満席でした。

当初、“キックオフ講演「熊野学は未来学だ!」”を担当予定だった山折哲雄先生が体調不良により、

明治大学名誉教授の林雅彦さんが代講されることになりました。

林先生は、講演テーマ「なぜ人は熊野を目指したのか」で、時代を追って様々な階級の方が熊野へ来られた事例をだしてお話しされました。

3つの分野の一番目は考古学遍として、奈良県立橿原考古学研究所の橋本裕行さんが、大峯奥駈道で活動された経験をもとにお話しをされました。

 二番目に宗教民俗編として話されたのは、皆さんご存知の熊野三山協議会幹事の山本殖生さんです。

「日本一の熊野信仰」について、古い資料から新しく始めた調査の内容まで、驚くべき情報量をスピーディーに解りやすくお話しされました。

 最後に近代文学編としてお話しされたのは、新宮市立佐藤春夫記念館長で辻本雄一さんです。

辻本さんは作家中上健次が主宰した「熊野大学」に発足時から関与された方で「熊野からみた 佐藤春夫と中上健次」について話されました。佐藤春夫氏と中上健次氏が日本文学に与えた影響や大逆事件との関わりは私にはとても興味深いお話しでした。

その後、新宮市魅力発信女子部と明治大学コラボプロジェクトの皆さんから活動の報告がありました。先ず、明治大学コラボプロジェクトの皆さんが平成289月に新宮市を訪れ、開催したワークショップのお話しをされました。続いて新宮市魅力発信女子部の方から“新宮に旅するブックカバー”、“ハイヒールラン”、“新宮絵本箱”の企画のお話しがありました。受付でも“新宮に旅するブックカバー”が販売されていました。

 最後に、“座談会<熊野(くまの)円座(わろうだ)> 「熊野学のすすむ道!」”が行われ、林さんが進行役となり、橋本裕行さん、山本殖生さん、辻本雄一さんがお話をされました。

様々な意見がだされましたが、「熊野は、近代社会の問題が詰まっている。死を考えるのにふさわしい場所ではないか」、「熊野学は少し閉塞感がある」、「那智大社が1700年で青岸渡寺が1300年、白山も1200年で日本の山岳信仰巡礼を考える良い機会かもしれない」、「日本の無意識の世界を表しているのではないか」など、面白いお話がきけました。

そして「四国がお遍路さんの世界遺産登録にため動いている。“四国巡礼と熊野”があがってきている」、「八咫烏の国際シンポジウムが開かれるかも?八咫烏は東南アジアに繋がる」、「海と川の熊野学」、「日本の移民文化、熊野の人が早くに移民している」という問題定義もされました。

まだまだこれからも「熊野学」は広がっていきそうです。

 




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