熊野古道

熊野古道kumanokodou


熊野古」とは、中世以来、紀伊半島の南に位置する熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に詣でるために、

平安時代の延喜7年(907)宇多法皇の御幸にはじまり、貴族、武士や全国の庶民に至るまで、約千年に渡って多くの人々に歩かれた参詣道です。

この「熊野古道」が通る一帯は、”人を寄せ付けない神秘的な自然環境”であることから昔から神々が宿る特別な地域と考えられ、

自然崇拝を土台に、神道や仏教さらには修験道や真言密教というまったく違った宗教を区別することなく受け入れ、

そのままごっそりと抱きかかえながら今世紀までやってきました。

京都を出発点に大阪府内、和歌山県田辺市までを《紀伊路》、

  田辺市から熊野三山まで海岸線を《大辺路》、紀伊半島を横断する《中辺路》、高野山と本宮間が《小辺路》。

 また、本宮大社と速玉大社をつなぐ《熊野川》も「川の熊野古道」として信仰の対象とされています。

 伊勢から入り熊野灘に沿って歩かれた道が《伊勢路》です。

 さらに、奈良県吉野と本宮をつなぐ《大峯道》は、山岳修験の修行場でもあります。

 その殆どが山越えの険しい峠道で民家もなく行き倒れも多く難行苦行の修行の旅でありました。

そして地元の人々の協力(ボランティア)があり、病気や障害をもちながら決死の覚悟で歩く人も少なくなかったこの地は

『蘇生よみがえり』の場所として身分や老若男女を問わず沢山の人が集まり(バリヤフリー)、自然と向き合った場所であります。


熊野信仰kumanosinkou

熊野信仰とは、紀伊半島にある熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社) を中心とする信仰のことです。

熊野信仰の起源は、熊野三山のそれぞれの神社に根差したルーツの異なる自然神信仰で、

それらは縄文人に信仰された自然神信仰を基調とする原始神道であったとされています。

その殆どが山越えの険しい峠道で、民家もなく行き倒れも多く、難行苦行の修行の旅の果てに辿り着く熊野三山が信仰をあつめたのは、

本地垂迹説(神は仏の化身であるという思想)に基づく神仏習合信仰(神と仏を一体と捉える思想)と

浄土信仰(末法思想=1052年を末法元年とし、仏法が衰え世も末になるという思想)が一体化した信仰になる中、

本宮が西方極楽浄土(来世の救済)、速玉が東方瑠璃光浄土(過去世の罪悪の除去)、那智が南方補陀落浄土(現世の利益)に見なされ、

人々の信仰がますます深まっていったからです。

そして、信不信をえらばず、浄不浄を嫌わず、貴賎や男女の隔てなく、誰でも受け入れことにあるといえるでしょう。

また、修行の度数の多さによって功徳を積むと考えられていたため、院政時代には熊野信仰は最盛を極め、

「蟻の熊野詣」という言葉の通り熊野信仰は盛んになりました。

室町時代には、武士や庶民の参詣が盛んになりました。

江戸時代になると、紀州藩主が熊野三山の復興に力を入れ、再び「蟻の熊野詣」の最盛期を迎える事ができたといわれ、

伊勢詣と並び、全国各地から数多くの庶民が参詣したのです。

日本各地で修験者(先達)によって組織された熊野詣がシステム化されて行く中、熊野三山を訪れた多くの人達は、

地元に熊野の神様を勧請(カンジョウ=分霊を他の神社に移す事)しました。現在その数は4,000社を超えるそうです。


★王子社(おおじしゃ)とは?

京都から淀川を船で下り、大坂天満の渡辺の津に上陸し、そこから摂津国の天王寺、住吉を経て、和泉国を通過して紀伊国へと、

陸路を南へ八十余里の熊野街道筋の要所要所に、遥拝所、休憩所として設けられたのが、熊野権現の末社である”王子社”です。

数が多いことから、熊野九十九王子とよばれています。

















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